【05年写真】奥田荘跡は広い坂道に面する駐車場に。
【97年写真・上】奥田荘は、向こう側のガケ下に倒れこむ格好で全壊した。 |
<05年> 「1月17日の朝は、毎年下宿跡にコーヒーやお茶を持っていってましたよ」 15人の下宿生のうち、西部直行さん(関学・法・当時4年)と高木公志さん(関学・文・当時1年)の二人が亡くなった奥田荘。家主の奥田愛子さんは柔和な表情でそう語る。震災から3、4年経つころまでは、地震発生の5時45分に黙祷をささげてもいた。 奥田荘跡は99年から駐車場となり、現在に至る。駐車場の横には新たに鉄筋マンションが建てられているが、奥田さんはその鉄筋マンションについて、「去年の夏ごろから着工して、今年4月の入学に間に合うように建てました」「鉄筋のほうが台風にも強いし、安全だろうと息子に言われて」と笑顔を見せる。現在、学生を含む14人が入居している。 奥田荘は木造2階建てで、坂の勾配に面する形で建てられていたため、地震当時は「ほかのところは西に倒れていたけれど、奥田荘は東(坂の傾きの方向)に倒れていました」という。1階にすんでいた3人のうち2人が圧死で亡くなった。助かった1人はたまたま外泊していたという。 「亡くなった二人は和歌山と広島の人だったんだけど、和歌山のほうの人の遺族の人は今でも現場に来はります」と奥田さん。97年の1月15日には、奥田荘跡に、震災当時に住んでいた学生らが集合した。今でも学生の一人が下宿仲間で集まることに熱心だというが、「集まりたいねって話してたけど、皆社会に出てて思うように集まれないみたい」と奥田さん。 「震災の日が近づいてきてて、若葉荘の家主さんとまた今年もあの日が近づいてきてていややねぇ、って話したりしてます」当時の辛い思い出を思い返したのか、奥田さんは少し寂しげにそう話した。 <97年> 奥田荘には当時十五人の下宿生が生活していた。震災で二人がけがを負い、西部直行さん(関学・法・当時四年)、高木公志さん(文・当時一年)の二人の関学生が亡くなった。大家の奥田博通さんは、「遺族の方が今でも下宿のあった所に来はります。クリスマス前にも来て、線香あげてました。朝から夕方までずっといた時もあります」 現在、下宿跡には工事現場の土砂が山のように積まれている。今年一月十五日には、昔奥田荘に住んでいた住人たちも大家さんの家に集まるという。「『おばあちゃん遊びにきていい』っていうから、『ええよ』って」と妻の愛子さんは話す。敷地の片隅には今も、花束と線香、そしてお経が供えられていた。
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跡地のこれから「未定」 今も駐車場のまま
若葉荘(西宮市上ヶ原五番町1−53)
【05年写真】駐車場のままたたずむ若葉荘跡。近所の人の記憶は未だ生々しい。
【97年写真】若葉荘あとは、現在駐車場になり、跡形もない。 |
<05年> 関学生4人、高橋智さん(経・当時2年)、山辺哲夫さん(経・当時2年)、重松克洋さん(文・当時1年)、野呂太祐さん(経・当時1年)が亡くなった若葉荘は、 駐車場となっており、当時の面影は見当たらない。当時の状況を、若葉荘跡の隣にある美容院の店員は「もうむちゃくちゃ。2階はそのままで、1階がぺしゃんこになった状態だった」と話す。 家主の田中哲夫さんは、「遺族の中には来てはる人もいるし、来てない方もいます」という。駐車場になっている若葉荘跡地のこれからについては、「まったく未定」と硬い表情で話した。 <97年> 関学生四人、高橋智さん(経・当時二年)、山辺哲夫さん(経・当時二年)、重松克洋さん(文・当時二年)、野呂太祐さん(経・当時一年)が亡くなった「若葉荘」は、現在跡かたもなく、駐車場になっている。木造二階建ての建物は、激しいゆれで一階がつぶれ、二階が一階になるという状態になった。 震災当時の話を聞こうとしたが、家主の田中哲夫さんは「もう話尽くしたよ。悪いね。あまり思い出したくないんだ」と震災の話に触れることを避けた。若葉荘は朝日新聞でも取り上げられた下宿だった。
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大家宅のまま 下宿再開なくひっそりと
赤穂荘(西宮市上ヶ原五番町2−42)
【05年写真】赤穂荘の跡地は8年前と変わらず家主さんの自宅。家主さんは言葉少なだった。 【97年写真】震災の跡形は、不規則に並ぶ地面のブロックのみとなった赤穂荘跡。 |
