緊急連載 大学から震災の灯は消えたか 第19回

「被災地だからこそ…」
葛藤抱える神戸の教育
 
神戸市内の小中学校に配付されている震災教育のための副読本
 「かえって、神戸の学校ほど、震災について教えてないんじゃないかなぁ」。震災モニュメント「希望の灯り」を管理するNPO法人の理事長・白木利周さんは、三宮駅近くの串カツ屋でお湯割りのグラスを手に、ぽつりと言った。
 白木さんは、震災で、当時神戸大学の学生だった長男の健介さんを失った。悲しみに沈んだ時期が長く続いた。1999年、「神戸大で献花式がある」と耳にして出かけた、慰霊碑に出向いた。他の遺族らと話し合う場があった。それが、ボランティアを始めるきっかけになった。
 白木さんはボランティアで、県外から修学旅行などで神戸に訪れる小中高校生に震災の語り部をしている。先生たちも当時のことを熱心に聞いてくるという。その一方で、地元の神戸から語り部の話に聞きに来る学校は少ないという。

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 「しあわせ はこぼう」。神戸市教育委員会が小学校1年、4年、中学1年で配布す る震災教育用の副読本のタイトルだ。道徳、理科、社会といろいろな切り口から使えるようになっている。1995年からすべての市立学校に配付している。

 「じしんにも まけない つよいこころをもって なくなったかたのぶんも まい にちを たいせつに いきていこう」。小学校低学年用の副読本は、被災した神戸市内の小学校の音楽教諭が作曲した「しあわせ運べるように」の歌詞から始まっている。この歌は、震災関連の追悼式典でよく歌われている。そして「どうして 地しんは おこるの?」の項では地震の簡単のメカニズムに、「おじいちゃん、ぼくにもできるよ」などの項では当時の小学生の作文から助け合いの精神の重要性などに触れている。
 「人の死」については、4・5・6年生用で初めて触れられている。がれきの下から救い出されたが、長時間筋肉が圧迫されておこるクラッシュシンドロームで助からなかった女の子の母親の手記が掲載されいる。

 震災教育には3つの重要な柱があると神戸市教育委員会の上田利明指導主事は言う。「教訓を生かす、災害を防ぐ、思いの共有化」。そして1度壊してしまうと元に戻らない「命の大切さ」を語り継いでいかないといけないとも話す。では、どう語り継ぐのか、被災地の学校は悩んでいる。

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 激震地だった東灘区にある市立本山南中学校は、震災で生徒2人の犠牲をだした。毎年1月17日、「震災復興記念セレモニー」が開かれ、生徒たちは死者へ黙祷を捧げる。震災から5年がたった2000年のその日、生徒全員に作文が課せられた。ある男子生徒(当時13)は、みずからの震災体験を書いた。  震災前、生徒は父と母そして弟2人の家族5人の幸せな家庭で育った。そして、「あ の日」がきた。
 「ゴゴゴゴゴゴ・・・ガタンガタン」。
   振動がおさまるとすぐ、自力で倒壊した家からはいだした。家の中からは父の声がする。「この穴から出られる」と必死に呼び返した。父と弟1人の無事を確認した。母と末の弟は、絶命していた。

 その男子生徒は、震災で学んだことは、食料と水の大切さ、そして命の尊さだと作文に書いた。しかし、作文には、母と、弟の死について一切触れらていない。淡々と、むしろ明るい調子で書かれている。最後はこう締めくくられている。「家族3人で協力し合い、幸せな人生を送っていきたい」。

 「震災を直視できるほど、彼は震災体験を整理できていなかったのではないか」。  震災から5年目の、自分の学校の生徒の作文を読んで、桐藤直人教諭(57)は指摘する。桐藤さんは東灘区の市立本山南中学校で、5年前から震災復興担当委員をつとめている。赴任してきた98年当時、まだ多くの生徒が震災のショックから立ち直れていなかったという。
 生徒たちは「震災」という言葉に敏感に反応した。授業の中で、震災について話す 時も細心の注意をした。「生々しい表現を避け、生徒の気持ちを傷つけないよう心が けた」と桐藤さんはいう。

 授業で震災を取り上げることを躊躇した時もある。震災の話をすると、うつむいて しまう生徒もいた。直視できないのだ。
 しかし、最近、変化が起きている。と桐藤教諭はいう。「今の中学生たちは震災当時、4〜6歳。当時をはっきり覚えている生徒は少ないと思う」。桐藤さんは、道徳や、総合的な学習の時間で震災について積極的に語るようになった。
 震災から8年。被災地の学校でも、震災教育は広がりを見せるのだろうか。

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 震災で生徒8人の命を失った須磨区の市立太田中学校。ショックからなかなか抜け出 せずにいた。
 震災を授業で取り上げる時は、生徒の両親に、当時の状況の聞き取り調査を行う。授業担当で調査結果を検討し、生徒にとって辛い授業にならぬよう細心の注意を払ってきた。
 前平泰司教諭(36)は「当時幼かったといっても、フラッシュバックのような形で 震災を思い出し気分が悪くなる子もいる」と話す。

 桐藤さんも、「震災が原因で、住み慣れた土地を去らざるを得なくなったり、家庭が経済的に行き詰まったり、両親が不仲になったり。直接的でなくとも、影響を受けている生徒はたくさんいる。それもまたトラウマなのです」と認める。
  震災を体験した世代の子供達には、どのような震災教育をすればよいのか。
  震災を体験したからこそ、彼らに「語り継ぎ」を託せないのだろうか。

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 佐々木勉教諭(53)は震災当時、長田区の市立二葉小学校の4年生の担任だった。
 すぐ近くまで火の手が迫ったが校舎は無事だった。「やさしさわすれないで」とい うモニュメントが校庭に建っている。
 翌年の96年からは復興担当の教員として担任は持たず、被災児童の心のケアや震災 教育、学校で生活する避難者の対応などを行ってきた。副読本は、身近に資料がたくさんあったので、必要な部分だけ使用した。

力を入れているのが「震災語り部体験」だ。
 他の小学校と交流するときに、自分たちの地域がどのような被害を受けたかを他校の子どもたちに伝える。地震前と地震後の様子を比べたりして、一件の店の震災からの復興の様子などの写真を見てを話す。「子どもたちが地震を思い出さないかという心配もあったが、積極的にする方が重要だと思った」と佐々木教諭はいう。
 9月には、釧路沖地震もおきた。
「これからも担任を続けていく限り、震災のことは授業で触れていくと思う」と 意欲的だ。

 震災から8年、神戸では悩みながらも積極的に語り継ごうとする先生が確かにいる。
 しかし、「神戸での震災教育は、震災の体験のない先生が増え、難しくなってきている」と佐々木教諭は指摘する。
【震災取材班 福田公則、植中喬光、吉永智哉】

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