報道関係者からのメッセージ

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【写真】窓ガラスもほとんど割れてしまった、神戸新聞会館。倒壊の危険があるため、新聞社の編集局をはじめ、映画館などのテナントも退去した。(1995年2月 神戸市中央区雲井通で 撮影=神戸大ニュースネット)


  • シミュレーション。そして行動(東京都 出版社編集者)
  • 高速の落橋を知り、ただごとではないなと思ったが…(通信社記者)
  • 「あれでよかったのか」の思い胸に(神戸市 新聞記者)
  • 一生語り継ぐテーマとして(神戸市 出版社編集者)
  • 忘れてはいけない…(東京都 新聞記者)

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    シミュレーション。そして行動
    匿名(29歳 出版社編集者女性)

    これまでは、恥ずかしながら防災についてほとんど知識がなく、
    対策も取っていませんでした。
    毎日の生活の中で次に起こりうることは予測しているのに、
    いつでも起こりうるはずの非常事態に対しては
    あまりにも甘い見方をしていたと思います。
    今後はシミュレーションを行い、
    いつ何時災害が起きても対応できるよう、
    備えようと誓いました。

    いても立ってもいられなくなり、
    神奈川県厚木市にある「神奈川総合防災センター」を訪ねました。
    「地震体験コーナー」で震度7を体験しましたが、
    体験が終わっても身体がまだ揺れているようで、
    胃がもたれるような、そして心が乱されるような
    不快さを覚えました。

    「震災関連死」について触れている部分がありましたが、
    まさにこれは、たしかに起こるであろうと感じました。
    人はちょっとしたことでも
    大きく心身を害される弱い生き物なのに、
    想像を絶するような事態に巻き込まれたら
    それこそひとたまりもない。

    だからこそ、日ごろの備え、
    そして周囲との助け合いが
    とても重要なのだと思います。

    防災センターには、休日ということもあってか、
    小学生や親子連れの姿が多くみられました。
    災害のことを、身をもって知ることは
    とても大切なことだと思います。

    ただ防災訓練をするだけでは
    実際の危険性はよくわからない。
    本で読み、調べるなど、
    さまざまな疑似体験をすることで、
    西湘高校の生徒さん達の防災マニュアル作りのように、
    積極的な行動につながってゆくのだと思います。

    このような取り組みは、全国に広がってゆかねばならない
    (もうすでに広がっていると思いますが)。
    一人でも多く、
    以前の私のような危機感のない人を
    減らしてゆければと、切に思います。
    <2003年5月2日/メールで>

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    高速の落橋を知り、
    ただごとではないなと思ったが…

    中川和之 (46歳・当時 時事通信社社会部 遊軍記者)

    あの日は6時前後に会社から呼び出しがかかり、
    泊まりの後輩が「NHKが神戸で震度6とか、5とか言ってます。
    Mは7.2、震源地は淡路島だそうです」と聞いて、
    電話を切って直ちに実家(芦屋)に電話したら幸い通じました。

    明るい声で「今、がれきの中から電話をとりだしたところ、
    誰もけがしてないし、大丈夫」と聞いて安心して出勤しました。

    頭の中では、淡路島直下のみを震源とする、
    長野県西部地震型地震で、
    せいぜい被害者は数十人クラスであろうと想像して、
    もうベテランの領域に入る私は
    現地に行かせてもらえないだろうなと考えながら、
    スーツにコートで出社してしまいました。

    2週間、現地にいて、帰ってきてから1カ月半、
    「阪神大震災を生き抜く」という自社出版物の編集にあたるとは、
    夢にも思いませんでした。

    出勤途上で、NHKをラジオで聴きながら、
    高速の落橋を知り、これはただごとではないなとは思いましたが、
    たまたま揺れの周期とあった部分が、
    しかも手抜き工事だったとかだろうと考えてました。