<05年> 児嶋達彦さん(商・3年)が亡くなった赤穂荘跡は上ヶ原4丁目のバス停のあ る車の通りの激しい道沿いにある。木造だった赤穂荘は地震で2階が1階を押しつぶした。 2年後の97年にはすでに大家さんの住宅になっていた。大家さんは当時「もう 下宿はやりません」と胸の内を話してくれた。今回も控えめに「遺族の方はいまも来られます」とだけ教えてくれた。 <97年> 児嶋達彦さん(関学・商・当時三年)が亡くなった赤穂荘は今は無く、そこには新しく建物が建った。震災で夫と孫を同じく亡くした家主の妻Nさんは今、当時を振り返る。 「熟睡してました。揺れてるなと思った瞬間、何かが体の上に・・・」。 赤穂荘のある関学の南側、上ヶ原五番町は特に被害がひどかった所。この辺りの下宿もかなりの被害が出た。二年目の冬を迎える今では、新築のアパートが目に付く。更地は確かに減った。 「崩れた家から私が助け出されたのは午前九時頃、もう日が高かった」。近所の人や下宿の学生が駆けつけた。「何より家族と学生さんが心配で聞いたら、みんな『大丈夫、大丈夫』って」。Nさんはその後病院へ。肋骨五本がおれていた。自分の下宿の学生一人と夫、孫が亡くなったのを知ったのは家に帰ってからだった。 「不思議と冷静に聞いていました。涙も出ない、放心状態というんでしょうか。頭の中が正常じゃなかったんでしょうねぇ」。 南北に立っていた二階建ての建物は、東西の揺れに耐え切れずねじれた。二階部分の三分の二は一段低い下の駐車場に崩れ、そこでは児嶋さんが犠牲になっていた。 あれから二年の月日が過ぎた。Nさんは、一年間集中して物事を考えられない状態が続き、手紙も書けなかったという。テレビや新聞の震災報道も、つらい「あの日」を思い出させた。 「人は家が建てば以前の生活に戻ったというが、そうではないんですよねぇ」と、少しほの暗い照明の新築の玄関で、Nさんはそう話す。「当時ひとつ驚いたのが、水や食料を取りに伊丹のほうへ行った時のこと。そこではレストランもやってるし店が開いてて、人々が普通に生活していました。武庫川を越えると、そこは別世界でした」。 「下宿をまたやる気にはなりません。また地震がないとは言い切れないし、学生さんが亡くなっていなかったら始めたかもしれませんが・・・」。Nさんはしばらく、震災のことを話すのもいやだったという。「地震には何年か前までは気をつけていました。関学の理学部生のかたに十年ほど前『この辺りにきてもおかしくない』と言われて。地震に対して自分がいかに無知だったか、無防備だったか」と、Nさんは話の最後に軽く笑った。
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空き地には住宅2棟 近隣で新たに下宿も
奥井荘(西宮市上ヶ原七番町3−31)
【05年写真】住宅2棟が建つ奥井荘跡地。クリスマスにはイルミネーションが飾られていた 【97年写真】木造2階建だった奥井荘も全て取り壊され、いまはがらんとした空き地に。 |
<05年> 18人の学生が生活していた奥井荘では、三木章裕(関学・文・当時2年)さんと和田学さん(関学・文・当時4年)の二人が亡くなった。奥井荘があった場所には、現在2つの住宅が立ち並んでいる。クリスマスのイルミネーションで飾られた住宅に震災の跡は無い。 奥井荘の大家だった奥井さんは、奥井荘について「平成12年まで空き地でした。その後、きちんとおはらいをしてから土地を2つに分けて売りました」と話す。奥井さんは現在、自宅を兼ねた下宿と、奥井荘跡から5分ほど離れた下宿の二つを関学生向けに経営している。 震災の経験から、基礎をしっかりと固めた上、2階に火が回らないように2階の床はコンクリートにした。災害時にはすぐ逃げ出せるよう2階からでも外に出られる階段もつけたという。また、被災時の補償金になるよう、入居者一人につき、月1000円ほどを積み立てているという。 近所に住む八尋民子さんに震災当時のことをたずねると、「崩れた建物から助けてって声が聞こえて。思い出しても、涙が出てきちゃう」と声をつまらせていた。 <97年> 関学から程近い木造二階建てのアパート。十八人の学生が生活していた。みなが被災者だったが、一刻も早く下敷きになった学生を助け出そうと近所の人々が集まった。八尋民子さんと宇野市枝さんもそうだった。 「助けたいんですけど、何しろ要領がわからなくて」。「助けてくれ」「がんばりよー」。誰かがジャッキを持ってきた。ガラスの破片で足を切りながら、どうにか助け出した。「その時はまだ息があったんです。でも顔色が変わって、土色になってしまっていて。」戸をタンカにして車で病院にむかった。午前八時ごろだった。「夜が明けるのが遅かった。