◎発達科学部教授・美崎教正
ある日、私の所属するロータリークラブの友人から『同業者の社長である知人がお世話しているミャンマーからの留学生が、神戸大学で勉強したいと言っているので、話を聞いていただけませんか』との依頼があり、その社長と二人の女性と私の研究室でお会いすることとなった。その二人の女性が、ウエイ・モウ・ルインさんと、キン・テイ・スエさんである。時あたかも平成六年一月。そのときの社長の深い慈愛と二人の女性の学問に対する熱意に共感し、神戸大学国際文化学部の研究生として学んでいただくためのお世話をさせていただいた。
この二人の日本での勉学の目的は、同じアジアに位置するミャンマーと日本の文化、経済、政治などの隔たりに関心をいだき、両国間のコミュニケーションの不足がこの格差を生んでいると考え、コミュニケーション論を学び、両国間の文化交流と相互理解の推進にむけ、力になりたいという夢の達成であった。
入学後、二人はいつも仲良く一緒に研究生としての学習に励み、授業の合間をみては、研究室に顔をだし、笑顔を絶やさない優しい女性であった。夏休みになって、ルインさんは、さらに世界に視野を広めようと実姉のいるアメリカにわたり、アメリカの自然と文化に接する機会をもっていた。そのときのお土産にいただいた一九九五年のカレンダーが私の書斎に掛かっているが、もうその年も終わりを告げようとしている。しかし、一緒にいただいたセーターは今も私を暖かく包んでくれている。
また、ルインさんは、日本に来てからまだ日が浅いのに、なぜかいち早く日本の風習やしきたりを身につけ、日本の社会の理解に努力し、日本人以上にやさしさ、心くばりをマスターしていたようで、手元にある小生宛の上手な日本語で書かれた平成七年の年賀はがきがそれを物語っている。その住所には、『〒658神戸市東灘区郡家大蔵2−7郡家マンション103』と記載されている。ここは、ルインさんの、心ならずも一生を終えた場所なのだ。
私達ロータリアンは、機会あるごとに国際理解、国際交流に奉仕させていただいているが、その一環として(地震直前の)年末のクラブの忘年家族例会には、神戸大学に学ぶ留学生をお招きし、ともに語り合う機会をもった。その際にも、ルインとスエさんの二人もご招待したが、授業があったということで少し遅れて参加した。そのとき撮った写真が、お二人の最後の姿になろうとは。そして、慰霊祭での遺影になろうとは。
お二人は、研究生を終えて、さらに大学院に進み、研究を深めたいとの希望に胸膨らませ、自信に満ちた笑顔をみせてくれていたが、非情にも平成七年一月十七日の地震は、二人の夢どころか、命までも一瞬にして奪ってしまった。その無念さは思うにあまりある。ここに謹んでご冥福をお祈りします。
【写真】震災直前の年末の、ロータリークラブ忘年家族例会で。左がスエさん。右がルインさん。
◎母・磯部洋子(談=滋賀県在住)
お友達と先生方のご協力で、フロッピーが出てきました。自分自身の性格についての研究で、『劣等感と自己開示』というテーマでした。先日まとめて冊子にしていただいて、送っていただきました。
◎父・上野政志(兵庫県在住)
志乃は、自分の死を知らぬまま、友人の川村陽子さんと共に永遠の旅に出掛けてしまいました。一月十六日の夕方、姫新線三日月駅まで連れ(妻)と送って行き『じゃぁ、またね』と言って別れたのが最後でした。
考えもしなかった娘の死は、家族を奈落の底に突き落としました。十八日早朝、瓦礫の中に友達の頭を、次に娘の足を発見しました。今の今まで、生きていてという思いが、この瞬間に断ち切れて、本当に目の前が真っ白になりました。
悔しい。無念。心の傷。痛み。忘れるどころか、周囲の無関心になっていく時の流れとは逆に、いっそう思いは募るのです。
賑やかな場、何々会という催しには拒絶反応を起こし、連れの落ち込みの深さには、何の支えにもなれない無力さを感じている此頃です。
思い出深い品々。場所。全てが二度とない思いにかられ、涙はとめどなく流れるのです。
わざわざ佐用の地から死にに出かけたのでしょう。神戸が好きでした。神戸という街が……。
こつこつと何事もやってのけてきた、娘志乃の生命は、凝縮された二十年だったのでしょうか。
瓦礫の下で一日半、検視に丸一日。冷たいパジャマ。連れと涙しながら娘をワゴンに乗せ無言の帰路につきました。
家族の絆のすばらしさを語り、『一歩ずつ、こつこつと歩んでいきたい』と二十歳の言葉を書き残していた娘。ほんの一歩で……。
決して忘れない。せめて私たちが生きている限り。
◎友人・岡本真由子(法・四年 マンドリン部)
甘いものが好きで、よく一緒に食べに行きました。クラブ入部前よりマンドリン部にはいる決意が固く、コンサートなどのパンフレットのデザインを担当してくれていました。
◎母・川村明子(神戸市在住)
陽子は、自宅通学だったんですが、たまたま震災の前日の夕方、同じ学科の友人の下宿先に、課題の共同製作のため、泊まりがけで出掛けていました。そのアパートが全壊し、友人と二人でホームごたつに向かい合い、うつ伏せ状態で、二人ともほぼ即死状態であったようです。こたつの上には仕上がったばかりのレポートが置かれていたそうです。
あの悪夢の日から、はや一年がたとうとしています。正直のところ、娘のことを思い出さなかった日は一日もありません。陽子は、小さい頃から、ものを作ったり絵を描いたりすることが大好きで、念願の神戸大学では、発達科学部の造形表現論コースに在籍していました。好きな道ですので、専門科目は本当に楽しそうに製作に取り組んでいました。卒業後は、美術科の教員、それとも企業でデザインの仕事にもつきたいなどと、色々迷いながらも、将来に夢をもっていたようです。また、大学に入ってから、突然フィギュア・スケートを始めまして、神大スケート部では、先輩、友人、後輩に囲まれて、熱心にクラブ活動に励み楽しんでいました。
二十歳の誕生日を目前にして、人生これからというときに、親として言葉もありません。けれども、二年間の大学生活は、勉強、スケート、家庭教師のアルバイトと、毎日忙しくとも充実し、大勢の友達にも恵まれて、本当に幸せなものであったと信じています。