本に出ている人からのメッセージ
(含 神戸大学関係者からのメッセージ)


Photo
【写真】神戸大では39人の友を送った。(1995年3月17日 神戸市灘区の神戸大学六甲台講堂で 撮影=神戸大ニュースネット)


  • 診察机でほほえむ妹のポートレートとともに (大阪府 中條鉄子)
  • もう一度会いたい気持ちがつのります (大阪府 戸梶幸夫・栄子)
  • 天国で3人仲良くしていますか (神戸市 藪田洋子)
  • 公治の助け求める姿が目にうかんで… (愛知県 中村 房江)
  • 勇気を出して読みました (静岡県浜松市 鈴木 弘・綾子)

  • 広島から神戸を想う (広島市 横林義春)
  • 安置所の寒さ忘れられない (三重県 藤原宏美)
  • 決して過ぎ去ったことではないということを (大阪府  森 尚江)
  • 慰霊碑の前に立つ安らぎ (千葉県 二宮博昭)
  • 亡くなった人たちのこと忘れないで (千葉県 二宮典子)

  • 心のぬくもり語り継いでいってほしい (神戸市 美崎教正)
  • 失ったものを失うこと (東京都 広瀬弘忠)
  • 思い—伝わるものと信じます (愛媛県 工藤延子)
  • 深い悲しみ そっと心の奥に (神戸市 川村明子)
  • 息子に謝り続けてきた毎日でした (兵庫県 白木朋子)

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    診察机でほほえむ妹のポートレートとともに
    大阪府寝屋川市 中條鉄子(医師)

     ・亡くなった神戸大学病院医師・中條聖子さんの姉
     ・第3章「亡くなった人たちを記憶にとどめる」(26ページ 参考図書欄)

    一気にあの現場に引き戻され、一息に読ませて頂きました。
    あの日、夢の途中で逝った
    若き医師、妹・中條聖子の本『夢なかば』のことも、
    参考文献に記して頂きありがとうございました。

    時間とともに「震災」という名の
    「一つの事件」として片付けられてゆく。
    そのひとまとめにされる事件の中に
    無数のドラマがあり、そのすべてに
    大切な人、人、人……がいることをわかってほしい。
    そんな想いを、きっと感性豊かな高校生達なら、
    自分達の心にも刻んでくれると思います。

    一瞬として忘れることのない苦痛、寂寥、渇望……
    いろいろな思いが、波動のように大きくなったり小さくなったり、
    打ち寄せてはひいてのくり返しです。

    昨年、昨年診療所の診察机の前に妹のポートレートを置いてから、
    いつもいっしょに診療してもらっているような気持ちで
    不思議と心が落ち着くように思えます。

    これからの人生、二人三脚で妹といっしょに頑張らせてもらおう……
    などと自分を鼓舞している昨今です。
    <1999年3月25日/手紙で>

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    もう一度会いたい気持ちがつのります
    大阪府 戸梶幸夫(50歳・会社員)
          栄子

     ・亡くなった神戸大生・戸梶道夫さんの父母

    西尾荘の三人のことを思うと、
    熱かったろうな、苦しかったろうと
    くやしくて悲しくって涙が止まりません。
    たくさんの救助の人が来てくれたら
    助かっていたかもと思うとくやしいです。
    同じように息子を亡くしたとはいえ、
    中村さんのお母さんの気持ちを思うと、いつもどうしているかな、
    元気にしているかなと気掛かりです。

    月日が経つにつれ、もう一度会いたい気持ちが募ります。
    元気な息子に会いたいです。
    世間では地震のことなど忘れ去られようとしています。
    色々な事を少しでも多く
    このような本にしていただき感謝しています。
    今は三人の記事を読んだだけで、
    あの日を思い出し、悔しさと悲しさで
    読み進む事が出来ませんが、
    又、落ち着いたら、ゆっくりと読ませて頂きます。

    私達も道夫の大好きだった
    「一生懸命」を胸に頑張って生きてゆきたいと願っています。
    <1999年3月1日/手紙で>

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    天国で3人仲良くしていますか
    神戸市灘区六甲町 藪田 洋子 (64歳・主婦)

     ・三人の神戸大生が亡くなった西尾荘の隣に住んでいた主婦
     ・第3章「亡くなった人達を記憶にとどめる」(25ページ)

