◎母・細井有紀子(談=和歌山県在住)
◎元自然科学研究科教授・小堀 乃
一九九二年の春だったと思うが、農芸化学科の土田教授が『ご相談があるのですがね』と神妙な顔をお見せになった。聞いてみると、教授の門下生の孫君が、彼のワイフを神戸大学に研究生として留学させたいというが、専門は生産科学なので指導してくれないか、とのことであった。当時、人事で頭の痛い問題を抱えていた私は、常に他学科の教授には低姿勢でたいていのことは断らなかったが、これには困った。研究生一年のみならよいが、それだけで帰国する学生はまれで、修士課程に進学するものが多いことが頭を掠めたからである。とりあえず退官の時期を話してお断りしたが、『まだ一年半ありますね。一年だけならお考えいただけないでしょうか』ということで、孫君からも誓約書をとり、一年が経過した。
その間、曹君はよく勉強し、『ゲル被膜種子の利用』により野菜の生産技術を改善するための基礎研究に没頭した。この研究では、共同研究者である神戸大学の先輩が一九九五年四月に学会賞を受賞している。
ところが、一年目の途中でもう一年の延長希望が出されたので、土田教授も私もソレハダメよというと、『それなら先生の退官と同時に帰国します』と粘られ、半年の延長に拒否する理由も見当たらず九五年三月には帰国する予定で、勉強を続けた。一月十一日には、世話好きの妻の主催で、新神戸オリエンタルホテルで、他の中国人留学生とともに、日本の一流のお雑煮パーティーを催し、曹君には夫婦仲良くという訓示を与えたが、災難時も夫婦一緒であったという訃報に、慚愧の念に絶えない。思い残すことばかりである。そのときの写真はまだフィルムのままで、いまだに現像する気になれない。
◎伯母・稲井紀代子(京都府在住)
一、案じつゝ甥は、医師にふさわしい性格であり、地域で立派な仕事をしたであろうと思うと、心痛みます。本人も、無念の一言でしょう。
心はやりつ被災地へ
遺体と書かれし
置き手紙あり
一、こころざし
半ばで逝きし若者は
過疎地医療の
夢果たせずに
一、故郷へ
帰れば必ず呼びかける
逝きし 子の微笑
勇姿忘れず
一、アドレスに
亡き子の住所とダイヤルが
消すに忍びず
そっと そのまゝ
一、慈悲深き
吾子の御霊を弔らわん
桜咲く道
化野の坂
◎母・橋本智子(談=兵庫県在住)
当日は、連絡がつかなくて心配だったので、見に行きました。主人が行きました。お昼頃には着きました。
住んでいたのは、一階だったんですが、(アパートが崩れて)二階が一階になっていました。心配してきてくださった大学の友人や、親類の者や、うちの店の人達が手伝ってくださいました。夕方確認されました。
本人は外科医をめざしていると言っていました。サッカーが好きで、サッカー部に入っていました。サッカーのユニフォームを柩に入れてやりました。