◎父・今 英男(石川県在住)
あれから一年を迎えようとしています。何が何やら…という間に。
石川県は、震災のニュースも少ないので、以外と半年くらい後には忘れがちになる情報です。私共は出版される震災のニュース雑誌はいつの間にか買ってしまいますが、私共の顔も知られているため、コッソリと知らぬ本屋に言ったりします。情けないですネ。
スポーツが好きで、テニス同好会、スキーなどいろいろなイベントに参加したときや、練習風景などのビデオを送ってくださったりして、何ともつらいですが、ありがたい貴重なものです。
持ち帰った息子の衣類や、本や、道具など、土の中から掘り出したものも、まだそのままのものが多いのです。母親など、洗濯すると息子の匂いが消えるといって、彼の部屋は整理もしないまま広げてあります。
あのとき、息子を探して手がつけられなかった時間帯は、私達は何をしていたのでしょうか。また、レスキュー隊の一名の方が発見してくださり、救出できずに待っていたあの一昼夜近くは、何をしていたのでしょうか?生きているほうが先だとはわかっていても、自分の息子を出すことができなく、姿も見ることができなかったあの時間は……。
(1年たつ)一月十七日は神戸に行くかと話をしていますが、行きたいという気持ちと、何かでその気持ちを引き留めるようで、まだ決めていません。
たくさんの方にお世話になって、あんな折ですから、お礼の言葉もかけないままに過ごした人々も、今はどうしておられるやら。
息子が救出されたとき、一瞬だったらしく何のキズも受けず、二階の建物の下敷きでした。フトンに入って手も出さず、寝たままの姿でした。本人はきっとこの事態を気づかなかったのかもしれません。美しい姿のままで…。
あの日は満月でしたネ。満月の頃は、月を見るのが本当につらいです。現場の車の中で月ばかり見て、夜をすごしましたから。
本当に、キリのない話になります。現地の皆様のご健康を祈り、いまや私共の心の故郷になった、神戸そして阪神など、一日も早い復興を心から祈ってやみません。
◎父・競 和巳(愛知県在住)
あの日、息子基弘は、灘区六甲町の二階建て木造文化住宅の一階で就寝中に圧死した。一階はつぶれ平屋建ての状態で、翌十八日の午後、救助隊の手で掘り出された。
前日、研究室仲間とのスキーツアーから帰ったばかりで、熟睡中の一瞬のできごとと見え、安らかな死に顔であったことがせめてもの慰めであった。
もう一日遅く帰っていたらと……。
小さい頃から、夢をかなえてくれるロボット『ドラえもん』が好きであった。神大工学部情報知能工学科に進学し、院生一年生の昨秋(九四年)には学会で研究発表したところだった。 勉学の合間に家庭教師や居酒屋でのアルバイト、子ども会のボランティア活動、そして学友達と楽しんだ野球、サッカーの試合など、五年間の神戸での忙しくも充実した生活のことを、多くの友人から聞き、知った。
友人に、『僕は今までの人生に悔いはない』と言っていたと、後で聞かされた。 彼自身が選択して歩んで来た人生が、自ら選ぶ余地のない結果で、二十三歳の短い一生を終わってしまったのは、親もまた無念である。
父の誕生日の一月、そして母の誕生日である十七日に逝ってしまった。遺品として出てきた彼自身が歌うサザンの『YaYaあの時代を忘れない』のテープのように、いつまでも平成七年一月十七日は、忘れることのできない日となってしまった。
神戸の皆さんに幸いあれ 合掌
◎母・桝富夫佐子(山口県在住)
一月十七日早朝、私は病院のベッドの軋む音に目覚め、すぐラジオのスイッチを入れる。地震とのことでテレビに切り替える。神戸……もしやと思ってすぐTELをする。呼び出すが応答なし。もしや……どうにかベルが鳴る。生きていて、生きていてと心で叫びつつ、管理人、近所とベルは鳴れど応答なし。六時すぎ……だんだんつながらない……。
