【写真上】奥田荘は、向こう側のガケ下に倒れこむ格好で全壊した。 |
奥田荘には当時十五人の下宿生が生活していた。震災で二人がけがを負い、西部直行さん(関学・法・当時四年)、高木公志さん(文・当時一年)の二人の関学生が亡くなった。大家の奥田博通さんは、「遺族の方が今でも下宿のあった所に来はります。クリスマス前にも来て、線香あげてました。朝から夕方までずっといた時もあります」 現在、下宿跡には工事現場の土砂が山のように積まれている。今年一月十五日には、昔奥田荘に住んでいた住人たちも大家さんの家に集まるという。「『おばあちゃん遊びにきていい』っていうから、『ええよ』って」と妻の愛子さんは話す。敷地の片隅には今も、花束と線香、そしてお経が供えられていた。
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4人が亡くなった跡は駐車場に
若葉荘(西宮市上ヶ原五番町1−53)
【写真】若葉荘あとは、現在駐車場になり、跡形もない。 |
関学生四人、高橋智さん(経・当時二年)、山辺哲夫さん(経・当時二年)、重松克洋さん(文・当時二年)、野呂太祐さん(経・当時一年)が亡くなった「若葉荘」は、現在跡かたもなく、駐車場になっている。木造二階建ての建物は、激しいゆれで一階がつぶれ、二階が一階になるという状態になった。 震災当時の話を聞こうとしたが、家主の田中哲夫さんは「もう話尽くしたよ。悪いね。あまり思い出したくないんだ」と震災の話に触れることを避けた。若葉荘は朝日新聞でも取り上げられた下宿だった。
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「もう下宿やりません」大家さん、つらい思い胸に
赤穂荘(西宮市上ヶ原五番町2−42)
【写真】震災の跡形は、不規則に並ぶ地面のブロックのみとなった赤穂荘跡。 |
児嶋達彦さん(関学・商・当時三年)が亡くなった赤穂荘は今は無く、そこには新しく建物が建った。震災で夫と孫を同じく亡くした家主の妻Nさんは今、当時を振り返る。 「熟睡してました。揺れてるなと思った瞬間、何かが体の上に・・・」。 赤穂荘のある関学の南側、上ヶ原五番町は特に被害がひどかった所。この辺りの下宿もかなりの被害が出た。二年目の冬を迎える今では、新築のアパートが目に付く。更地は確かに減った。 「崩れた家から私が助け出されたのは午前九時頃、もう日が高かった」。近所の人や下宿の学生が駆けつけた。「何より家族と学生さんが心配で聞いたら、みんな『大丈夫、大丈夫』って」。Nさんはその後病院へ。肋骨五本がおれていた。自分の下宿の学生一人と夫、孫が亡くなったのを知ったのは家に帰ってからだった。 「不思議と冷静に聞いていました。涙も出ない、放心状態というんでしょうか。頭の中が正常じゃなかったんでしょうねぇ」。 南北に立っていた二階建ての建物は、東西の揺れに耐え切れずねじれた。二階部分の三分の二は一段低い下の駐車場に崩れ、そこでは児嶋さんが犠牲になっていた。 あれから二年の月日が過ぎた。Nさんは、一年間集中して物事を考えられない状態が続き、手紙も書けなかったという。テレビや新聞の震災報道も、つらい「あの日」を思い出させた。 「人は家が建てば以前の生活に戻ったというが、そうではないんですよねぇ」と、少しほの暗い照明の新築の玄関で、Nさんはそう話す。「当時ひとつ驚いたのが、水や食料を取りに伊丹のほうへ行った時のこと。そこではレストランもやってるし店が開いてて、人々が普通に生活していました。武庫川を越えると、そこは別世界でした」。 「下宿をまたやる気にはなりません。また地震がないとは言い切れないし、学生さんが亡くなっていなかったら始めたかもしれませんが・・・」。Nさんはしばらく、震災のことを話すのもいやだったという。「地震には何年か前までは気をつけていました。関学の理学部生のかたに十年ほど前『この辺りにきてもおかしくない』と言われて。地震に対して自分がいかに無知だったか、無防備だったか」と、Nさんは話の最後に軽く笑った。
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懸命に救出、並ぶ遺体
奥井荘(西宮市上ヶ原七番町3−31)
【写真】木造2階建だった奥井荘も全て取り壊され、いまはがらんとした空き地に。 |
関学から程近い木造二階建てのアパート。十八人の学生が生活していた。みなが被災者だったが、一刻も早く下敷きになった学生を助け出そうと近所の人々が集まった。八尋民子さんと宇野市枝さんもそうだった。 「助けたいんですけど、何しろ要領がわからなくて」。「助けてくれ」「がんばりよー」。誰かがジャッキを持ってきた。ガラスの破片で足を切りながら、どうにか助け出した。「その時はまだ息があったんです。でも顔色が変わって、土色になってしまっていて。」戸をタンカにして車で病院にむかった。午前八時ごろだった。「夜が明けるのが遅かった。何しろ寒くて外に出た学生に『これ着い、これはおって』」。近くの家主の田中富子さんの家には、学生が飛び込んで来た。田中さんも走った。 和田学さん(関学・文・当時四年)の死が知らされたのは、次の日、一月十八日の午後のことだった。「遺体の受け取りにいったとき、何人も床にころがしてあって。本当にかわいそうでした」と田中さんは声をつまらせる。遺体は両親の強い希望で、両親自らが引き取りにきた。実家の和歌山まで同じ下宿生一人が両親に付き添った。 三木章裕さん(文・当時二年)は即死状態だった。現在、奥井荘のあった場所は空き地。どこか足を踏み入れ難い雰囲気がある。テレビのリモコンやラジオの残骸や瓦がまだ残っていた。 「その時のことを思うと悲しくて……。当分あのままにしておきます、心の整理がつくまで」。田中さんの家も全壊だった。ガレージの鉄骨にどうにか支えられた。 「卒業式の日に下宿生たちが来てくれたんですよ」とうれしげだ。そして最後にこう付け加えた。「本当にあったことだからみんな忘れないでね」。新築の家に周りを囲まれて、そこの空き地だけ、がらんとしていた。