    会社について、たしか過去の地震被害の年表
    (大震法施行を受け、私が1年生の時に作らされたものがおおもと)
    に手を入れて、出稿した後、専門家の話を聞いて出した原稿が、
    次のものでした。


    ◎関東大震災以来の都市型被害
     =高速道路の橋脚落下は初めて=

     今回の高速道路の被害について
     岡田恒男東京大学生産技術研究所教授(地震工学)は
     「昭和五十三年の宮城県沖地震の際に、
      東北自動車道の高架部分でひびが入って
      通行止めになった例はあったが、
      日本の高速道路で橋脚が落下したのは初めてのケース」
     と指摘する。
     同教授によると
     1.日本の高速道路は米国などと比べ強固にできているが、
      マグニチュード7・2の大地震が直下で起きたので、
      地盤が弱いところに弱点があった
     2.震度6でも三陸はるか沖地震の八戸の揺れより
      かなり大きい揺れだった−と推定できる
     という。
     同教授は
     「二年間に五回目の大地震だが、
      これまでは人口の密集地では起きておらず、
      大規模な被害という意味では関東大震災以来だ」
     と話している。
    (後略)


    見出しに関東大震災以来と取るのは、ちょっと躊躇したのですが……。

    この本を40分あまりで読み切ってしまい、
    あの時の自分の行動のことを思い出しました。
    まだ、自分自身の行動を書き出したことはなく、
    いつか書いておこうと思わされました。
    <2001年1月15日/メールで>

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    「あれでよかったのか」の思い胸に
    神戸市東灘区 桜間裕章 (44歳・新聞記者)

    私も震災直後のことを思い出しました。
    自宅の賃貸マンションは全壊でしたが、家族は無事でした。
    近所に救助に行ったのですが、その家は周辺の建物も折り重なるように倒壊し、
    手が付けられないようなありさまでした。
    住人はだれも出てきていないとのことでした。
    最初は道具もなく、しばらくしてバールを持ってきた人が来て、
    少しずつ作業ができました。

    「助けてください」の子ども声を頼りに、二階の畳や天井を取り除きました。
    その子の頭がのぞくころには、十数人が救助に集まっていました。
    救助に加わっているとはいえ、道具もなく、
    どれだけ力になれたのかはおぼつかないありさまでした。

    人手が十分にそろってるのを見ながら、私が気になったのは、
    「会社に行かなければならない」ことでした。
    大きな地震発生ですから、夕刊の記事を書かなければならない。
    すでに午前9時ごろになり、そのことであせっていたわけです。

    そのまま壊れた自宅に引き返し、歩いて会社に向かいました。
    「本当に会社に行くの」と、妻が言ったのを覚えています。
    当然ながら、家の近所で会社へ行こうとする人など、
    だれもいなかったのですから。

    私が救助に行った家の家族は、実は、少し知っていました。
    私の二男と同じで、当時、小学一年生の息子さんがいた家です。
    6人家族ですが、結局、中学生と小学生の長男、二男だけが救出され、
    両親とその父、小学一年生の息子さんの4人が
    亡くなったことを後に知りました。
    4人とも震災直後に亡くなったことは確かなようでしたが、
    救助活動の途中で会社に向かった私にとっては、
    あれでよかったのか、の思いはずっと残っています。

    もちろん私の家族も住む場所を失ったのですが、
    芦屋に私の実家があり、
    そこで暮らすこともできるだろうと考えていました。
    芦屋も被害がひどいであろうことは、
    なぜか考えの中で抜け落ちていました。

    私の両親の家の周辺が、実は、
    私の自宅周辺よりもはるかに被害の大きな地域で
    あったことを知ったのは、
    震災の次の日のことです。

    当時は会社に泊まり込んで取材をしていましたが、
    私の両親が無事なのかを確認するすべはありませんでした。
    あせりながらつながらない電話を何度もかけました。

    両親は自宅が全壊しながらも無事だったこと、
    私の家族が知り合いの家に同居できるようになったことを知ったのは、
    一時的に帰宅した3日目の夜のことです。