昼過ぎ、近所の電器店につながる。『桝富はいますか』『桝富君の部屋の上にアパートの二階が落ちています』。絶句……。『バイクアリマスカ』『アリマス』……。どこからか、僕生きてるとTELないかと。TELのそばでつきっきりで待つ……。
十八日昼過ぎ。友達から、足先が出たとの連絡。今度は早く行くことを考える。 弟(故人の叔父)が大阪より岡山まで迎えに来てくれ、六甲トンネルを抜けて現場に……。
目を覆うばかりの惨状。"ガレキ"の山の中に、足先だけがかすかに…ろう人形の様な青白い指先が…。残酷。手のほどこし様もない。
太い家の梁を胸に受け、キチント布団の中に……眠るように。『胸部圧迫窒息死』。柱は抜け落ち、通し柱は縦に裂け。地震発生後四分、死亡推定。なんとむごい。涙すら出ない。
後日、プレート上で直下1m落ちていたという共感の話を伺った。お友達、学生さん、近所の方のお力添えがなければ、さがすことすらできなかったと……。その後すぐ、自衛隊の方の助けで、四時間かかって掘り出してくださいました。思わず、ありがとうございましたと頭が下がりました。
親として、学業半ばにしてあまりにも残酷。無念であっただろうと。『おかあさん。僕は神大に入って良かったよ』。あの優しい声のひびきが今も耳に残っています。
◎父・清水正大(談=高知県在住)
大阪南港に、十八日の朝六時二十分すぎに高知から着きました。妹(叔母)夫婦が四條畷にいますんで、一緒に西宮北口まで行って、三時間近くかけて歩いてアパートまで行きました。実は、フェリーに乗っとるあいだに大家さんから連絡が入って、『下敷きになっちょうそうじゃ』と南港で、弟から聞いてました。
現場でもずいぶんウロウロして、安置所に運ばれてると聞いたんでずか、結局まだ下敷きになってました。晩方、大家さんらと五人で掘り出したんです。十八日の夕方五時ぐらいです。
壁、ふすま、一階の天井が重なってました。寝てたんだと思いますが、コタツの中で横向きになってました。そのあと、検視に時間がかかりまして、十九日の夜中までかかりました。王子体育館だけで三百体近く遺体があったんとちゃいますかな。
暮から一月五日ごろまで高知に帰ってまして、修士のほうへ進むことになっていました。
マンドリン部の方にはいろいろしていただきました。多くの方が高知まで来ていただきまして、お世話になりました。
王子体育館に安置させていただいていたときにも、山本先生(工学部教授)やクラブのお友達に見舞っていただきました。
研究室の方が、アパートから持ち出してくださいまして、思い出の品が戻ってまいりました。写真も、財布も。マンドリン部で演奏したときのカセットも出てきました。
◎岡本真由子さん(法・三)
私は、マンドリン部で一緒でした。清水さんが合奏に加わると音に厚みが出ました。頭がよく、カッコよく、そしてマージャンが憎らしいほど強かった。下宿で夜中まで続くマージャンの途中で、低音の楽器のセコンドセロを大きな音で鳴らしていました。それほど楽器に熱中していました。マンドリンのCDを数十枚持っていました。
◎父・坂本秀夫(談=兵庫県在住)
竜一は神戸大学にあこがれとったんです。八鹿高校時代に、神戸へ行って、大学の近くをウロウロして帰ってきたりしとったんです。友達もできて、幸せな生活しとったと思うんです。
前日は、明石市大久保の私の家に来とったんです。妹と三人で焼き肉を食べに行ったんです。就職の話をしました。『関東は地震があるし、生活しにくいし』と言って、遠いとこに行ってほしくなかったんです。焼き肉食べて、ビールを飲んで、九時過ぎに西明石駅に送って行ったんです。後悔しているのは、『泊まっていけ』と言わなかったことです。泊まっていたら、こんなことにならんかったんです。
やっと、大家さんに会えて、でも、『坂本さんの顔は見てない』といわれて。それで、『だめやー』と思って掘るしかないと思ったんです。会社の仲間と掘りました。同じ西尾荘の鈴木さんのお父さんとも出会って、鈴木さんのところも掘ったんです。掘ってたら、骨が出てきたんです。
