あの日から21年 語り継ぐ震災

遺族の1.17

神戸大慰霊碑に献花した方のコメント

2016年1月20日配信 記者=坂本知奈美・瀧本善斗・竹内勇人・竹内涼・田中謙太郎

神戸大へ献花に訪れた方々

(17日、撮影=田中謙太郎)

 17日、センター試験が行われていた神戸大六甲台第1キャンパスでは、慰霊碑に献花する遺族や関係者の姿があった。

◇故・戸梶道夫さん=当時(経営・2年)=

【父・幸夫さん】

 高校時代の野球部や大学のバドミントン部の同期の方たちは毎年家で同期会を開いてくれる。クラブの方々は仲間意識が強い。最初のほうはクラブの合宿のビデオを流して当時を振り返ることもあったが、最近では(同期の人たちの)近況報告が中心。

 震災について話す機会は少ないが、1月17日が近づくとご近所の方からお花をいただくこともあり、20年たってもそういうことをしてくれるのはありがたい。息子が亡くなったのを忘れることはなかなかできない。丁度去年、会社を辞めて暇になったこともあって、息子が今も生きていたらどうなるんだろうということを考えることは増えた。

◇故・竸基弘さん=当時(自然科学研究科・博士前期課程)=

【母・恵美子さん】

 (東遊園地の)つどい自体は簡略化されていた。でもあんなに長い献花の行列はこれまで見たことがなかった。息子には「ことしも来ることができたから、また来年も来られるように頑張る」と伝えた。

 ことしは(17日に神戸大慰霊碑に献花する)人が少ないけど、ここで同じ遺族の方と会って元気をもらうことができる。震災前は息子が生きていることを当たり前に感じていたが、息子が亡くなってそれがどれだけ大切なことだったかに気づいた。

【妹・岩瀬朗子さん】

 自分が兄を思い出すのは、東遊園地ではなくやはり神戸大。下宿先にもよく遊びに行っていた。仲はもともとよかったが、神戸で下宿を始めて家族のありがたみを改めて感じていたのだと思う。電話で勉強を教えてもらったこともあり、面倒見のよい兄だった。

◇故・藤原信宏さん=当時(経営・4年)=

【母・美佐子さん】

 15日の大学での追悼式には行かず、17日早朝に三重の津市から車で来訪した。大学に来る遺族仲間が少ない。やはり皆、高齢となるとつらいか。元気でいるうちに会っておきたい。毎日仏壇で息子に手を合わせているが、やはり神戸まで来るのは、息子に会うためだと感じる。大学4年間を過ごした地なので、未練はあるわけだから。

 あの時息子は公認会計士の資格を取り、留年する予定だったのが就職も決まり、足りていない単位を取り終えるため忙しかった。正月も実家に1泊ぐらいしかしなかった。もっと親がしっかりとするべきだったと思う。下宿の2階に空き部屋が出たとき、大家さんにも1階から移るよう言われたけど、息子は面倒くさがって移ろうとしなかった。あの時に移るように言っていれば……。

 息子に対する感情として、区切りなんてものはつけられない。慰霊碑に掘られている「信宏」の名前をさするだけで、心が穏やかになる。先日もスキーバスの事故で若者がたくさん亡くなった。ああいうニュースを見る度に、息子を失った経験と重ね合わせてしまう。夢を持った若い命が失われるということは、本当に悲しい。

【父・宏美さん】

 今日はこの後息子の下宿に向かい、夕方5時46分の東遊園地での黙とうにも参加する。下宿は駐車場になってしまっている。

 自分も公務員だったから、行政が10年・20年目を節目と位置付けるのは分かる。仏教では何回忌であるかで、節目となる。息子に対する感情として、時間の経過とともに落ち着きは出てきたが、やはり区切りのようなものは存在しないだろう。死を認めることはできない。

 しかし時間の経過とともに年を取る。もう75歳になってしまった。しかし仏壇の息子の遺影は年を取らない。遺族仲間でも、最近亡くなられる方がよくいらっしゃる。来年は来れるだろうか…と思う。車を運転できなくなっても、鉄道で来れるうちは来たいが。

 長男だったので、自分が衰えると余計に「生きていてくれたら」という気持ちになる。生活を支えてほしかったわけではないが。神戸大に合格し、下宿を決めるため来神したときにスケジュールを組んだのは自分。知らない土地で、しかも雨の日で、住む部屋をじっくり選ぶことができなかった。だから責任を感じる。

◇故・神徳史朗さん=当時(工・3年)=

【友人・吉田武史さん】

 もう21年経ったのかという思いはある。感情的な部分は落ち着いたが忘れられない。今頃生きていたらどうだろうと考えてしまう。

◇故・磯部純子さん=当時(教育<現発達>・4年)=

【母・洋子さん】

 京都から来た。元々は滋賀県に住んでいたが、地震の時もほとんど被害が無く普通の生活だった。家族を失っているのに自分の身の回りは通常通りの時間が流れているのがしんどく感じたこともある。21歳で亡くなった娘が42歳になっている姿は想像できない。(純子さんは)神戸大に来たいと思って入学して学ばせてもらったから、大学への感謝の気持ちがあって毎年来ている。

【伯母・松澤としえさん】

 毎年来る度に(純子さんのことを)思い出す。女だし、今生きていたらどんな感じだったんだろう、家庭を持って子どももいたんだろうかと思うことはある。

◇故・今英人さん=当時(自然科学研究科・博士前期課程)=

【母・良子さん】

 毎年来ている。2014年までは夫と来ていたが、同年4月に亡くなってからは娘と来ている。(他の遺族と)久しぶりにお目にかかることができた。(震災当時は)まさか関西に地震が来るとは思っていなかった。(英人さんは)「東京は地震があるから」と関西の大学に進学したほどだった。いつまで来られるかわからないが、来られるうちは毎年訪ねたい。

【妹】

 毎年早いなと思う。自分が21才の時震災があって、ちょうど(年齢が)倍になった。私の中で(兄は)学生のままの姿。今やったらどうなっているのだろうかと思う。

◇その他の参列者

【男性(1969年工卒)】

 おとといテレビで(神戸大の慰霊祭を)見た。昨年は東遊園地へ行って、是非いかなあかんね、と。当時を思い出す。ニュースで見たけど(大学の死者数は)神戸大が一番多かったみたいやし。(神戸大が避難場所だったことを受け)こんな足の不便なところも避難所だったんですね。

【杉浦圭子さん(NHKアナウンサー)】

 ことしやっと初めてプライベートで東遊園地や神戸大を訪れることができた。昨年はラジオの生放送の中で、亡くなった神戸大生の遺族の方の手記を朗読した。広島出身で被爆2世ということもあり、原爆報道の経験の蓄積はあったが、震災については自分から自信をもって伝えられる言葉がまだない。学生の皆さんには、震災を経験された方が生々しい記憶として語れるうちに直接話を聞いてほしい。

【副野吉史さん(99年経済卒、ニュースネット委員会元編集長)】

 「風化」とよく言われるが、今の自分にとってはあの時から変わっていない。遺族にとっては震災は忘れないものではなく忘れられないもの。神戸大生として震災報道にも関わらせてもらったので、毎年(1月17日には神戸大に)来ないと気が済まない。もはや年中行事のようになった。これからも毎年訪ねたい。

=順不同

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