阪神・淡路大震災を機に結成されたボランティアサークル、学生震災救援隊(以下、救援隊)のメンバーが今年もサポートステーション灘・つどいの家(以下、つどいの家)で「1.17をのんびり過ごす会」を開催した。「1月16日の晩くらいは語らいながらのんびり過ごしてほしい」との思いで救援隊の現役メンバーが毎年、OBや地域の関係者とともに鍋をつつく。今年は入れ替わり立ち替わりでおよそ50人が訪れ、19年前の震災などについて思い思いに語り合った。震災の発生した17日午前5時46分には、参加者は近くの大和公園に移動し、全員で輪になって犠牲者に黙とうを捧げた。
16日午後7時20分。代表の関本龍志さん(法・3年)の「献杯」の掛け声により、静かに会は始まる。救援隊のボランティア活動に深く関わる地域の人々やOBが、仕事を終えて徐々に集まってくる。かつての被災経験やボランティアの経験。19年前のことを最近のことのように振り返る社会人たちの声に、震災の記憶の薄い現役世代は、真剣に耳を傾けた。
新在家駅北側で被災し、地域の子育てボランティアなどに関わる丸谷肇子(はつこ)さんは「自分の震災体験を聞いてくれる学生がいるだけでありがたい」と感心する。学生とともに、救援隊に所属するちんどん屋サークル「神大モダン・ドンチキ」で活動している穴井重行さんは「災害から19年も続いたサークルは他にいくつあるか」と活動の長さをほめたたえた。「19年経って、震災を経験していない世代が入学し、完全に関心がなくなってきている」と最初のあいさつで話した関本さんは「大震災はいつでも起こりうるし、社会に潜む普遍的な問題を顕在化させる。阪神・淡路大震災を学びながら、地域と学生を結ぶ役割を果たしていけたら」と話した。
17日午前5時20分。つどいの家を出発した参加者は、かつて仮設住宅のあった大和公園に歩いて向かう。ライトに照らされた薄暗い公園の隅で輪になって「黙祷」。1分間の黙祷を終えた面々は、静かに解散していった。(記者=鈴木太郎)
【写真】献杯する救援隊ら(1月16日・つどいの家で 撮影=鈴木太郎)
5時46分。東遊園地に集まった人々は一斉に黙とうした。「伝えよう」「夢」などメッセージが書かれた竹灯籠の火が、祈りをささげる人々を照らしていた。
息子の直哉くんと一緒に竹灯籠のろうそくを入れ替えるボランティアをしていた井上有香さんは、東灘区で震災を経験した。直哉くんが大きくなったことで今回、初めてつどいに参加した。
幸い大きな被害は受けなかった井上さん。辛い思いをしている被災者のことを思うと、自分は泣いてはいけないと思っていた。しかし、実際は悲しくて仕方なかった。「やっとつどいに来ることができて、気持ちの整理ができたように思います」。せっせと消えたろうそくを回収する直哉くんを見つめる井上さんの目から、涙がこぼれた。
竹灯籠の火を見つめていた早川ひかるさんと藤田創詩さんも今回が初参加。神戸市出身だが1995年に生まれた2人は、震災を経験していない。震災のことは学校の道徳の授業で習ったり、親からたくさん聞いたりした。実際につどいに参加し、祈りをささげる多くの人々を見て「自分たちの神戸での生活は、この人たちに支えられてきたんだなあ」とつくづく感じたという。
黙とうが終わり、慰霊と復興のモニュメント前では、弟の森渉さん(当時=法・4年)を震災で亡くした歌手の森祐理さんが歌う「しあわせ運べるように」に多くの参加者が耳を傾けた。
小学校でこの歌を習った長田区出身の田代将吾さん(発達・2年)は、そばに立っている人が森さんの歌に合わせて口ずさむのを聞いていた。20歳になったのをきっかけに初めてつどいに参加した。「地元出身というだけで忘れちゃいけないと思っていた。ここに来て、辛い思いもたくさんしたは人々が、忘れないようにと1年に一度ここに集まるのだな、と実感した」。
遺族と久元喜造神戸市長が追悼の言葉を述べ、参加者一人一人が献花を行った。ブースでは配られる豚汁やお粥、コーヒーが凍える参加者の身体を温めた。夜が明けるまで多くの参加者が語り合っていた。(記者=井沼睦)
【写真上】竹灯篭に火を灯す直哉くん
【写真下】「しあわせ運べるように」を歌う森祐理さん
(1月17日・東遊園地で 撮影=竹内勇人)
〇黒田貴和子さん(関西大・1年)
「スターバックスのテントでコーヒーの提供をしていた。コーヒーを飲んで温かい気持ちになってつどいの時間を過ごしてほしい。多くの人が集まって震災のことを忘れないようにしている、後世に伝えていかなければと思う。震災について無関心なのが一番どうかなと思う。震災のことを知っているだけでも少しは役立てるのでは。来年もぜひつどいに参加したい」