朝日新聞の記事見て、ショックでした。火の回りが速くて、助けようとしてもだめやった、ということは全然知らんかった。竜一は『もうええから逃げてくれ』と友達に言うたというんですけど……。あんなん知ったら、しんどくてねぇ。
今となっては腹立たしさが湧いてくるんです。今ごろ、どこかいい会社に決まって、いい正月しとると思うんです。あの野郎。どこかで遊びまわっとって、ひとつも親に連絡してこんわ、と思いたい。どっかで生きとる。学校に行っとるんや。何年かしたら卒業するやろ、そう思うとるんです。
お葬式や初盆には、友達にたくさん来てもろて、お礼の一言もできませんでした。心からお礼を申し上げたい。友達やったら、何十年か竜一の分も生きてもらいたいと思います。
◎父・神徳逸郎(談=長崎県在住)
十八日の昼過ぎに大学のお友達の工学部の徳田尚器さんから『連絡がありましたか?』と電話があったんです。『東大阪からバイクで四時間近くかけて行って探してみたけどみつからん』というんです。ああ、これは、ただごとじゃぁないと思うたんで、神戸へ行こうと決心したんです。飛行機に乗り継いで、十九日午後四時、尼崎の弟(叔父)のところに着いたんです。
午後六時ごろ、また大学のお友達から連絡が入って、『お父さんすぐ来てください』といわれたんで、『ああ、だめだったか』と悟ったんです。
夜九時すぎに着くと、アパートの前で、工学部の友人が、たき火をたいて待っててくれたんです。『すみません。助けてあげられませんでした』と泣くんです。そんなことはない、私は、助けようとしてくれたことがうれしかった。尼崎の弟のところに連れて帰ったら、自由劇場や学部の人、四十人あまりの人がお見舞いにきてくれて。うれしかったです。
八月のお盆にも、わざわざ、この五島列島まで二十人も来ていただいて。なによりの供養だったと思っているんです。
年末に何度電話しても留守電。それで叱ったんです。『大人にもなって。どうして連絡できん』と。それが最後に交わした言葉でした。
瓦礫のなかから、ルーズリーフに書いた未完成の台本が出て来て。自由劇場の友達の前田敦司君に聞くと、『俺が台本書くからお前が演出してくれ』と話していたというんです。
将来は、私たちは公務員にと思ってましたが、ゼネコンに勤めて、地図に残る仕事をしたいと言ってました。現場が性に合ってると言ってました。
【写真】自由劇場の仲間と一緒に。後列右から3人目の白いシャツが神徳さん。
◎父・鈴木 弘(静岡県在住)
浜松でも地震の揺れで目をさましテレビの報道から目が離せず、息子と電話が通じないまま夜を迎えました。友人からの連絡で翌日早朝、神戸に向かいました。
現地は焼野原で想像を絶する光景でした。学校、体育館など何カ所かの避難所を無我夢中で捜しまわり、大家さんに会うまでは、子供の死はまるで考えられないことでした。
自分たち親の手で骨を捜す悔しさは、言葉では言いつくせません。この一年間、月日のたつのが早く感じられ、まだ息子が亡くなったのが信じられません。日がたつにつれ、さみしさがこみあげてきます。
お正月に帰省したとき、進路やスポーツの話題、そして、今住んでいる所は、学校も近く、便も良く、静かで住み良い所だよと言った言葉が、忘れることができません。
小さい時から、野球が大好きで、阪神の大ファンでした。中学・高校・大学も野球部に所属し、あこがれの神戸で勉強やスポーツに励み、何事にも一生懸命努力し、思いやりもあり、また、友達からも信頼され、充実した学生生活だったことと思います。
二十二歳八ケ月という短い人生で、残念でたまりませんが、私達も息子の分まで頑張って生きていこうと思います。