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バイクはあるけど、姿が見えない
市ヶ谷荘(西宮市上ヶ原九番町2−29)
【写真】いまは新たにアパートが建設中。 |
市ヶ谷荘では、高須厚志さん(文・当時三年)が亡くなった。ここも同じく二階が一階を押し潰した。「車が二台バイクが一台ほどつぶれていて、亡くなった関学生の方を、バイクはあるけど姿が見えないということで、ずっと探してました」と近くに住む渋谷さんは話す。「私はパニックで‥家の中がめちゃくちゃだったものですから」。市ヶ谷荘跡には、二階建てアパートの建設が進んでいる。家主は市ヶ谷荘について「話すようなことはありません」と口をつぐむ。
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建物は北に50cmほど動いた
清和荘(西宮市高木西町11−13)
【写真】「住人はみんな仲がよかった」と大家さんが寂しげに語る清和荘も、現在は跡形もない。 |
阪急西宮北口駅から歩いて10分の距離にある清和荘は、震災で一階部分が二階におしつぶされた。現在そこには大家さんの家が建っている。家の前の更地の他に、当時の面影はない。 木造二階建ての清和荘は全部で十二部屋あった。その北側の一階の一室で扇あきさん(関学・文・当時一年)が亡くなった。圧死だった。提出を控えたレポートを三田の実家で書き、それを仕上げるために一月十六日の夜遅く下宿に帰った直後の事だった。「何も苦しまないで圧死の状態だったんじゃないでしょうか。一瞬の出来事でした。安らかな表情をしていましたよ」と大家の奥村トシエさん(59歳)は語る。 下宿については「建物が北に50cmほど動きました。下宿はまた始めるかも知れませんが、市の区画整理がはっきりしてからでないと」と少しとまどう。 今年、奥村さんの家に一枚の年賀状が来た。清和荘の元住人で一番年上だった三宅弥奈子さんからだ。彼女は震災当時、住人の安否の確認などでリーダーシップをとった。「みんな仲が良かったから」という大家さんの表情はどこか寂しげだった。
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36棟のうち今も残るのは3棟だけ
門前文化(西宮市門前町10−12)
【写真】建物はつぶれて2階が1階になった。関学生のほか3人が犠牲になった。 |
阪急門戸厄神から東へ歩いて約十分の所に三十六棟からなる木造二階建ての「門前文化」はある。全体で四人の犠牲者のうち、一人が17号棟の関学生、伊藤昌宏さん(文・当時三年)だった。当時二十一才の仏文科生。建物はいずれも築二十年を越えていた。全壊は半数近い十二から十三棟、今も残っているのは三十六棟中三棟だけだ。 「ここらへんのきれいな建物は、ほとんど震災後に建てられたものです」と話すのは近くの主婦、中西芙紗子さん。「(門前文化)は西側に倒れました。二階にあるふろの水の重さもあったでしょうに」。やはりここも「二階が一階に」の状態だった。 門前文化の家主の大阪建設・百合強さんは次のように話す。「当時は約九百人ほどが入居していました。建物の撤去は国の費用で一年ぐらいかかり終わりました」現在は、土地を復興事業のためある企業に貸している。「それも今年いっぱいで終わり」。その後は「またアパートを建てる」そうだ。
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西側に崩れ、二階が一階になってしもうた
いこい荘(西宮市津門川町11−11)
【写真】いこい荘では、松本さんのほか3人が犠牲に。 |
阪急・阪神の今津駅から歩いて五分。スナックやパブが軒を連ねる所にいこい荘はあった。木造二階建てのいこい荘では、松本美穂さん(関学・法・当時二年)が亡くなった。当時を知る近所の人は「いこい荘は建物自体が西側に崩れた。二階が一階になってしもうた。一階の人四人が死んでしまった」と淡々と語る。現在は今年三月下旬に完成予定の鉄筋四階建ての仮称・西田マンションが跡地に建てられている。
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鉄筋のマンションが建ち面影はなく…
甲山荘(宝塚市仁川北2−12−9)
【写真】甲山荘のまわりは古い木造住宅が密集し、多くが震災で倒壊した。 |
阪急仁川駅のランドマークとなっている阪神競馬場のすぐそばに密集する住宅群。そこに薮内康行さん(関学・法・当時四年)が亡くなった木造二階建ての甲山荘があった。「以前は、まわりは全て古い木造住宅で甲山荘もそうやったんやけど、震災時にすべてぺしゃんこ。甲山荘も北側に崩れて一階が前の道路をふさぎ、二階が一階になってしもうた」と近所の人は淡々と語る。 現在は新築の住宅が建ち並び震災の面影は残っておらず、甲山荘の跡地にも鉄筋三階建ての阪本マンションが建っている。ただ、石ころが散乱する舗装されていない道路だけがある意味で当時の面影を残している。
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