工藤 純(23)

Photo 学部学年=法・院一年
学科ゼミ=犬童ゼミ
出身高校=愛媛県立三島高
サークル=吹奏楽部
被 災 地=神戸市東灘区田中町4−4−22

◎母・工藤延子(愛媛県在住)

 あれはいつのことだったでしょう。帰省中の彼が本棚から『大統領の英語』を見つけて持って帰ったことがありました。買ったまま埃を被っていた本でしたが、なくなると寂しいもので、また同じ本を買い求めました。その次帰省したとき「なんだ、また買ったの。返すんだったのに」と言いながらページをめくり「やっぱりケネディがいいよね」と申しました。「どこか覚えた?」と聞いて、どちらからともなく“ASK NOT”で始まる一節を唱え、二人ともそこだけで終わってしまい、互いに認めつつもそれでおしまいなのとちょっとがっかりしたものでした。遺体安置所に連れて来られてからなす術もなくただ待つだけだった二十時間近く、なぜかそのことが思い出されてなりませんでした。純に対してはただ「ごめんね」と謝るしかありません。もっと安全な所に住まわせてやれなかったこと、もっと早く駆けつけてやれなかったこと、ほんとうにごめんなさい。自分に対しては“Ask not… Ask what I can do…”と繰り返すけれども答えが得られない堂々巡りでした。
 尊厳死とか脳死、臓器移植といったことについて話したこともありました。けれどもそれは当然ながら私が先に逝く、そしてずいぶん先のことという前提であり、その認識さえも希薄で、ほとんど一般論という程度のものでした。あの状況の中、そういう選択を迫られたらどうしていたでしょう。卑怯かも知れませんが、ほぼ即死状態であったと思われ、長い時間苦しむ事なく逝ったこと、私たちも辛い選択をしなくてすんだことが救いかも知れません。
 生きている方々の今、これからが大事なのはいうまでもありません。けれども死んでしまった者の尊厳をもっと尊重し、守ってやれなかったかと自分に問いつつ、“Ask what our country can do for us”とつい考えてしまいます。あのとき、あの場で、なしうるすべてのことをして下さった多くの友人に感謝しつつ、問い続けること、それだけしか今彼のために出来ることはないのではと思っています。

【写真】2年生のときのサマーコンサートで。中央、バスクラリネットを演奏しているのが工藤さん。


櫻井英二(22)

学部学年=法・四年
学科ゼミ=阿部ゼミ
出身高校=愛媛県立八幡浜高
被 災 地=神戸市灘区六甲町5−7−18安田文化1階5号室

◎母・櫻井幸子(談=愛媛県在住)

 やさしい子でした。一人っ子でした。残念で残念でならんのです。
 お正月に帰って来て、今度就職したら、地元に帰るから、ゆうてね。伊予銀行に内定していました。両親が弱ったら、近くの(八幡浜の)伊予銀に配属してもらう、言うてました。
 あの日、大家さんから『息子さんから連絡あったか』と電話がありました。十七日に出発して十八日朝に(六甲町に)つきました。 消防署に頼んでも、音沙汰のないところは放ってあって。二階が一階になっとりました。二階の畳はがして、木を切って。それでも見つかりませんでした。本なんかをかき分けたら、その中におりました。友人や私の姉や七、八人が出してくれました。十九日の朝でした。二十一日に車で連れて帰って、お葬式をしました。
 百人超える友達がお参りにきてくれました。ありがたいことやなぁと思います。うちに財産はないから、学校やるのが財産やけんな、とあの子に言っとりました。卒業証書ももらったけど。残念でなりません。


森 渉(22)

Photo 学部学年=法・四年
学科ゼミ=五百籏頭ゼミ
出身高校=大阪府立泉陽高
サークル=軽音楽部
被 災 地=神戸市東灘区本山中町4−9−17イーストハイム一階西

◎父・森 茂隆(大阪府在住)

 二階建て木造アパートの一階西端が彼の住居で、玄関脇の小部屋と、奥の居間の二部屋。そして小さな台所、風呂、洗面所などで構成されていました。ベッドは玄関脇の小部屋に置かれ、そこで熟睡中の息子は、瞬時に崩壊した梁に直撃され、召天しました。前夜、軽音クラブの友人宅で集まって飲んでいたか、ゼミ論文の提出が二十日ということで深夜帰宅し何時間か論文に取り組んで、恐らく明け方近く就寝したのでしょうか。
 奥の居間にはホームコタツがあり、そこで仮眠していたなら、あるいは助かったのではないかとも思いますが、試験を前にして風邪をひくことを警戒してきちんとベッドに入ったのが、結果的に生死を分けたのでしょうか。運命と言うには、あまりに苛酷です。ただ救いとしては、本人は眠ったまま安らかに天に召されたということだと、親は自らを納得させています。
 ゼミの指導教授、五百籏頭眞先生が告別式に弔辞を読んでくださった中の一節がいつも私達を慰めています。感謝を以て記させていただきます。
 『志をもって生きる者の、愛を知る者の目の輝きを持っていた森君こそ、短いが充実した生を楽しみ、充実の最中で、輝きをもって飛び去ることができた幸せ者かもしれません』
 遺された私達は、神様の慰めによって一日も早く立ち直ることができるように願っています。


廣瀬由香(24)

Photo 学部学年=法・四年
学科ゼミ=樫村ゼミ
出身高校=愛媛県立宇和島東高
被 災 地=芦屋市三条南町3−7

◎母・廣瀬政子(愛媛県在住)