在学中ご教授いただいた先生方、交流させていただいた友人の皆様方のご厚情、深くお礼申し上げます。また、葬儀に際し、多くの方々の御芳志をいただき、ありがとうございました。
◎父・長尾邦昭(香川県在住)
あの日を終生忘れることができません。
息子は、灘区の二階建文化住宅の一階で、落下してきた天井の梁の直撃を受けて短い人生を終わりました。
十五日に成人式を済ませた息子は、私達の止めるのを振り切り、神戸に帰って行きました。
あれから1年たって少し落ち着いて考えてみますと、息子の一生(二十年)は、通常の人達が送る人生を、たった二十年で疾風のように駆け抜けた人生でした。 私達夫婦にとっての宝であり、生きがいでもあった大切な息子を奪われた無念は、言葉に表せません。
息子は高松で出生し、小学校はクラブ活動として少年野球で元気に活動し、私達夫婦揃って試合観戦を楽しんだものです。息子をが六年生の春、私の転勤により愛媛に住居を移し、以後七年間、中学高校と青春ほとんどを松山で過ごすことになりました。
中学時代は卓球部に籍をおき、運よく受かった松山市内の進学高校に進み、再び野球部に入りました。この間、勉強とスポーツにその全てを投入しました。今考えると、彼の人生は人の何倍もの密度の濃いものであったと思っております。
神戸大学に入学してからは、合気道部にお世話になりました。これまでに培った人脈を、息子が亡くなって初めて、多くの先輩、友人の多さを知りました。
これだけ大勢の人達に愛され、悪いところをみせることなくこの世を去った親不幸の息子。言葉がありません。
最後になりましたが、神戸大学在学中、お世話くださった先生方、先輩・友人の皆さんに、紙上を借りてお礼申し上げます。
◎妹・母 雅琳(談=明石市在住)
大連で機械の研究所に勤めていました。どうしても日本で勉強したいと希望したので、私の夫が保証人になりました。三年前に来日。最初研究生として入りましたが、試験に合格して、春からは研修生になるはずでした。
大連のお母さんに電話しても、お兄さんからの連絡がないので、ちょっとおかしいなと思いました。十八日の夜になってもまだないので、あわてました。
十九日の朝、主人と一緒に、お兄さんのところへ行きました。午後二時ごろ着いて、周りの人に、ここで亡くなった人いるんですか、と聞いても『大丈夫』という人もいて、避難所を探しました。いないので、戻ってまわりの人にきいたら、『その下に亡くなっている人が絶対いる』という女性がいて、お兄さんだめかと思いました。四日目の昼頃、掘り出されました。
倉敷で火葬して、二十六日に大連にお骨をもって帰りました。母は泣くばかりで、話できませんでした。
無念ですね。私と一緒に住んでいたらよかったのに。命が短かったですね。まだ人生いろいろやることあったのに。
◎保証人・李 騰雁(談=神戸市在住)
傅さんは天津大学分校の機械工学科と中国河北広播電視大を卒業後、九十三年九月に来日しました。神戸YMCAで一年間日本語を学んだ後、九十四年十月から神大工学部へ研究生として来ました。日本に留学するきっかけとなったのは天津大学で教授をしている彼のお父さんです。以前東大に留学されていたこともあり、息子の傅さんにも日本への留学を勧めたそうです。日本で修士号を取得した後はアメリカかイギリスに渡って博士号を取りたい、と言っていました。
地震の前日の十六日、傅さんは友人宅で夜遅くまで遊んでいました。いつもならそのまま友人の家に泊まるのですが、翌十七日には朝から授業があったため帰宅して寝たそうです。
傅さんには中国に残してきた彼女がいました。たまに電話していたようです。「学位を取らなくていいから、早く中国に帰って来て」と彼女はいつも電話の向こうで泣いていたそうです。彼は来日してから一度も中国に帰っていませんでしたからね。
十一日に会ったときには「西宮神社でおみくじを引いたら凶が出た。気持ち悪い」と話していました「そんなの迷信だよ」とは言ったのですが。