山辺哲夫さん
昭和47年12月6日生まれ
当 時:関学・経済学部1年
アメフット部
被災地:西宮市上ヶ原5番町1ー53 若葉荘
出身高校:大阪夕陽ヶ丘高校
執筆:稔さん(父)

 

いつまでも、重き荷


 一九九五年一月十七日。大阪府柏原市。午前五時四十六分。ドドーッと大地が揺らぎ、ベッドから跳び起きて、薄暗い空を見た。冬とは言え、寒さは身にしみるほどでもなかった。普通のように朝七時過ぎに出勤。途中、車のラッシュに逢う。七時四十分頃、再び道路が大きく、左右に揺れた。私は中学校で、教師をしている。今も、あの時のすべての瞬間を忘れることはできない。一時間目の授業を終えて、職員室に戻った時、妻ともう一人の息子が、私を待っていた。弟がぽつりと、つぶやいたようだった。「お兄ちゃんが死んだ」
 朝のテレビに写し出された、神戸の火の手の中で、「哲夫」がいたのか?そのまま、何もかもを投げ捨てて、家族と共に神戸、いや三宮めざして車を走らせた。  何時間経っても、息子の元に行くことができなかった。つらかった。すべてが「ウソ」であると信じたかった。翌日、自宅に着いた。息子は両手のこぶしを握りしめて安らかな姿で戻って来た。でも、それが、我が子だと信じることができなかった。後日、上ヶ原の下宿跡を見た。それは、天災ではなく、人災だった。許すことができなかった。息子の人生を奪ったのは、何だったのか。
 今でも、悔いの残る出来事だった。青春を返せ。
 何年経っても、この思いは消えない。亡くなられた人々の思いはすべて同じ。歩む道に、いつまでも、重き荷。


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