緊急連載 大学から震災の灯は消えたか 第7回

自然なかたちで語り継ぎ
大学に残る震災の「場」<下>
 
倒壊した校舎が描かれた真鍮のプレート(7月10日・大手前大で 撮影=福田公則)
 夙川の桜並木を歩いていくと、閑静な住宅街にまじって大手前大学(西宮市)が見えてくる。キャンパスの中庭には、ハクモクレンの若木が2本並んでいる。震災で犠牲になった学生2人の追悼記念植樹として、今年2月に植えられた。

 本館の入り口に、倒壊した建物の姿が描かれたプレートがある。描かれているのは、震災で全壊した旧本館だ。縦40センチ、横50センチ、あまり大きくはないが、存在感のある真鍮製のプレート。このプレートは1996年3月、震災で全壊した本館の建てかえの際に、はめ込まれた。
 スケッチの下には、震災で犠牲になった岩崎敦子さん(当時=英文学科4年)と黒田真貴さん(当時=日本文化学科3年)二人の名が刻まれている。プレートのスケッチを手がけたのは、美術学科助教授の井沢幸三さん。震災直後、急いで駆けつけた大学の本館は、倒壊していた。その姿を、克明にスケッチした。

 犠牲者の一人、岩崎敦子さんは卒業論文の提出日の前日、偶然戻っていた大学近くの下宿先で亡くなった。「もし地震が来るのがあと一日遅れていたら・・・」と設備課長の原恒雄さんはいう。
 震災当時、原さんは、救援物資の搬入などを手伝った。「毎日押し寄せる避難民への対応で精一杯だった。本学の学生の死を悲しんでいる暇もなかった」と当時を振り返る。

 大手前大では毎年1月17日、献花祭が行われている。「今は震災をゆっくりと振り返ることができる」と原さん。「献花祭の時だけはなく、震災を振り返ることは大事。学生たちにも、震災の事実を伝えていきたい」と話した。

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白鴎寮の中庭に建立された記念碑。両隣りに植えられた梅の木とともに、寮生の生活の場に溶け込んでいる(7月9日・神船大で 撮影=岩崎昂志)
 神戸市東灘区の神戸商船大学。震災モニュメントは、キャンパスから徒歩5分の白鴎寮にあった。寮生が行き交う中庭にたたずむ記念碑と2本の梅の木は、1995年の7月24日に設置された。震災の記憶とともに、当時の神船大生の活躍を刻む碑でもある。

 大阪湾に面する神船大では、海事の実習棟や艇庫など6棟が全半壊した。船着き場には亀裂が入り、隣のグラウンドの地盤にまで浸水。石の正門も倒れ、周辺のアパートなどに住んでいた学生4人をはじめ、学校関係者12人が死亡した。
 震災の混乱のなか、すぐに動き始めたのは白鴎寮生だった。以前から組織されていた自治会を中心に、寮生の安全を確認するとともに下宿に住んでいた学生仲間の救助を開始。寮に避難して来た周辺住民にも、毛布やストーブなどを貸し出し、緊急の避難スペースを提供した。

 記念碑には、当時の学長名で「阪神・淡路大震災における白鴎寮自治会の援助活動を記念し、ここに建立する」と記されている。寮内には内閣総理大臣や市民からの表彰や感謝状なども飾られ、寮生の活躍を物語っている。

 しかし、震災から8年が経ち、遠隔地からの入居者が多い寮では記念碑の存在は薄れてきた。「毎日、目に触れるものだけど、だからこそそんなに気にしない」と、自治会長の岸信喜さん。寮生同士、とりたてて震災の話をすることもないという。
 大学自体も、震災関係の行事をすることもなくなった。生活の場に溶け込んでいく記念碑に、「先輩の活躍を知るきっかけになれば、いいんちゃうかな」と学生課の田中係長。岸さんも「(震災時の)寮生の活動は伝えられている」と話す。