何しろ寒くて外に出た学生に『これ着い、これはおって』」。近くの家主の田中富子さんの家には、学生が飛び込んで来た。田中さんも走った。 和田学さん(関学・文・当時四年)の死が知らされたのは、次の日、一月十八日の午後のことだった。「遺体の受け取りにいったとき、何人も床にころがしてあって。本当にかわいそうでした」と田中さんは声をつまらせる。遺体は両親の強い希望で、両親自らが引き取りにきた。実家の和歌山まで同じ下宿生一人が両親に付き添った。 三木章裕さん(文・当時二年)は即死状態だった。現在、奥井荘のあった場所は空き地。どこか足を踏み入れ難い雰囲気がある。テレビのリモコンやラジオの残骸や瓦がまだ残っていた。 「その時のことを思うと悲しくて……。当分あのままにしておきます、心の整理がつくまで」。田中さんの家も全壊だった。ガレージの鉄骨にどうにか支えられた。 「卒業式の日に下宿生たちが来てくれたんですよ」とうれしげだ。そして最後にこう付け加えた。「本当にあったことだからみんな忘れないでね」。新築の家に周りを囲まれて、そこの空き地だけ、がらんとしていた。
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ファミリー向けアパートに
市ヶ谷荘(西宮市上ヶ原九番町2−29)
【05年写真】跡地に建つアパートには洗濯物がひるがえる。ファミリー向けで学生の入居はない 【97年写真】いまは新たにアパートが建設中。 |
<05年> 高須厚志さん(関学・文・当時1年)が亡くなった市ヶ谷荘の跡地には、現在2階建てのアパート「カーサ・レチェンテ」が建っている。アパートを管理する建築会社によると、平成6年に建設されたアパートで、学生の入居はなくファミリー向けだという。 周囲の建物も真新しいものばかりで、昼下がりの静観な住宅街には震災の悲惨さは跡形も無く、のどかな光景が広がっていた。 <97年> 市ヶ谷荘では、高須厚志さん(文・当時三年)が亡くなった。ここも同じく二階が一階を押し潰した。「車が二台バイクが一台ほどつぶれていて、亡くなった関学生の方を、バイクはあるけど姿が見えないということで、ずっと探してました」と近くに住む渋谷さんは話す。「私はパニックで‥家の中がめちゃくちゃだったものですから」。市ヶ谷荘跡には、二階建てアパートの建設が進んでいる。家主は市ヶ谷荘について「話すようなことはありません」と口をつぐむ。
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下宿再開「もう…バツ、ですね」
清和荘(西宮市高木西町11−13)
【05年写真】区画整理で番地が変わった聖和荘跡は今も家主さんの自宅のまま 【97年写真】「住人はみんな仲がよかった」と大家さんが寂しげに語る清和荘も、現在は跡形もない。 |
<05年> 阪急西宮北口駅のアクタビルからほど近いところにあった清和荘では、扇あきさん(関学・文・当時1年)が亡くなった。 清和荘があった場所には、現在大家さんの自宅が建っている。市の区画整理で番地が変わり、震災当時は11番地だったのが現在は14番地になっていた。家主の奥村トシエさんに清和荘の再開について尋ねると、指でばってんを作り「もう…バツ、ですね」 と、硬い表情を見せた。 <97年> 阪急西宮北口駅から歩いて10分の距離にある清和荘は、震災で一階部分が二階におしつぶされた。現在そこには大家さんの家が建っている。家の前の更地の他に、当時の面影はない。 木造二階建ての清和荘は全部で十二部屋あった。その北側の一階の一室で扇あきさん(関学・文・当時一年)が亡くなった。圧死だった。提出を控えたレポートを三田の実家で書き、それを仕上げるために一月十六日の夜遅く下宿に帰った直後の事だった。「何も苦しまないで圧死の状態だったんじゃないでしょうか。一瞬の出来事でした。安らかな表情をしていましたよ」と大家の奥村トシエさん(59歳)は語る。 下宿については「建物が北に50cmほど動きました。下宿はまた始めるかも知れませんが、市の区画整理がはっきりしてからでないと」と少しとまどう。 今年、奥村さんの家に一枚の年賀状が来た。清和荘の元住人で一番年上だった三宅弥奈子さんからだ。彼女は震災当時、住人の安否の確認などでリーダーシップをとった。「みんな仲が良かったから」という大家さんの表情はどこか寂しげだった。
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駐車場や建売住宅に
門前文化(西宮市門前町10−12)
