被災地からのメッセージ

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【写真】神戸〜大阪間の鉄道は、ことごとく寸断された。(1995年1月20日 神戸市東灘区で 撮影=白石辰士/NEWS立命)


  • あの日テレビに写し出された故郷、神戸(神戸市須磨区 会社員)
  • どこで水がもらえるか情報交換した日々(兵庫県西宮市 主婦)
  • “大阪と神戸の温度差”何度思ったことだろう(兵庫県宝塚市 主婦)
  • 忘れかけていた記憶 よみがえる(神戸市中央区 55歳 主婦)
  • 生かされてあることの意義かみしめ(神戸市東灘区 57歳 元会社員)

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    あの日テレビに写し出された故郷、神戸
    神戸市須磨区 小坂保恵(会社員)

    私は当時、
    神戸市須磨区の山陽電車板宿(いたやど)駅から
    歩いて5分の所に住んでいました。
    そして、東灘区の阪神深江駅から
    歩いて15分の深江浜町の会社まで通勤していました。
    (阪神高速道路の倒壊現場のすぐ近くです)

    1995年1月17日は、
    その日まで有給を取って九州の湯布院へ旅行に行っていました。
    1月17日の朝起きて、テレビをつけると、
    高速道路が倒れている画面が映し出されていました。

    仕事に行きたくないからそんな夢を見るんや、
    きっと寝ぼけてるんや、としばらくボー然としていると、
    今まで経験したことのない大変なことが
    起こっていることがだんだんわかってきました。

    毎日、深江駅を降りて、
    あの高速道路の下をくぐって通っていました。
    それでもなお、あの巨大な高速道路が
    倒れたことが信じられませんでした。

    あわてて支度をし、
    湯布院駅の駅員さんに神戸まで帰れるのかどうかを尋ねると、
    橋も落ちてるし、飛行機で大阪まで行くか、
    途中まで新幹線で行くしかないと言われました。
    その時点で、新幹線は広島までしか通じていませんでした。

    広島に着いたら
    まずホテルに宿をとりました。
    テレビを見て電話をかけるためです。
    そのホテルに向かう途中、震災の当日なのに
    もう既にそごう前で募金をされている人々を見かけました。
    通常の募金というのは、
    たまにしかお金を入れている人を見ないのですが、
    その時は人だかりがして、お札を入れている人もおられました。

    私は、ありがたいのと、
    自分が被災者で募金される立場になっているかもしれないことと、
    被害がかなりひどいことを悟り、涙が止まりませんでした。
    頭がパニック状態だったせいか、道に迷い、
    そこで原爆ドームを後ろから見ました。
    家もあんなになっているのではないかと、
    恐ろしさに足がすくんでいました。

    広島には3泊しました。
    2泊目からは、いつ帰れるのかわからないので、
    ユースホステルにしましたが、
    ずっとテレビを見続け、電話をかけ続けました。

    テレビに、歩いて3分ほどの私の母校である、
    大黒小学校が写っていました。
    焼け出されたりした人が
    廊下にまであふれていました。
    その中に、
    「がんばろな」と肩を抱き合う同級生の姿がありました。

    電話がかかったのは3日目加古川の親戚の家でした。
    それまで尋ね人の電話も全くかかりませんでした。
    3日間、私の頼りは、テレビだけでした。

    それから加古川の親戚の家に3泊し、
    1週間ぶりに帰った我が家は
    かろうじて立っているというだけの代物で、
    2階の私の部屋は屋根が裂けてそこから空が見え、
    私のベッドを目掛けたように、テレビや電気が落ち、
    タンスが倒れていました。
    時計は、5時47分を指して止まっていました。
    私もそこにいれば、
    その時間で私の時計も止まっていただろうと思います。

    その年の5月末、
    電気はきていましたが、
    ガスと水道はずっとこないままの家で暮らしました。
    家はダメだったけれど、
    身内が無事だったことは幸いでした。

    今から考えてみれば、
    震災のときも、地下鉄サリン事件の時も
    重大だけれどかなり危険な取材だったと思います。
    先週オウムの麻原被告の裁判がありましたが、
    8年はやっぱり長い歳月です。

    震災のことも神戸の人間である私でさえ
    日々の生活に追われ
    ごくたまにしか思い出すことはありません。

    あの頃を思い出すよい機会となりました。
    ありがとうございました。

    <2003年5月2日/メールで>

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    どこで水がもらえるか情報交換した日々
    西宮市 主婦(64)

    本に書かれていることは現実に遭遇したものにとっては
    一つ一つがそうだそうだと肯定してうなづくことばかりでした。
    見ず知らずの人ともお互いに話し合い、
    どこで水がもらえるとか情報交換も皆でし合いました。

