1998年1月16日発行『関学新月トリビューン』紙面より
阪神大震災から三年
いま、後輩たちに伝えたいこと
阪神大震災から三年。大学は大きな転機を迎える。震災を体験した四年生が卒業を迎え、大学生として被災した『世代』がいなくなるからだ。
突き上げるような激震を体で感じ、がれきの町を友を探してさまよい、水を汲み、避難所で暮らし、ボランティアに打ち込んだ『世代』のほとんどが、この神戸大学から巣立っていく。
震災直後の日々から、先輩たちは何を学んだのか。卒業を前にした四年生や、大学院生、OB、教官に、「いま、後輩たちに伝えたいこと」を聞く。(『神戸大ニュースネット』『関学新月トリビューン』『神女院大K.C.Press』の三紙の共同企画です。)
想いを白いリボンに
関学ヒューマンサービス代表 東中綱利さん
【写真】関学ヒューマンサービスセンター代表・東中綱利さん(社・3年)
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関学ヒューマンサービスセンター代表、東中綱利さん(社・3年)は、高校生の頃からボランティア活動を通して、震災を見つめてきた一人だ。また、同センターの一月十七日前後に白いリボンをつけることを呼び掛ける「白いリボン運動」も三回を迎え、人々の意識から震災を忘れ去らせないような活動も行っている。
新月池のほとりにあるコの字形の大学本館に囲まれた場所に関学ヒューマンサービスセンターの部室はある。そこでは年末の大掃除の真っ最中。五、六人の部員と東中さんが慌ただしく動いていた。
「僕が高校三年生のときに震災が起こり、知り合いが避難していると知って、当日の次の次の日ぐらいから避難所に行きました」。東中さんが向かったのは神戸市兵庫区湊川町の避難所。「震災直後というのは、今みたいなボランティアの登録制度なんてなくて、暇がある人がフラっと行って動くという感じ。被災者も余裕のある人は手伝っていました」。そこで見たものは「ある意味、震災よりもすごい光景でした」。
「それは物資についてです。仕分け作業を避難所でしてたんですが、選択されていない衣類など使えないものが送られてくる。『下着』と書かれた段ボールにおにぎりが入っていて、気づいたら納豆のようになっていた。特に行政の物資配給には偏りがありました。赤ちゃんがいないのにおむつがドーンと届く。シャンプーはないけどリンスはある。たくさんあるけど、役に立たないのはウーロン茶、ジュース類。七月でも小学校の壁一面にありました」。傍若無人なマスコミの取材方法にも話は及ぶ。「はっきり言って邪魔だし、腹が立った。人が死んでる所で『悲しいですか』と聞く。何を期待しているんだか。時と場所をわきまえればよいものを」。ついには被災者が落ちている電柱を新聞社の車に突っ込むという騒動も起きた。「震災では記者ほどたたかれた人はいないんじゃないでしょうか」と話す。
一方で「マスコミの力に頼っているんです」と、メディアの力を実感したようだ。「マスコミが取材した場所というのは限られていて、テレビに取り上げられると次の日そこにはトラック何台分という物資が来た。一方では足らない所もある」。
九五年三月末、東中さんたちのボランティア団体は避難所を撤退した。それは「自立のための撤退」。「ボランティア団体にもいろいろありまして、ほとんど押し売りのような所がありました。『ここで何日に何人分そばの炊き出しをさせてください』と来るわけです。難しいところですが、どうもたらい回しのように感じることもありました。昨日もそばで今日もそばだったらいやだし、まずいものは食わないですよ」。これは受け入れ側の本音だ。「演劇の依頼もありました。こっちが余裕ないときに『園児と遊んでください』ってそりゃ無理ですよ」。
東中さんは中高と関学。その春「受験もなく」大学へ。別のボランティアグループを経て、同センターに入る。「もう二年半も経ちます。やっぱりやめられない魅力があるんですよ。僕らは(震災を)忘れないでいこうという運動をしています。確かに震災は多くのものを奪いました。命、財産、土地建物。しかしそれによって誕生したこともあります。せっかく生き残ったんですから。いつまでもマイナス意識だったら救いがたいですよ」と前向きに今後を見つめる。「ここではいろんなことを学ばせてもらいました。ボランティアの依頼などで多くの人に会い、考え方に触れました」。
ノートパソコンを携帯する彼は、情報の最先端を走る。「一時期、携帯電話とPHSを両方持ってました。左肩でPHS、左手に携帯電話、右手でメモを取りながら、スピーカーでもう一台としゃべってました。おそらくこれは人間が電話できる限界じゃないでしょうか」と笑う。
ヒューマンサービスセンターが中心となって行われる「白いリボン運動」も九八年で三回目を迎える。一月十七日前後に白いリボンや白い花をつけ、目に見える形で個人の思いを表現しようというもの。今年はこのような「震災の記憶」のほかに「防災意識の向上」というコンセプトが加わった。約三百人の登録者と二十人のコーディネーター。これらの学生と教職員で構成するセンターは、他にも西宮市内の仮説住宅の調査や、あしなが学生募金、使用済み切手、テレホンカード、ラガールカードの回収などの活動を行っている。「これらの活動を学生や地域住民のかたがたに紹介していくことが、センターの根底にあります」。