〇隆野咲紀さん(関西大・4年)
「たくさんの人がいるなと思った。19年経ったが、東北の地震もあり、より人が阪神・淡路大震災に関心を持っていると思う。これから就職して関西にお世話になる身なので、知っておかなきゃいけないと思い訪れた」
〇長友久美子さん(関西大・4年)
「一昨年母親と来て、忘れていた過去を思い出せた。いろんな人がいるんだなと思い、今日に向けての思いを感じた。昨年はHAT神戸のイベントに参加したが、友人に誘われたこともあって今年は東遊園地のつどいに参加した。こちらのイベントの方が身近な感じがする」
〇中平日奈子さん(龍谷大・2年)
「自分の所属する国際ボランティア学生協会IVUSAで、阪神・淡路大震災の勉強会を行い、その企画に携わっていた。そこで阪神・淡路大震災をテーマにした映画『その街のこども』をみんなで見て、とても印象に残った。子どもの頃被災した2人の男女が、15年後、ひょんなことから行動を共にする話で、その対比がとても印象的だった。自分は関西出身ではないし、被災していないが、これを機会に今回は来ようと思った」
〇藤田千夏さん(神戸芸術工科大・1年)
「1.17のつどいに参加するのは今回初めて。大勢の人が参加している様子を見て感慨深いものがあった。NPOの活動で震災について伝えたいメッセージをカードにして集めている。神戸の方だけでなく、東京の小学校からもメッセージをもらった。東京の小学生も震災、地震について真剣に考え向き合っている」
〇安岡枝里子さん(兵庫県立大・2年)
「震災を思い出す機会に多くの人が来てくれた。東北の震災のとき、何もできない無力感からボランティアをやりたいと思い大学のボランティアサークルに入った。地理的距離を心の距離にしないよう、東北と他の地域をつなげたい」(記者=石橋雄大・小山絢子)
1月16日、長田区商店街のそばにある復興研究センターでは新年会が行われた。センターの事務局長・出口俊一さん、商店街の方々など、共に神戸で震災を経験し復興に奮闘する人々に加え、3.11の番組のために取材に来た岩手放送の記者も参加した。震災から19年経った今も復興問題に悩まされている人々の話は、震災は決して美化できないことを教えてくれる。
「震災で絆が深まったとか、他人を思いやる気持ちが強くなったとか言われるが、19年を振り返るとそんな時期は本当に短かった」と商店街の人は言う。仮設住宅に入る人と入らない人の間には亀裂が生まれ、妬み嫉みといったどろどろした人間関係に悩まされたそうだ。
阪神・淡路大震災を取材したジャーナリストは、震災直後は力を合わせて頑張る人間の力は凄いと思わされたという。しかし、2年後に再び取材に入ると「震災後の苦労をお前は知らないだろう」という反応をされたことが印象的だったと言う。参加者は皆「震災は美化できるものじゃない。震災後からが大変なのだ」と強調した。
語り部となってくれている遺族たちは被災者の中でほんの一部。多くの人々が語りたくない悲しみや後ろめたさをかかえていると参加者は言う。「誰かを傷つけるかもしれないし、嫌がられるかもしれない。それでもメディアは"いい話"だけを取り上げるのではなく、嫌な話も聞き出して上手く咀嚼して伝えるべき」という意見も出た。
神戸市は震災後すぐに住宅再建を打ち出したが、必要なのは「生活の再建」だった、と会に参加していた兵庫県庁の職員は話した。「仮設住宅に押し込められて支援を与えてばかりでは人間はダメになる。体育館からでもいいから、早く商売を再開したり、学校に行けるような環境を整えることが被災者に求められていたのだと、ここの人々を見ていて思う」。
震災から数年間「黙らされる圧力」を強く感じたと商店街の人々は言う。多くの支援を与えられていることを思うと、言いたいことが言えなくなった。「忍耐強い東北の人々が黙っているからと言ってそこに問題がないと思ってはいけない」。重い話も軽い話もしながら会は午後11時過ぎまで続いた。(記者=井沼睦)
「阪神・淡路大震災を次世代に伝える」というコンセプトを掲げ、2008年に活動を開始した「ヒトキズナぷろじぇくと」。「がんばれ東北」「3.11を忘れない」などといった東北への想いを、慰霊祭の参加者たちが白い布一面に書いていく。
「神戸から東北に伝えていきたいものがある。震災に遭われた方に心の支援がしたい」と話すのは神戸芸術工科大のかわいひろゆき教授。現在では東日本大震災の被害にあった人たちにアートやデザインの分野を生かした応援メッセージを送っている。