    平和だった早朝、突然グラグラ、ガタン……。
    この世では想像できないことがおこったのです。

    地震だと思う間もなく、
    火の粉が次から次にパラパラと落ちてきました。
    「近くで火事だ」
    その瞬間の恐ろしさを忘れることはできません。

    西尾荘は、足の踏み場もないくらい全壊。
    がれきの山となり、
    その中で、近所の学生さん達が、おばあ様を、
    続いて女性の方も助け出してこられました。

    火の回りは速く、炎が西尾荘に移りつつあるのに、
    学生さん達は、表に裏にと一生懸命走り回り、
    仲間を助けようと最後まで我が身を忘れ、
    必死に努力されていました。

    なにもできない私は、
    「火が迫ってきている」「危ないので早く逃げて」と
    大声で叫び続けていました。

    鈴木君、中村君、坂本君。
    天国で3人仲良くしていますか。
    今、何をしていますかと、
    空に向かって時々話しています。
    <1999年3月16日/手紙で>
    震災から2年 被災下宿は今… 「西尾荘」へ
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    公治の助け求める姿が目にうかんで…
    愛知県豊明市 中村 房江(53歳・会社員)

     ・西尾荘で亡くなった神戸大生・中村公治さんの母
     ・第3章「亡くなった人達を記憶にとどめる」(23ページ)

    一気に読み、涙で文章がよく見えなくなり、
    ページをめくる回数も増え、
    いつの間にか
    西尾荘の記事にとりつかれたように引き付けられてしまう…。

    長い時間かかりました。
    そこには公治の助けを求める姿が、当時のまま目にうかんでくるから。
    ショックも大でした。

    ごめんなさい。
    同じ境遇の方々がたくさんおられるのに。

    四年も過ぎたなんてとても思われない。
    まだ、公治は大学三年で神戸で生活しているとしか…。

    でも、21歳から先は無ですね。
    ほんとうに21歳まで。

    もう一度逢いたい、声が聞きたい、と、
    母親の切ない思いがとめどなく湧いてとまりません。

    妹は22歳。
    兄より大きくなったのに、
    妹の21歳のとき、
    兄ちゃんは、あなたの今までしか生きていなかったのよと、
    泣きながら話したこともありました。
    いつまでもつらく悲しい出来事ですね。
    母親として。
    <1999年3月12日/手紙で>

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    勇気を出して読みました
    静岡県浜松市 鈴木 弘 (52歳・建設業)
                  鈴木 綾子

     ・西尾荘で亡くなった神戸大生・鈴木伸弘さんの父母
     ・第3章「亡くなった人達を記憶にとどめる」(25ページ)

    今までは、震災のことに関しては、
    知りたいけどあまり見たくないという気持ちが強く、
    今回は勇気を出して、じっくりと読ませていただきました。

    改めて、震災のすごさをひしひしと感じさせられました。
    その中で、息子も頑張っていたんだと思うと涙があふれてきました。

    このような、阪神大震災の記憶を伝えていただける事は、
    とても感謝しております。
    今は、いつどこで何が起きても不思議ではない時代になりました。

    この教材を通して、一人でも多くの学生さん達が、
    震災の教訓を生かして、役立ってくれたらうれしく思います。
    私自身も教えられることがたくさんあり参考になりました。

    これからも、
    息子は、大好きだった神戸で社会人となり元気でいてくれると、
    自分自身に言い聞かせ過ごしていきたいと思います。
    <1999年2月13日/手紙で>

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    広島から神戸を想う
    広島市安芸区 横林 義春 (69歳)

     ・著者=住田功一が広島のラジオ特番取材のときに出会った、著者の父の同級生
     ・第6章「語り継ぐこと」(50ページ)

    1月17日の大震災の当日、
    小生も休みで朝からテレビを見ておりました。

    たまたま住田さんの字幕を見て、
    懐かしさと映像の悲惨さに涙したことを、
    つい先日のようにはっきりと覚えております。

    広島の原爆の悲惨さを映像とダブらせながら、
    くいいるようにみておりました。

    天災と人災ということで、比較はできませんが、
    悲惨さの点では変わらなかったと思います。
    私もこれを機会に、
    震災のことを友人、知人に知ってもらいたいと思います。
    <1999年3月3日/手紙で>
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    安置所の寒さ忘れられない
    三重県津市 藤原 宏美(58歳)