白いリボン運動や仮設調査などは新聞、テレビにたびたび取り上げられる。年々活動の輪は広がる。東中さんたちは震災の意味を考えながら、自分たちの活動を続ける。
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私にとっての阪神大震災
本紙記者米本仁の体験手記
【写真】関学新月トリビューン記者・米本仁
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先月、ルミナリエに色づく神戸の街を歩いているとよくここまで街を建て直したとつくづく思った。私は大阪に住んでいるのだが、阪神大震災の当日、震源地に近い神戸三宮にいた。あの早朝のものすごい騒音と激しい揺れ、三宮の街はまるで空襲にあったかのような惨状だった。家屋やビルは崩壊、街中にガスのにおいが充満していた。店やコンビニには人が押し入り、所々から悲鳴が聞こえるというまさにパニック状態。自然災害の恐ろしさを肌で感じた。
そんな震災から三年がたった。もう三年、まだ三年、いろんな感情があるだろうが、私は知人も亡くしたし、それなりの体験をしたが、もう随分昔のことのように感じる。おそらく、多くの学生はそう感じていると思う。実際、家が全壊した友人も同様のことを言っている。しかし、阪神地区の各地では、まだまだ震災の影響が根強く残っている。当時から引き続き今もボランティア活動を行っている人たちは、「伝えていく事が大事」と言う。今だからこそもう一度それぞれの「阪神大震災」を考える事も必要なのではないか。
私は三宮で震災後二年間、バイトをしていた。そこで見てきた復興を目指した街の人たちの頑張り、崩壊した店舗の復活にかける努力はパワーを感じたし、道路の改装、ビルの建て直しも早かった。しかし、私が強く感銘を受けたのは、震災を「起きてしまった事」と、ある意味ドライに受け止め、逃げずに現実を直視するその姿勢。こういった事は文章にするのは難しいのだが、私にとっての「阪神大震災」の意味は震災そのものよりも発生から復興までの過程の中で、それに関わる人たちに直接触れた事であり、これは、言葉は悪いが、震災という非日常的な出来事がないと体験する事はなかった。
この手記を書くにあたって、私は改めて、震災について考える時間を持てた。被災地の大学に通っている私にとって、無関心ではいられない事と感じた。もう一度ゆっくり思い返してみようと思う。
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「過去ではない」
ポンテリカ北口に初正月
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震災から三年目にあたる今年。西宮北口北東地区に昨夏オープンした集合仮設住宅「ポンテリカ北口」が初めて正月を迎えた。
同地区は震災で約九割の世帯が全壊。商店も大打撃をうけた。震災後、総面積約三万三千平方メートルの同地が区画整備に当たり、従来のかたちでの営業存続が不可能になった。同地は今春にはさら地となり、平成十二年には再開発ビルが完成予定。同店舗はそれまでの仮設の役割を担う。
店舗のひとつでこの日ひときわ賑わいを見せていた居酒屋『磯浜』に来ていた河上邦広さん(四八才)は「震災前、商店街にあったときからの大将のファン。新しいビルに入ってからも、もちろんついて行きます」と商店街への変わらぬ愛着を語った。
仮店舗群入店会長の古塚晃さん(五七才)は「三年で震災が過去になっている人なんていない。むしろこれまでの心労、今後の見通しへの不安で体がボロボロになっているといってもよいくらいだ。今着ているこのジャンパーは震災の時に着ていたもの。あの日を忘れないように、震災以来、毎年元旦から十七日まで着続けています」と語った。十七日、同店舗では犠牲者たちへの黙とうを捧げる。
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被災の地で入試
法学部二年生岩崎幸子さん
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震災の年の二月に入試を受けた、法学部二年生の岩崎幸子さんに当日の状況を聞いた。震災の影響にも関わらず、志願者の減少はほとんどなかったという。
入試当日の朝、西宮北口までで阪急電車はストップ。上ケ原キャンパスまでの順路に関学の引率者が立ち、受験生を案内するという状況であった。およそ千人を越える受験生は長い列を作りながらがれきの道を一時間かけて歩く。道の両脇の家は崩れ、道路はそれらの破片で荒れ果てていた。人々の現在の所在地や電話番号、大切な物を発見した時の連絡先などの張り紙が多数壁に張られている。