    震災直後から私の頭の中を占めていたことは、仕事のことでした。
    大災害をどう報道するのか。
    しかし、私が出勤しないで、地域でできたことは数多くあったはずです。
    それをしないで、すべてを放り出して会社へ行った。
    あれでよかったのかの思いは、長く続いた悩みです。

    結局のところ、私が出した答えは、
    仕事を優先させたからには、震災報道で頑張るしかないということです。
    そう思いつつ4年が過ぎました。
    私の記事がどれだけ被災者のためになったのかはよく分かりません。
    今はデスクとして記者に震災の記事を書かせる立場ですが、
    それが十分にできているのかの自信もありません。
    ただ、後戻りはできません。努力を続けるしかないのでしょう。

    震災体験の風化ということも語られるようになりました。
    しかし、個人的な思いからしても、
    あれほどの災害を容易に忘れることなどできないはずです。
    被災者の苦しい暮らしもまだまだ続いています。
    5年目を迎え、震災報道の継続と充実を図りたいとあらためて思います。

    著書を読ませていただき、
    共感するところは数多くありましたが、
    とりわけ日常と非日常の切り替えの問題、
    非常時の想像力の問題は、
    私の体験からしてもとても大切なことと思います。
    多くの方に読まれ、
    災害の被害を少しでもくい止めることにつながればと思います。
    引き続き被災地に目を向けてください。
    <1999年2月24日/手紙で>

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    一生語り継ぐテーマとして
    神戸市 西 香緒理(出版社編集者)

    個人でこれだけのデータを集めるだけでも
    大変な作業だったとお察しいたします。

    神戸に住み、神戸の出版社に身を置く者としては
    「阪神・淡路大震災」は、
    一生語り継ぎ風化させてはならないテーマだと
    痛感いたしております。

    しかし、採算が取れないなど
    難しい問題も多く、
    出版だけが風化を防ぐ媒体ではないはず、
    何か他にできることが、と考えている毎日です。
    〈1999年3月11日/手紙で〉

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    忘れてはいけない…
    東京都 匿名希望(女性・新聞記者)

     一読者として、また同じマスコミ人として、感銘を受けましたので、
    さっそくメールを送らせていただきます。
    1995年1月17日のできごとを忘れてはいけない…
    ということを改めて思い出させていただきました。

    ちょうど、あの日、私は松山市(愛媛県)の実家で過ごしており、
    寝床でかなりの揺れを感じました。
    東京ですら、あんな大きな地震を体験したことはありません。
    でも、まさかあんな大惨事になろうとは思いもつきませんでした。
    朝になり、テレビのニュースで、神戸の街が映し出され、
    次々と死傷者の数が報道されるのを見ても、なかなか信じられませんでした。
    その段階ではまだ、どこか遠い世界のこと…という気持ちで、
    ただただ茫然とニュースをながめていたように思います。

    数日たち、ボランティアの人たちがいろいろな形で支援をしているニュースも耳にし、
    私も何かできれば…という気持ちになりました。
    寝袋をしょって、食料や衣類を抱えて、神戸にとんでいった友人もいました。
    私は、「避難所の人たちは、下着が足りなくて困っている」という情報をキャッチしたので、
    わずかながら暖かい下着を送らせていただきました。
    それが、そのときの自分にできる最大のことでした。

     数日後に知ったことですが、亡くなった方の中には、
    当時私が勤めていた会社に、4月に入社予定だった
    神戸大学の学生さんもいたそうです。39人の中の1人の方なんですね。

     「人の痛みをわかちあう」……本当に大切なことですね。
    いまなお、心の傷がいやされない被災者の方々は大勢いらっしゃることでしょう。
    少しでも、心を寄せることができれば。と願っています。
    それには、住田さんがおっしゃるように、
    「語り継ぐ」ことが大切なんですね。
    体験していない私たちも、私たちなりに、
    できることをしていきたいです。<1999年7月9日/メール>

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