     ・亡くなった神戸大生・藤原信宏さんの父

    早速読ませていただきあの時のことを思い返し、
    仏壇の写真をみながらこの手紙を書いております。

    私の場合は、地震当日の十七日は電話をまち、
    翌十八日に一人で、十九日には家族全員で現地に行き、
    夕刻に自衛隊の手で発見されました。
    西宮北口からの道のりの長かったこと。
    何を考えていたのか、
    特に十八日に、つぶれた子供の部屋の前に立っていたとき、
    あの時の自分はなんだったのか……。

    保健センターまで運べないという警察の話を聞いて、
    マイカーを出していただいた西村さん、
    毛布をそっとかけていただいた滑川さん、
    非日常の中での地元の方の暖かい気持ちには、今でも頭が下がります。

    保健センター体育館の厳しい寒さ、
    子供の片側は小さい子供、片側はバケツに入ったお骨。
    小さな子供の前で若いご両親が一言も話をしないまま正座をして、
    身じろぎもせず、ただうつむいて…
    というのが強い印象として残っています。

    何故なのか、親のせいなのか、
    写真には時にはグチり、時には謝っていますが、
    たまらなくなることもあります。

    大学の階段の上の慰霊碑、六甲道の駅、
    下宿跡、そして神戸の街。
    他人事でない部分もあるような気がし、
    つらくもあり、ホッとする部分もあるところです。
    <1999年2月27日/手紙で>

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    震災から2年 被災下宿は今… 「上原肇 方」へ
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    決して過ぎ去ったことではないということを
    大阪府  森 尚江 (61歳・主婦)

     ・亡くなった神戸大生・森 渉さんの母

    どんな大きな出来事でも、又、どんなに身近なところにいる方々にでも、
    自分自身のことでない限り、
    一日一日とうすれてゆくのは当然のことだと思います。
    もう四年もたった今、
    あの日の悲しみを、息子のことを、公衆の前で語れるのは、
    一月十七日たった一日だけ、というような、
    そんな気持ちになっているのは、私だけではないと思います。

    そう思う時、一ページ一ページに目も心もすいつけられて、
    毎日どこかのページを開いている私は、
    どんなになぐさめられていることでしょう。

    私達の息子・渉は、
    法学部の四回生で五百旗頭(いおきべ)先生のゼミの学生でした。
    東灘区本山中町の下宿で、
    (私達クリスチャンは、神様のみもとに召されたと信じておりますが)
    家の下じきとなりました。
    読売新聞の記者として就職も決まっておりました。

    娘・祐理は
    NHK教育TVの「ゆかいなコンサート」の
    歌のおねえさんとしてつとめさせていただきましたが、
    今はクリスチャン・シンガーとして
    各地で歌わせていただいております。
    弟の死の直後から
    がれきの中、たき出しの中、
    被災地でボランティアコンサートを続け、
    今も、教会でチャリティは続けております。

    今年の一月十七日は、長田区の御蔵小学校で、
    PTAと児童のためのコンサートにお招きをいただきました。
    私もまいりましたが、
    神戸といえば、
    (切ないほどに)完全に復興した見事な三宮元町かいわいしか
    知りませんでしたが、
    長田区へ行きほんとうに驚きました。
    ほんとうに、まだまだ痛みの真中にある方々ばかりでした。

    PTA会長であるパン屋さんは言っておられました。
    住む家が建ったといっても、
    この間の台風にやっとたえられたくらいのバラックですよ。
    製パン機を入れて三か月目のローンを
    二つも三つもかかえてますしね。
    となりのクリーニング屋さんも同じ事ですよ、と。

    校長先生も、教頭先生も、
    大のおとなの男の方がすぐに泣かれました。
    子供達が何人か代表で作文を読みましたが、
    家族を失い、幼い心に大きな傷を受けていました。

    私は、鎮魂といわれるルミナリエのまぶしい光がとても悲しくみえますが、
    決して決して過ぎ去ったことではないということを認識いたしました!
    <1999年3月15日/手紙で>

    「激震のあの日から一年〜1995年3月17日神戸大学合同慰霊祭」へ
    森 渉さんの追悼手記のページへ
    震災から2年 被災下宿は今… 「イーストハイム」へ
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    慰霊碑の前に立つ安らぎ
    千葉県船橋市 二宮 博昭 (54歳・会社員)