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 数多くの大学が震災モニュメントを残している中、神戸女学院大学(西宮市)には震災を思い起こさせるようなモニュメントが残されていない。「幸いにも、学生・教職員に死者がでなかったことが大きな理由」と学生課長の中井哲男さん。しかし、校舎の被害は決して小さなものではなかった。茶室は全壊。文学館で屋根が崩壊など甚大な被害を被った。
 その復旧作業は「思い出したくない(中井課長)」ほどの激務。そのかいあってか、今では「学生は学内を歩いていても震災をかんじることはないのでは(中井課長)」というほど震災の面影は残っていない。

 だが、学内には震災が確かにあったことを伝える場所がある。理学館・体育館などの裏にある地崩れの跡。ここは震災のあと補強され、そのままの形で残された。しかし、その存在を知る学生はほとんどいない。中井課長は「理学館と体育館をつなぐ渡り廊下を見ると震災を思い出す」と話す。
 現在の基準では許されていない渡り廊下の窓を「復元」という理由から特別にもとの形に直すことを許された。火災の際、煙の流出を防ぐために造られた壁だけが震災前と変わった箇所だ。

 ただ、渡り廊下のエピソードを知る学生のいない今、神戸女学院内に「震災」は残っていないといえるかもしれない。しかし、震災で得た教訓は大学内で生きている。
 震災当時、学生寮は回廊で迷路のようなつくりになっていた。しかし、ケガ人もなく全員が傾いた寮から避難できたのは「毎年徹底して行っていた避難訓練のおかげ」と中井課長。この結果を受け、神戸女学院の学生寮では今でも毎年一回の訓練が義務づけられている。
 また再び起きるかもしれない災害への対策。震災をキャンパスで感じる事はなくても、その教訓は息づいている。

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 明石海峡を望む丘の上にある、神戸学院大学(神戸市西区)。北門からまっすぐ坂を下ると、茶色の11号館が見える。その前の芝生広場で明石市立天文科学館から移設された青い大時計が、時を刻んでいた。

 震災で損傷を受けた時計は、午前5時46分を指したまま停止。天文科学館の時計は新型に取り替えられ、被災した時計は廃棄される運命だった。
 そこに「震災を風化させないという思いと、学祭が135度祭というなど日本標準時にゆかりがあったことから」(佐藤鉄太郎・法人課次長)と神院大が手をあげ、1996年10月30日に明石市から譲り受けた。そして、翌97年3月5日に、「震災復興の願いを込めて」大時計は再び、時を刻み始め、今に至っている。

 学内で学生数人に、時計の存在を聞いてみたところ、いずれも「あの建物の前にありますよね」との返事。学生が皆さん知っていますかとの質問にも、「神戸学院大の学生ならみんな知っていると思います」と学内での認知度の高さがうかがえる。
 だが、震災のこととなると「震災当時の学生はいなくなり、現在の日々の学生生活からは(震災というものが)感じなくなっているのが現状ではないか」と武仲哲彰・企画部次長は分析する。

大学のシンボルにもなっている、青い時計台。今も時を刻み続ける(7月8日・神院大で 撮影=吉永智哉)
 同大学でも、教授と留学生2人が震災の犠牲となった。毎年1月17日には、特にイベントなどは実施していないが、鎮魂と防災の思いを込めた学長からのメッセージを掲示している。武仲さんは、大時計にはその鎮魂と防災の思いを「わかりやすく語り継ぐという役割を担っている」という。佐藤さんも「卒業生がキャンパスを訪れる度にモニュメントの事が、話題にのぼることで語り継ぎになる。そして現在の学生も大時計によって震災があった町の大学で学んだということを、ひとりひとりの心に刻んでいてもらえば」として「自然な形での語り継ぎ」の重要性を強調した。
 「わかりやすく自然な形での語り継ぎ」の場を作り出す大時計。被災地の思いを込め、今日も時を刻み続ける。
【震災取材班 吉永智哉】

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 この連載では、さまざまな視点から震災語り継ぎの現状を検証していきます。次回からは、震災を知るきっかけ作りに大きく影響した「メディア」をシリーズで取材。学生新聞や、一般の新聞、テレビ、ラジオなどのメディアの活動を振り返るとともに現在の状況を探ります。
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