地方出身の受験生にとって、震災はブラウン管の中の非現実的なものであった。彼女は「実際に震災の現場に行き、自分の目で見てみると、TVの中のものが現実のものだったという衝撃を感じた。それと同時にものすごい恐怖も感じた」と当時の心境を語った。
一年後、再び関学で入試を受けた時、奇麗に舗装された道路や家を見て、彼女はあれだけ荒れ果てていた街の変わりように驚き、建物の復興の早さを知った。
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「いまだに続く震災」
牛乳配達中に被災した和田庄司さん
【写真】震災時、バイト中だった和田庄司さん(経・四年生)
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和田庄司さん(経・四年生)は震災時、三田市内で早朝の牛乳配達のバイトをしていた、「配達の車の中でしたが、追突されたと思う程の衝撃でした」と話した。震災で忘れる事が出来ないのは、三田市が神戸市に比べて被害が少なかったため、水や食料を求めて、神戸市の住民が歩いて六甲山を越えてやってきた事。また西宮市まで食料を配達しに行った事も印象に残っていると話した。
「今でも家族と震災についてはよく話すんですが震災は今だに続いていると思う。先日起こった仮設住宅での老人の孤独死などは、間接的な震災です」と和田さん。さらに、「自分の家族や家が無事だったのは不幸中の幸いでした。震災の時は自分自身のことで精一杯で、他に目を向ける余裕は正直言ってありませんでしたね」と、加えて話した。
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上ケ原で被災
当時寮にいた片山智洋さん
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上ケ原にある関学の寮で被災した片山智洋さん(法・四年)は、「震災の事は今でも鮮明に覚えています。当時上ケ原一帯にガスの匂いが立ちこめ、とても危険な状態だったので、寮の中に缶詰め状態でした。そんな中だったので人間関係が悪くなったりもしました」また、現在の上ケ原の復興状態について、「また少し震災の面影を残すところもありますが、下宿にしてもほとんどが改装されて、地震が嘘のようですね」と語った。最後に後輩に対するメッセージとして片山さんは、「震災を体験していかなる時にも冷静に行動する大切さを学びました。災害はいつ起こるかわかりません。こいった教訓は私も含めてですが生かすべきですね」と締めくくった。
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阪神大震災の前年の98年
ロス地震を経験 米留学中の小谷孝宣さん
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小谷孝宣さん(商・二年)は阪神大震災のあった前年の九八年アメリカの留学先でロサンゼルス大地震を目の当たりにした。小谷さんの住んでいたロサンゼルス郊外、サンタバーバラの建物は激しく揺れたものの、無事だった。しかしハイウェイが倒れるなど被害は大きかった。そんな中、迅速に行動したのはレスキュー隊だった。「アメリカ政府の対応は早かったです。起きて何分かですぐに大統領に報告され、現場はその指示を受けています」。
次の年、日本で震災が起きた事を知り、小谷さんは大阪の家族に国際電話をかけている。「全然つながらないんですよ。直接は世界レベルで日本に電話かけて、パンク状態だったのではないでしょうか」。やがて家族と連絡がとれる。「驚きました。まさかあの家具が倒れるなんてと。行政の対応もアメリカと比べて遅いと感じました」。
「月日というのはこわいですね。実際に起きたことなんですが、終わったこととして、自分の中で薄れていく感じはあります」。二つの大地震を見聞きした小谷さんは今の実感を話す。
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地すべりがわかる
百合野町に資料館オープン
【写真】「地すべり資料館」管理者の一人・小野田孝正さん
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土砂災害で最大の被害が出た仁川百合野町地区に、その危険性や復旧状況を知らせようと十一月十八日、「地すべり資料館」がオープンした。
館内には五十人が座れる映像ルームや、百合野町のジオラマ模型などがある。二階の「地すべり観測所」はこの地区で地面に異常があるとすぐに兵庫県庁に伝わる仕組みになっている。
この資料館は、今年の四月には完成していた。震災から二年ほどでできたことになる。総工費は約二億円。ここは西宮シルバー人材派遣センターから派遣された三人の方が、交替で管理。その一人小野田孝正さんは「近くに甲山森林公園もあるし是非家族連れで来てお子さんに見てほしい」。多い日には入館者が百人を越える事もあるという。一刻も早い百合野町の復旧の気持ちがこの資料館に込められている。
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