     ・亡くなった神戸大生・二宮健太郎さんの父

    一気に読ませてもらいました。

    神戸大学学舎前に建てられた慰霊碑の前に立ったときに得られる
    一種の安堵感、落ち着きを、
    この本からも得られたように思います。

    息子・健太郎(法学部2回生)は
    六甲道駅を海側にまっすぐ下りて、
    国道2号線を横切ってまもなくの友田町で被災しました。

    東京からかけつけて
    倒壊したアパートの下から冷たくなった息子を引っぱり出し、
    リヤカーに乗せて運んだあの日のことを
    鮮明に思い起こしました。
    全てが異常でした。

    傷ついた何百体もの遺体が
    検死を待って整然と並べられた中で
    昼夜を過ごしたあの日のことは、
    この平和な日本の人々が想像しうる世界ではありません。

    住田さんが熱い心と冷静な目で、
    ご自分と他の人々の被災体験をこのようにまとめ上げられたことは、
    震災の意味を見つめる上で、
    大変に役に立つものと思います。
    <1999年3月13日/手紙で>

    二宮健太郎さんの追悼手記のページへ
    震災から2年 被災下宿は今… 「村上文化住宅」へ
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    亡くなった人たちのこと忘れないで
    千葉県船橋市 二宮 典子(49歳・主婦)

     ・亡くなった神戸大生・二宮健太郎さんの母

    お送りいただいたこのノートを読ませていただいて、
    涙があふれてきてとまりませんでした。

    「皆に忘れて欲しくない。あの時の街のにおい、
    あの青いビニールシート、土ぼこりなどを忘れないで。
    私の息子健太郎もこの6000人の中の一人なのよ。」と、
    大声で叫びたくなりました。

    神戸の街はどんどん変化していくでしょう。
    でもその陰に亡くなった人たちの姿があることを
    忘れないで欲しいと思います。

    私の息子 健太郎は21歳で旅立ってしまいましたが、
    我が家の中では「健は25歳だから今は・・・」と、
    いつも家族と共に年をとっているのです。

    神戸で亡くなった人達の家族は皆そうだろうと思います。
    世間では風化しつつあるといわれる大震災のことを
    忘れずにいて下さることに
    遺族の一人として本当に心強く感じております。
    <1999年3月13日/手紙で>

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    震災から2年 被災下宿は今… 「村上文化住宅」へ
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    心のぬくもり語り継いでいってほしい
    神戸市 美崎 教正(66歳・元神戸大学発達科学部教授/神経内科医師)

     ・亡くなった神戸大生・キン・テイ・スエさん、ウエイ・モウ・ルインさんの身元保証人の教官

    ページを追ううちに
    自然と当時が思い出され自然に涙が出るのを憶えます。

    今後もひきつづき、この
    「歴史」と「人としての心のぬくもり」を末永く
    語り継いでいってほしいと念じます。

    また、著書にご紹介いただいている多くの参考文献、
    大変心強く思います。
    今も神戸の書店には震災コーナーが設けられ
    市民に語りついでくれています。

    私の生涯忘れ得ぬ記憶として
    次世代に伝え続けていきたく思っております。
    <1999年3月5日/手紙で>

    キン・テイ・スエさん、ウエイ・モウ・ルイン さんの追悼手記のページへ
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    失ったものを失うこと
    東京都杉並区 広瀬 弘忠(東京女子大文理学部教授/災害心理学)

     ・異常事態が発生しても正常だと思い込む自己防衛を「正常性バイアス」という
     ・第2章「日常から非日常への切り替え」(17ページ コラム)

    拝読しながら、当時のことを思い出しております。

    あれから、何度も神戸を訪れていますが、
    街からは、震災の姿が失われつつあります。

    神戸の人々が失ったものは何だったのか。
    失ったものを失うことについて考えています。
    <1999年3月2日/手紙で>
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    思い—伝わるものと信じます
    愛媛県伊予三島市 工藤延子(52歳)

     ・亡くなった神戸大生・工藤 純さんの母
     ・第8章「心の傷を乗り越えて」(71ページ)

    一気に読ませていただきました。
    たくさんの図表や写真、時間経過などによって、
    これまで、純にかかわることだけだった
    私の断片的な記憶が整理できたような気がします。

    特に学生に関する統計は興味深いものでした。
    高校生のみなさんにも、
    きっと住田さんの思いが伝わるものと信じます。
    〈1999年2月15日/手紙で〉