【05年写真】更地様の駐車場を新築の家が取り囲む 【97年写真】建物はつぶれて2階が1階になった。関学生のほか3人が犠牲になった。 |
<05年> 木造2階建て・36棟からなる「門前文化」は、阪急門戸厄神駅から東に歩いて約10分のところにあった。伊藤晶宏さん(関学・文・当時3年)はそこでの犠牲者4人のうちの1人だった。 現在、門前文化のあった場所は、広い更地様の駐車場の周りを新築の建物が取り囲むような様子になっている。家主の大阪建設の社員は、「一部が駐車場、他が建売住居になっています」と話す。オレンジ色やクリーム色の新築の家々に囲まれた駐車場はがらんとしていて、どこか震災の更地の名残りを残しているかのようだった。 <97年> 阪急門戸厄神から東へ歩いて約十分の所に三十六棟からなる木造二階建ての「門前文化」はある。全体で四人の犠牲者のうち、一人が17号棟の関学生、伊藤昌宏さん(文・当時三年)だった。当時二十一才の仏文科生。建物はいずれも築二十年を越えていた。全壊は半数近い十二から十三棟、今も残っているのは三十六棟中三棟だけだ。 「ここらへんのきれいな建物は、ほとんど震災後に建てられたものです」と話すのは近くの主婦、中西芙紗子さん。「(門前文化)は西側に倒れました。二階にあるふろの水の重さもあったでしょうに」。やはりここも「二階が一階に」の状態だった。 門前文化の家主の大阪建設・百合強さんは次のように話す。「当時は約九百人ほどが入居していました。建物の撤去は国の費用で一年ぐらいかかり終わりました」現在は、土地を復興事業のためある企業に貸している。「それも今年いっぱいで終わり」。その後は「またアパートを建てる」そうだ。
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4階建てマンションに
いこい荘(西宮市津門川町11−11)
【05年写真】外壁の白さが目立つマンション 【97年写真】いこい荘では、松本さんのほか3人が犠牲に。 |
<05年> 阪神・阪急今津駅から歩いて5分。自動車が行き交う43号線沿いの道から、少し奥に入ったところにいこい荘はあった。現在、4階建てのタイル張りのマンション「ロイヤルフォート今津」が建てられている。 いこい荘では、1階に住んでいた松本美穂さん(関学・法・当時2年)が亡くなった。 ほの暗い路地には割合に古びた建物が多く、真新しいマンションの外壁の青白さが目立っていた。 <97年> 阪急・阪神の今津駅から歩いて5分。スナックやパブが軒を連ねる所にいこい荘はあった。木造二階建てのいこい荘では、松本美穂さん(関学・法・当時二年)が亡くなった。当時を知る近所の人は「いこい荘は建物自体が西側に崩れた。二階が一階になってしもうた。一階の人四人が死んでしまった」と淡々と語る。現在は今年三月下旬に完成予定の鉄筋四階建ての仮称・西田マンションが跡地に建てられている。
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マンション前の道 舗装されぬまま
甲山荘(宝塚市仁川北2−12−9)
【05年写真】鉄筋マンションと亀裂の入った道路は8年前と変わらない 【97年写真】甲山荘のまわりは古い木造住宅が密集し、多くが震災で倒壊した。 |
<05年> 阪急仁川駅の阪神競馬場側ロータリー。そこから徒歩3分の住宅街の一角に甲山荘があった。 亡くなった薮内康行さん(関学・法・当時4年)はそこの住人だった。現在、鉄筋3階建ての「坂本マンション」が建っており、家主さんは「学生さんが入居しています」と話す。 周囲には新築の家が立ち並び、震災の面影は跡形も無いが、マンションの前にある道路はコンクリートに亀裂が入って細かくひび割れたままで、舗装されないまま当時の惨事の片鱗を物語っているかのようだった。 <97年> 阪急仁川駅のランドマークとなっている阪神競馬場のすぐそばに密集する住宅群。そこに薮内康行さん(関学・法・当時四年)が亡くなった木造二階建ての甲山荘があった。「以前は、まわりは全て古い木造住宅で甲山荘もそうやったんやけど、震災時にすべてぺしゃんこ。甲山荘も北側に崩れて一階が前の道路をふさぎ、二階が一階になってしもうた」と近所の人は淡々と語る。 現在は新築の住宅が建ち並び震災の面影は残っておらず、甲山荘の跡地にも鉄筋三階建ての阪本マンションが建っている。ただ、石ころが散乱する舗装されていない道路だけがある意味で当時の面影を残している。
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