遺族の1.17
無念変わらず今も 上野政志さん
2016年1月20日配信 記者=瀧本善斗
上野政志さん(撮影=田中謙太郎)
21年前の1月17日、上野志乃さん=当時(発達・2年)=が亡くなった神戸市灘区琵琶町の下宿跡。震災後に建てられた家が並ぶこの地で、父の政志さんは今年も1月17日の朝を過ごした。
真っ暗な空の下、近くの高架をJRの列車が走る音が響く。風が体を切る寒さの中、政志さんは脚立に手製の木地蔵と志乃さんの遺影を立て掛けた。ろうそくに火をともし、「デンファレ」の花を手向ける。マンドリンクラブに所属していた志乃さんが、演奏会のパンフレットに描いた花だ。
ささやかな追悼の場には、学生震災救援隊のOBなど、政志さんと交流のある人々も駆け付けた。順に遺影の前で手を合わせていると、目の前の家から自動車が出た。「この家の方には理解していただいているが、中には文句を言う方もいる。同じ神戸の人でも感覚が違う」と政志さんは悔しさをかみしめた。
志乃さんは当時、成人式を終えたばかりだった。16日まで兵庫県佐用町の実家で過ごし、夕方には政志さんが最寄り駅まで車で送った。下宿に戻った志乃さんは、友達と勉強しながら夜を明かしたと見られる。地震後、政志さんが現場に到着したのは18日の朝。がれきの下から遺体を見つけた時、「死んだ体は氷より冷たい」と感じたという。「志乃は生きている」と信じていた政志さんにとって、生が突然、死に変わった瞬間だった。
「今から成長しようという人間が途中で思いを断ち切られるのは納得がいかない」と、政志さんの無念は21年たった今も変わらない。世間から震災が忘れられていくことへの憤りもある。「(遺族と)同じ立場には立てなくても、 (遺族の)思いに近づこうとすることはできる」と必死に訴える。
空が白み始めた頃、政志さんは自身に表れた変化について話した。「ことしの元日、仏さんの前で不思議と自分の口で『(明けまして)おめでとう』と言ったんです」。震災後、他人にさえ言ってこなかった言葉だという。それでも政志さんの心の傷は深く刻まれたままだ。「死ぬまで喪失体験を背負っていく」という言葉が重く響く朝だった。
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