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    深い悲しみ そっと心の奥に
    神戸市西区 川村明子(主婦・48歳)

     ・亡くなった神戸大生・川村陽子さんの母

    私は震災で亡くなった神戸大学の学生の内の一人、
    川村陽子の母親でございます。

    おっしゃられる通り、
    震災を語り継ぐ事は今後の教訓として、
    被害を最小限にくいとめる為には、どうしたら良いのかを考え、
    行動する手段として大切な事だと思います。

    ただ、
    昨日まであんなに元気だった娘を突然に亡くしました私達夫婦にとって、
    あの記憶はあまりにも残酷で
    いまだに心に深い悲しみ、傷を負っているのも事実でございます。
    この心の傷は、生涯負っていくものと覚悟して
    心の奥にそっとしまい込んで、
    今は日々、淡々と過ごしています。

    ただ、夫は私よりももっと深く傷ついているらしく、
    テレビなどで、震災関連の映像が流れたりすると、
    いまだにパッと他のチャンネルにかえてしまいます。

    仏前にはお花は欠かさず、
    朝晩、娘に語りかけるのが私達の日課となっています。
    ただ、それでも休日には二人でウォーキングやドライブなどを楽しんで、
    同じ傷を持つ者同志、より夫婦の絆が強まった気がしています。
    〈1999年3月1日/手紙で〉

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    息子に謝り続けてきた毎日でした
    兵庫県伊丹市 白木朋子

     ・亡くなった神戸大生・白木健介さんの母
     ・第4章「助かった命 失われた命」(27ページ)

    私は、当事者でありながら、
    自分の息子のこと以外何も見ていない、聞いていない、
    言っていないということがよくわかりました。
    あんなことも、こんなこともあったのかと、
    知らなかったこと、たくさん教えてもらいました。

    住田さんは、いつも、
    「もっとできることはなかったか」と、
    思い悩んで苦しんでいらっしゃいますが、
    この本をおだしになられたら、
    もう、慚愧の念に苦しまれることはありませんように。
    肩の荷を降ろされてください。
    震災直後、住田さんだからこそできたことを
    なされたのですから。

    そういう私は、息子に、
    「守ってあげられなくてごめんネ」と
    千五百日余り、毎日謝り続けてきましたので、
    お気持ちはわからなくはありませんが…。

    普通は「かわいそうに」と同情はしてもらえても、
    それだけで終わってしまうのですが、
    この本を読んだ人は「かわいそうに、私たちに、
    逝ってしまった人たちに代わって何かできるはず」と、
    震災という未曾有のできごとをしっかりと心に刻んでくれたことでしょう。
    また同じような災害にでくわしたとき、
    危機管理意識が身について、落ち着いて行動できるんではないでしょうか。

    私も、神戸へ嫁いでから23年間神戸で暮らし、
    もう神戸だい好き、大満足で、プライドを持っておりました。
    神戸がこんなになってしまった悲しさは、
    また、神戸だい好き人間にしかわからないかもしれませんが、
    この本で多くの人に理解していただいたような気がします。

    まだまだ頑張らないといけません。
    第一に娘が本当に幸せになってくれること。これを見届けなくてはと思っております。
    ガレキの中から息子が掘り出されるまで、
    「兄ちゃんは生きている!!」と信じて
    「兄ちゃんガンバレ!!ガンバレ!!」と、
    私といっしょに声をかけ続けましたが…。
    娘もこの震災で大きく運命が変わりました。

    私たち家族にはかけがえのない子でした。本当に残念無念です。
    娘は、プラス思考の子ですので、私もずいぶん救われております。

    第二には、"白木基金"(神戸大学経済学部の卒業生のなかで
    成績優秀者を顕彰する基金)を
    できるだけ長く存続させたいため、目下資金を貯めています。
    大台に乗ったら大学へもっていこうと思っています。

    今年(一九九九年)一月十七日に、
    東灘区御影町の山手幹線山側の中勝寺の東、弓弦羽神社の参道入口の、
    旧水神宮跡地に慰霊碑ができました。
    郡家(ぐんげ=町名)のところ、上段の中間あたりに名前があります。
    いつか、何かでこの道をお通りの節は声をかけてやって下さいますか。

    この御本ができて、今、一番喜んでいるのは息子かもしれません。
    愛猫キコと一緒に写真を載せてもらって、
    本当に、本当にありがとうございました。
    〈1999年3月9日/手紙で〉

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