緊急連載 大学から震災の灯は消えたか 第21回
語り継ぎ半世紀 ヒロシマに学ぶこと |
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「わしが新任教師やった(終戦直後の)ころは、学校の建物なんかなかったけん、運動場に椅子並べて教えとったんよ」。 そう話すのは、戦後間もない頃を知る空辰男さん(75)。空さんは、広島平和教育研究所の元理事で、現在は語り部として、子どもたちに原爆の悲惨さを語り継いでいる。 「校庭には幼い子どもの遺体が並んでいたんよ。原爆の傷は、痛いほど伝わっていたと思う」と空さんはいう。 広島で、長く社会科の教師をつとめた難波隆宏さん(43)も、戦後直後の昭和20年代は教育の場で原爆が語られることは少なかったという。 広島の平和教育は、戦後10年を経て、転機を迎える。平和教育が大きく動いた時期が、昭和30年代にあった。 ○ ○
空へ両腕を一杯に広げた像が、平和記念公園内に建っている。 「原爆の子の像」。 像のまなざしは、反核の怒りに燃える「平和の灯火」に向いている。
しかし、小学校6年生の時に突然、原爆症と思われる白血病を発症し、広島市立赤十字病院に入院してしまう。 折り鶴を折れば病気が直ると聞いた禎子さんは、薬の包み紙などで、ひたすら鶴を折り続けた。 しかし願いはかなわず、終戦から10年後の1955年秋、12歳の短い生涯を終える。 悲しい知らせを聞いた級友たちは、「何とかせにゃいけん」と団結した。 禎子さんの死から3か月後、「広島平和をきずく児童・生徒の会」が結成された。この会には市内の小・中学校、高校の生徒たちも参加して、ビラを作ったり、街頭で訴えたりした。 日本中の子供たちの共感を呼び、全国の約3000校から、約450万円の募金が集まった。 会結成から約2年をへた1958年、「原爆の子像」の完成となった。禎子さんの物語は、世界各国で翻訳版が出され、「サダコストーリー」として原爆の恐ろしさ、核兵器の廃絶を、今も訴え続けている。 ○ ○
「サダコストーリー」で一時、大きなうねりをみせた広島の平和教育。 しかし、その後の平和教育が順調に進んだわけではない。 「原爆に関して聞くのはいつも母からだった」と話すのは、広島・平和記念資料館 主幹の増田典之さん(43)。 増田さんの母は、爆心地から10キロ離れた役場で被爆した。爆風で近くの民家から障子が飛んできた。役場の近くを流れる、横川には女学生の遺体が山となって積み上がっていた。黒く炭化していた。しばらくして、負傷者の救護に追われた。 皮膚がだらりと垂れ下がり、しくしく泣き続ける女性。手には、数枚の紙幣を握りしめていた。このお金で助けてほしいと訴えているようにみえたという。女性はすぐ息を引きとった。 茶の間で聞く母の被爆体験。幼い増田さんにとって、衝撃だった。 「しかし」と増田さん。「私が小学生だったころ(1960年代後半から70年代の前半)、学校の授業の中で原爆のことを教えられた記憶はないですねぇ」という。 1960年代後半には、歴史教員が集まって歴史教育の問題を協議する「歴史教育者協議会」の議論の中で、「被爆地である広島で十分な平和教育が行われていない」と、広島市の一部の教師によって問題提起されたこともある。 広島県の小・中学校、高校の生徒は必ず平和学習で、原爆ドーム、平和記念公園に訪れる。 「今の子どもたちは、実際に被爆経験がある人から、語り継ぎを受ける最後の世代」と話すのは、沢野重男・安田女子高校教諭(51)。沢野さんは、中高生用の平和教育の教材、「ヒロシマ平和ノート」(発行 平和文化)などの監修をしている。 沢野さんは、京都出身で被爆経験はない。広島での大学生時代、被爆経験のある友人から、直後の状況について話を聞いて、原爆のおそろしさを知った。 「そういう意味で、8月6日に集中して慰霊の儀式を行うだけで、平和教育を済ませている現状はおかしい」と危機感をつのらせる。 沢野さんが友人から聞いた恐ろしさを、増田さんが母から受けた衝撃を、今の子 供たちはだれからどう受ければ良いのか。 ○ ○
広島で平和教育は、一貫して熱心に行われてきたわけではなかった。しかし、半世紀をへた今も、続いている事実はある。 身近に原爆を触れる場である家庭。サダコストーリーが残した、反核の強い思い。 それに共感した多くの人々。 これらが、「ヒロシマ」を支える大きな力になっているのではないか。 葛藤を抱えている神戸での語り継ぎ。広島に一つの可能性があるのかもしれない。 【震災取材班 福田公則】
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