◎父・藤原宏美(三重県在住)
『お父さん受かったよ。就職も決まった』……こんな電話が信宏からかかったのは、昨年の十月初旬。
ほとんどあきらめていただけに、そのときの嬉しさは……。それからの子供は超多忙だったようである。大学、卒論、実務補習、就職先での研修と業務従事、自動車免許、新しい下宿探し等々。そのため、年末の帰省も一日のみで、一月の連休に予定していた旅行も、遅れていた卒論の遅れで取りやめ……、ここまでが私が知っていた断片的な事実である。
そして悪夢の十七日。古い二階建の下宿。その一階。まさかとは思いながらも連絡はとれず。翌日やっとたどりついた下宿は、二階が一階に。十九日の午後、遺体発見。血と泥にまみれた子供が……。まさに天国から地獄の四か月間であった。
あれから一年。現在、家の仏間には、二十二歳の嬉しそうな写真と、卒業証書と、会計士試験の合格証が並んでいる。そして、ほぼ完成された卒論のフロッピーと仮免許証も。
子供は、当面の目的としていたものを手に入れ、突然私達の前から姿を消してしまった。その成果を生かすこともなく永遠に。さぞ残念であったろうと思う。しかし、残された者もつらい。運としかいいようがないが、何故なのか。優しい子だったし一生懸命に勉強していた子が、何故死ななければいけないのか。子供が悪くないとすれば、親が悪いのか。何故!!この答えのない問いかけは、あのときからずっと続いている。おそらくこれからも。
『最後に信宏へ。お前は本当によくやった。立派だった。そちらでぐっすり眠り、今までの疲れをいやせ』。多くの方々に大変お世話になりました。有難うございました。
◎母・中村房江(談=愛知県在住)
十七日の昼過ぎに、友人の井口君から電話をいただいて、主人がその日の夜に出発して……神戸まで車で行くって言って。十八日の朝、神戸にたどり着きました。焼け跡に井口君たちと一緒に行って、遺骨を拾って、警察の方へ確認に行きました。遺骨は、身元確認ができないって、その日は持って帰ることができませんでした。
火事にならなければ助かったんじゃないかと思うと、悔やまれます。井口君は、火事になる前に駆けつけてくれて、映研の仲間が三人ぐらい、助け出そうとしてくれました。声は聞こえたというんですが、火の回りが速かった……。
お正月(帰省したとき)、あの子と私の二人で熱田神宮にお参りに行き、それから就職活動のためのスーツを見るだけ見て。靴を買って。三月に中国旅行から帰ったら、スーツを作ると言ってました。デパートに一緒に行ったのもその時が最後でした。
◎父・戸梶幸夫(大阪府在住)
道夫は、高校、大学とすべて志望の学校に進むことができ、また、スポーツでも、野球、バドミントンに打ち込み、その間に素晴らしい友人をつくることもできました。本当に悔いのない人生だったと思います。
彼は、このように素晴らしい人生を、持ち前の根性と努力で切り開いてきてくれました。いつも目標を持ち、それに対してできる限りの努力を惜しんでいませんでした。今でも、家の彼の部屋や庭に立つと、勉強や、バット、ラケットの素振りに頑張って姿ばかり思いだされます。彼と話をしているといつも生き生きとしており、私や家内は、逆にハッパをかけられてばかりでした。本当に私どもにとって何の苦労もない、申し分のない息子でありました。彼がこれからどんな人生を切り開いて、どんな男になっていったのだろうかと思い、それを見ることができなかったことばかりが悔やまれます。
まったく、親バカまるだしで息子の自慢ばかり書いてしまいました。こんなことを書きながら、彼の仏壇を見ていると、『人様の前に子供の自慢を書くなんて頭が狂うたんと違うか』と、本気で怒ってきそうです。『でも、今度ぐらいだけはいいやんか、俺達はお前のような素敵な息子がいたことを自慢にすることぐらいしか生き甲斐がなくなったんやから』
最後になりましたが、道夫とおつきあいいただき、支えて下さった友人の方々、また震災後、私どもに温かいお励ましを頂きました皆様方に、心からのお礼を申し上げます。
◎保証人・井上恵介(大阪市在住)
聡明で善良だった彼女は、二十一歳で天国に帰った。
希望の星である一人娘を、異郷で生命を奪はれた両親の心中は、察するに余りある。どんな愚鈍でも良い、親より先に死ぬものではない。思いもかけぬ天災、そして即死だった事が、せめてもの救いである。
私が彼女と知り合ったのは、彼女の来日4ケ月目、関西学友会日語学校当時で関西生命線主催の大阪城公園での月見大会であった。なぜか気が合い一週間に一度は逢って食事をした。孫ほども歳が違うのだが、私の一人娘が呼ぶように「パパ」と呼んでくれ、家族の一員になっていた。休みの日には、しょっちゅう泊まりに来て親友のように夜遅くまで二人で何でも話し合った。
神大に入学当初、「私は差別されている。白人には大勢学友が集まるのに、私には誰も声をかけてくれない」と泣いていた。それでも夏休み頃には友達が「J(ジェイ)ちゃん」と呼んでくれていると喜んでいた。「バイト先の人達がとても親切で楽しい」と感謝もしていた。二回生の春、「在学中にヨーロッパに旅行したい。ベルギーにも寄りたい。パパも一緒に行こう」と誘ってくれていた。
「大学院には行かない。中国と取引のある日本商社に勤める。早く親孝行がしたい。もっと広いマンションを買ってあげるのだ。日本人とは結婚しない。個人同志理解できても歴史的習慣が違うので両親が戸惑う。インドネシアの華僑がいい。大金持ちになれるかしら」可愛い優しい天使であった。
今は唯、彼女と仲良くして下さった方々に感謝を捧げたい。ありがとうございました。彼女は今日も私達の心の中に生きている。合掌