    しかしこういう状況はその当事者しかわからず
    共感できない部分が多いものですが、
    親や友達の手記、追悼文は涙なしには読めません。
    これを載せてあることによって経験しなかった人々の心にも
    ぐっとくい込んでいくように思いました。

    他人事と考えていた人にも、
    外形は少しずつ整いかけていますが、それを見て、
    もう過去のことだと思ってしまっている人にも、
    多くの人の痛みをわかりあい、心にとどめていく為の助けに
    この本がなるのではないかと思います。
    そして自分だけのことを考えるのでなく、
    まわりの人々についても考えられる人に
    皆がならないといけない時だと思います。

    そして若い人々がもっともっと命について
    考えて欲しいと思います。
    そんな私の思いを代弁して頂いている様で
    読んでいてうれしくなりました。

    後半の危機管理意識については大切なことであり、
    必要なことですが、
    ちょっと丁寧すぎるように私には思えましたが…。

    参考図書や資料を掲載してあるのは、
    もっと詳しく読んでみようとか、調べてみようという人に
    役に立ち参考になると思います。
    <2000年3月28日/手紙で>

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    “大阪と神戸の温度差”
    被災地で何度思ったことだろう

    高松 富二子 (兵庫県宝塚市・主婦)

    阪神大震災のあと、
    実に多くの震災関係の本が出版されました。
    この度、縁あって読ませて頂いた
    住田功一氏による『語り継ぎたい。命の尊さ』は、
    単なる震災の記録に留まるものではありません。

    私がもっとも感銘を受けたのは
    「震災から3日後、
    神戸からわずか40キロの大阪では
    何ら変わることなく若いカップルが
    海に面したガラス張りの喫茶店で
    お茶を飲んでいる。
    この天と地ほどの差は一体何なのだろう」
    と、氏が感じたところなのです。

    このことは、私を含め、被災地の人達は
    誰もが何度思ったことでしょうか。
    「我が身に起ったことでなければ
    なかなか心の傷の深さまで、
    同じレベルで受け止められないのだ」
    と言うには、あまりにも近い距離なのです。

    この震災ノートは多くの資料を添えながら、
    語るように優しく綴られています。

    このノートにより、
    長く人生を歩んで来られた人達にも、
    これからの時代をになう若い人達にも、
    あの大震災に限らず、
    内外で日々起きている
    簡単に人が殺される現実にまで心をとめて、
    人間の命の尊さを考えるきっかけと
    なっていくことと信じます。
    <1999年9月14日/はがきで>

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    忘れかけていた記憶 よみがえる
    神戸市中央区 橋本悟子(55歳 主婦)

     あの朝、最初は自分の家だけがやられたと思った。外に出ると近所も同じ被害に。そのうち、明るくなって、どんどんひどいことがわかってきました。
     学生さん達も亡くなった、ということは、話しには聞いていました。
     地震のあと、自分達のことばかり考えていたけど、学生さん達のことを読み、涙しました。
     自分の子供と同じ年代の学生さん達のこと……。親御さんのお気持を思うと、身につまされます。
     この本は、いいかげんな気持ちでは読めませんでした。  日常に追われ、忘れかけていたあの日を思い出させてもらいました。
    <1999年8月29日/電話談>

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    生かされてあることの意義かみしめ
    神戸市東灘区 川野洋二(57歳 元会社員)

     挿入写真など拝見しましても、当時のことが蘇って思い出され、今も心痛む思いでいっぱいです。
     三宮の交通センタービルや阪急ビルの取り壊しと共に、私の「青春」も一緒に消えて行きました。街が壊れて行く悲しみは、初めての実感。体験者のみにわかる、悲しみでありましょうか。
     住田さんが訴えて(呼びかけて)下さっていること、一つ一つ納得し、且つ、心救われる思いでいっぱいでした。

     私など、自宅が全壊したというものの、家族は全員無事。震災でかけがえのない人を亡くされた方たちのことを思うと、生かされてあることの意義をかみしめながら生きることの必要性を、今も思います。  当たり前と錯覚しがちな「いのち」。大事に生かしたい(生きたい)と、再確認するばかりです。

     被害が物的なことのみでとどまった自分は、(もちろん、復興途上での心的な傷も一杯体験しましたが、時間の流れに消えて行く程度のものでした)あの震災にたくさんの学びがあり、憎たらしさ同時にと愛着(地震くん、いろいろ教えてくれてありがとうな、と、そんな思い)さえ覚えてもおりましたが、「震災ノート」を読んで、「死」という被害を受けたご家族のことに思いをいたし、自分の世界しか見えていないことを恥ずかしく思いました。<1999年7月8日/メールで>

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