「入学する前からこのプロジェクトを知っていた」と話すのは、かわいゼミ生の仲優加里さん。活動を始めた当初は受け入れられるか不安だったという。
仲さん自身も3歳の頃に神戸で震災にあった。「震災はいつ起きてもおかしくない。テレビの話ではなく、いつ自分の身に起こるかわからないことだと知ってほしい」と震災を知らない学生たちにその経験を伝えている。「参加してくれる方の声を聞いていると、この活動を続けていて良かったと感じる」という仲さん。被災者の心のダメージを癒すためにも、今後も活動を続けていく予定だ。(記者=尾崎諒)
【写真】東北への応援メッセージを貼る参加者(1月17日・東遊園地で 撮影=仲林恒平)
深江キャンパスでは午後0時30分より、海洋政策科学部(旧・神戸商船大)の慰霊祭が開催された。教職員や制服姿の在学生、地域住民らおよそ40人が黙とう、献花した。
「黙とう」。冬の曇り空の中、乾いた船の汽笛だけが1分間キャンパスに響いた。その後、来場者は一人一人神妙な面持ちで白菊の花を慰霊碑にささげていた。
避難所となった深江キャンパスで物品整理ボランティアをしていた縁で、慰霊祭に毎年参加しているという近くに住む藤田浩嗣さん(52)は、「19年前は戦争の焼け跡みたいな状況だったが、だいぶ街が復興してきて本当によかった」と感慨深げに語った。(記者=鈴木太郎)
【写真】東北への応援メッセージを貼る参加者(1月17日・東遊園地で 撮影=仲林恒平)
午前5時10分、上野政志さんは灘区琵琶町の住宅街に車を止めた。娘の志乃さん(当時=発達・2年)がこの場所で亡くなってから19年。間もなくその時刻が迫ろうとしている。冷え切った風に背を向けて上野さんは弔いの地蔵を置き、ろうそくに灯をともしはじめた。
気温5度、上野さんの息は白い。「雨の日もあったし、雪の日もあった」。19回分の1.17を振り返るうち、話はいつしか志乃さんの思い出へと移った。月に1度は故郷の兵庫県佐用町へ帰省していたこと、手作りのお菓子を振る舞ってくれたこと、そして一生懸命だったアルバイト。「もっと仕送りをたくさんできたら、もっと丈夫な下宿に住まわせてあげることができたら」。考え始めれば後悔は絶えない。
19年間、子に先立たれる「逆縁」の重みを背負って生きてきた。本当なら年を取った自分から先に死ぬはずだった。「『順縁』の悲しみは時間が解決してくれる。でも、『逆縁』の悲しみは一生背負わないといけない」と、14日に神戸大で行った講演会で訴えた。震災を知らない学生に、自分の「生の声」を聞いてもらいたい。将来の教訓としてもらうこと、そして何より志乃さんのことを知ってもらうことで少しでも気持ちが軽くなるからだという。「親より先に死んではいけないよ」と講演を締めくくった。
風に消されること3回、ようやくろうそくに灯がともった。19回目の5時46分、上野さんはじっと目をつぶった。「なんだかんだみんな忘れていく」。志乃さんの下宿跡には真新しい一戸建て住宅が建っている。琵琶町の公園に献花に訪れるのも、地元の自治会のお年寄りばかりだ。それでも「生きていればこそ、また来ようと思う」。1.17の灯りをともしつづけるため、上野さんは記憶を背負って伝えていく。(記者=田中謙太郎)
【写真】(1月17日・灘区琵琶町で 撮影=田中謙太郎)
「今でも昨日のことのよう」と、息子の貴光さん(当時=法・2年)を亡くした阪神・淡路大震災を振り返るのは、加藤りつこさん。東日本大震災の発生当時から現在まで、「広島と福島を結ぶ会」で東日本大震災の被災者との交流を続けており、その中で年月の経過を実感することもある。
加藤さんの交流の中でも、福島県立いわき海星高校の生徒との交流は特別だ。昨年春の選抜高等学校野球大会で、21世紀枠で甲子園に初出場。加藤さんも駆けつけた。そんな高校生に年齢を聞き「17歳」という返答が来たとき、目の前にいる成長した姿も相まって十数年という期間の長さを実感するという。
東日本大震災から3年弱経ったが、加藤さんの目に映った東北の光景からは、復興が進んでいることを実感できないままだ。がれきは片付いてはいるものの、実際には1カ所に寄せ集めただけ。「来るたびにきれいになっていった」神戸とは大きな違いがあるという。
今年は講演を通じて知り合った、地元広島の高校に通う高校生を連れて1.17を迎えた加藤さん。言葉で伝えるだけでなく、実際の様子を見せることでも若い世代にメッセージを伝えていく。(記者=香月隆彰)
【写真】(1月17日・東遊園地で 撮影=香月隆彰)