 どれだけ現実と向きあえれるか自信ありません。この一年間、私達の娘由香は、神戸でいつもと変わりなく勉強していると思い込むことで生きてきました。お世話になりました神戸大の皆様、ありがとうございました。皆様と同じように、夢を持ち、明日に向かって青春を燃やしていた我娘、由香を、どうか忘れないでやってください。
 あの日、私達は、朝九時に愛媛より車で出発しました。あの娘の着替え、好きな食べ物を携えて……。車中で身動きできなくなり、須磨で車を捨て、線路づたいを歩くこと八時間。一歩一歩、あの娘の無事を祈りながら……。ニコッと笑い、『ハーイ』と右手をあげるのが由香のいつもの挨拶でした。その笑顔が走馬灯のようにクルクルと目に浮かびます。爪がはがれ、血だらけの足をひこずるように到着したのは、翌夕の八時頃でした。
 建物一つ残っていない場所で、私達は息をのみました。本の散乱した家を、娘の家を確認し、ころげるように避難場所へたどり着きました。いない。娘の名前がないのです。
 翌朝、ベッドに眠つたままの娘と、愛猫ルナが寄り添うように発見されました。二人とも、ケガ一つした様子もなく、安らかな寝顔でした。ほほずりすると、あの娘のいつも使っているシャンプーの香りがしました。建物の一番大きな梁が、体に落ちていたのです。即死と検視の方に言われました。
 愛してやまない娘由香は、私達の知らぬ間に、大好きだった猫のルナといっしょに手の届かぬ所へ行ってしまいました。私達夫婦の慟哭の叫びも残したまま……。

【写真】妹の子どもと。


加藤貴光(21)

Photo 学部学年=法・二年
学科ゼミ=木村ゼミ
出身高校=広島県立安古市高
サークル=ISA国際学生協会
被 災 地=西宮市安井町5−20Nマンション207号室

◎母・加藤律子(談=広島県在住)

 十八日午前十一時三十五分の広島−伊丹の臨時便で主人と二人で現地に入りました。倒壊している住宅の間を縫って縫って、息子の生存を信じて主人と二人で歩きました。行ったら、……もう冷たかったです。大学に入るときに買って持たせたグレーのパジャマ姿で亡くなっていました。
 高校時代、湾岸戦争の時に『今世界は、国際法が確立されていなくて国連が機能していない』と言っていました。国際法を確立するのに立ち会いたい。アジア諸国との懸け橋になりたい、と。四回生になったら、留学して、外国の大学院で過ごしたいとも言っていました。自分は神戸大学しか狙ってないし、高校時代にやることがたくさんあるから、一浪させてくださいと、高校に入学したときに言っていました。勉強だけではなく、人との交流を一杯していた。外国の学生さんとも心を通わせたいと、留学生とも心から通じ合いたいと、接していました。九四年の二月には韓国を訪れて交流を深めました。八月には、東京代々木でISA国際会議で、戦争と平和というディスカッションをしました。人間同志は、絶対友情を保てると言っていました。
 その韓国の学生さんにお会いしたいと思っていたところ、先日(九五年十二月)、ソウルに行き、その機会を得ました。『カトウは日本と韓国、アジア、世界の為にすばらしい働きをしただろう。彼のことは忘れることができない』と。
 あれだけ目的を立てて、それに向かっていたのに。自分の思う仕事をさせてやりたかった。一つもこなせなかった。それが悔しくて。
 彼のまわりには、ISAのすばらしい友達がいてくださったんです。全国の皆さんが見守ってくださっています。彼らがいなかったら、私達は、一人息子でしたから、立ち直れなかったと思います。私達が見守る子供が、今では全国に、韓国にも、たくさんいるような気がするんです。

【写真】94年。ISAの旅で。韓国にて。


二宮健太郎(21)

Photo 学部学年=法・二年
学科ゼミ=根岸ゼミ
出身高校=千葉県私立市川高
サークル=ビッグアップル(テニスサークル)会長
被 災 地=神戸市灘区友田町4−1−19

◎父・二宮博昭(千葉県在住)

 健太郎、元気でいるか。今日、お父さんは、お母さんと一緒に千葉の黒砂でテニスをしてきたよ。去年、君と一緒にプレーしたあのテニスコートだよ。一九九五年ももうすぐ暮れようとしていますが、君も好きなテニスをやっているだろうね。
 今年の一月十七日、大地震が神戸を襲った。お父さんは、翌日神戸に駆けつけ、下宿の二階に住んでいた君が、無残にも重い柱の下敷きになって冷たくなっている姿を発見した。フトンの中で君は何の夢を見ていたんだ。何故、地震を感じて隣の部屋に身を移さなかったんだ。
 去年の十二月十六日、灘区友田町にある君の下宿を訪ね、君がビデオ屋さんのバイトから帰って来るのを待って、ビールを一緒に飲んだね。その時、君は神戸大学のテニスサークル(ビッグアップル)の新会長として、目を輝かせて、サークルの運営や将来のことをお父さんに語ってくれたね。会うたびに成長し、人生や友人や学問のことを自信をもって語り始める姿に、お父さんは頼もしさを感じていました。君はお父さんに似て、感激派だったからね。あの晩が君と会って話をした最後になった。
 君は、二十一歳の短い命だった。無念だったと思う。君が逝って、何カ月もの間、お母さんは泣き続けた。大きな声を出して涙を流し続けた。きっと君の耳にも届いたと思う。しかし、健太郎。君のように、明るく、思いやりのある友人に恵まれたお陰で、今は元気になったから安心してテニスを続けてください。
 君が生きていることができなかった人生は、お父さん、お母さんと君の弟の三人が、心の中に強く生きる君と一緒に、懸命に生きようと思う。これは、君との約束だ。そして、最後に、二十一年間、多くの想い出ありがとう。

【写真】中央、オートバイにまたがっているのが、二宮さん。灘区鶴甲会館の前で、友人と。




追悼手記表紙に戻る。