川口和徳さん(近大・2年)は当時、東灘区に在住、家にはあまり被害がなかった。しかし震災の2日後、父が突然死。震災直後の病院は機能がまひしており、適切な処置が受けられなかった。
転居先は被災地の外。転校した学校の生徒から地震のことをぶっきらぼうに聞かれ、「何を言ってもわからないだろう」と伝えるのは無駄だと感じてしまう。父の死も特別視される恐怖から友人たちに言えなかった。ようやく打ち明けたのは高校になってから。友人たちは父親がいないことに気づいていたが、黙っていてくれた。いい友人たちだったと振り返る。 そんな川口さんにとって転機となったのは、あしなが育英会の震災遺児の集まり。育英会のヘルパーの大学生と接するうちに徐々に当時のこと、父のこと…と今まで自分の中で封印していたものを話しだすようなった。ヘルパーは「やさしくそばにいる。そういう存在」。そんなヘルパーに憧れを抱いていた。 そして大学生になり「後輩のためにやらないといけない」という思いもあってヘルパーに。今年は、第3回国際遺児交流会の呼びかけ人をかってでた。悲劇の当事者はその時点で時間が止まっている。同じ気持ちになるのは無理だが限りなく近づくことはできる。「心の闇を抱えてる人がいる限り、見過ごすことは出来ない」と。 川口さんの人生を大きく揺さぶった震災。「震災があって今の僕がある」と現在は「人生の一つの通過点」と捉えている。「悲しいだけじゃ何も生まれない、だからもっとがんばろうと思うんです」。 |