◎父・歯朶原謙三(明石市在住)
当日、灘区備後町の下宿先へ何回電話しても通じず、心配していたところへ、友達から電話が入り、着のみきのまま飛び出しましたが、山麓バイパスから三宮に入り、目を覆うばかりの惨状に唖然としました。
現地では余震が続く中、友達による必死の救出作業が続けられていました。お蔭様で当日の午後五時すぎには遺体を引き出すことができました。感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。
大学では理学部と陸上部に在籍し、地震のことも勉強してたんですね。地震後、家族への配慮で、大学より地質学野外実習レポートが届けられました。安康露頭の実習で『……人間の英知が発達しようが決して届くことができない地球の巨大なパワーを…その大きな自然を自らの自らの都合に会わせ利用しているとは、何と発達した文明だろうと思い…ヒトは自分も含め全然なってないなあと深く感じ入った。…ふと後ろを振り返ると、サルが子連れで道を横断していた。あのサルは道ができたことで、どれだけ生活様式が変化して行くだろうかと思う……』とありました。いろいろ勉強してきたんですね。
大学二年、三年と関西大学駅伝を走り、よき思い出になりましたね。二十年十か月いろんなことがありましたね。
弱い立場にある側(サル)にも思いやれる人になってたんですね。友達や先生方の話、レポートを読んで安心しました。
孝。安らかにお眠りください。 父より
◎伯父・毛利富雄(愛媛県在住)
悲しみの母由紀子をはじめ兄智、他私を含む親戚の者五名が同乗した自家用ワゴン車が、寸断された道路を迂回しながら大渋滞と混乱をついてやっとの思いで神戸市郊外にたどりついたのは、四国の自宅を出発してから九時間後の一月十八日午前三時頃だったと思います。十七日、友人の学生の芝さんより甥の真の訃報が届き午後六時、急遽家を出発しましたが、悲痛と焦燥がつのる中での長い道のりでありました。
六甲裏側から市内に入ったように思いますが、各所に火災が発生しビルが道路に倒壊していて渋滞が続き、大変危険な状態を呈していました。まさに戦禍にさらされた都市を行く感でした。いくつかの大きい瓦礫を乗り越えて、十八日午前七時真の待っている六甲病院に到着、「生きていて欲しい」そんな祈りをこめて門をくぐったのですが、無念かな真は十七体の遺体と共にうす暗い安置所に収容されていました。
不測の災禍に消えた真の姿は冷たく哀れでありました。母由紀子が変わりはてた我が子の亡躯にすがり、涙する影はあまりにも残酷な形での母子の対面でありました。一同絶句。合掌し冥福を祈りました。救出してもらった学生諸君等が見舞っていただきました。混乱中とはいえ、屍体検案が大幅に遅れ、午後二時にやっと遺体を引き取り帰途につき、翌一月十九日午前四時に祖母や親戚等の待つ自宅に帰着したのであります。
思えば真は不幸にも七年前父が他界し、いたいけな少年の日の小さい胸を痛めたことと思いますが、その逆境にうち勝ち素直な青年としてたくましく成長し、目的達成にむけて励んでいたところでした。母を中心に家族親戚が大きい期待を寄せていた矢先のできごとでした。真の無念さを思うと、心が痛みます。あの震災の犠牲となられた多くの学生諸君の冥福を祈ります。
◎父・高橋昭憲(談=大阪府在住)
築二十年ほどの木造アパート借りていたんやけど。隣の風呂屋の煙突が、部屋にブスっと倒れてきたんです。煉瓦の古い煙突やった。
連絡してけえへんから、家内と二人で、十八日夜中に出かけて行きました。十九日の朝二時に着いて、部屋を見たんよ。建物は残ってるから、あれー、なんで連絡せえへんのかなぁと。そしたら、二階の角のウチの子の部屋がペシャーと潰れてないんよ。
大きな声で呼んでみても返事ない。東灘署も消防署も相手にしてくれへんし、避難所も見に行ったけどみつからない。夜明けを待って、またアパートに行ったんです。
倒れて来てる煙突を、鶴嘴やハンマーで割って、……そしたら、洗濯もんが出て来て。こらぁ、おるなと思って。
布団かぶってました。手ぇ突っ込んだら、まだ暖かいんちゃうか、と思って。十九日の昼前かな、消防署が出してくれました。風呂屋の煙突さえなかったらねぇ。
ワープロ拾って帰ったんよ。成人式にお金を渡して買ったスーツも、現場に行って持って帰ってきました。カメラも、共同通信の記者の方が探してくれたら、出てきて。成人式が終ったあと、中学の友達らとカラオケに行った写真が出てきました。最後の写真でした。そのマイクもった写真を、大学の追悼式に使いました。それまで勉強、勉強でしたから、最後はこんなんもええか、いうてね。
【写真】亡くなる2日前の成人式の夜。自分のカメラでとった最後の写真。
◎保証人・竹部元造(兵庫県企画課勤務)
悪夢のようなあの日から、飛ぶように過ぎ去った日々。しかし、わたしたち家族一同は、沈さんのことをどうしても忘れることができない。わが家の一部損壊や、こわれてしまった思いでの品もあるけれど、それらは取り戻せる。神戸の町も、復興へむけて着実に歩を進めているかのようだ。しかし沈一春さんは、もうかえってくることはない。
心優しかった沈さん。わが家で食事会を開いた時も、いつもだれよりも先に洗いもの、後片付けに立ってくれた沈さん。わたしたちの家族の一員として完全に融け込んでくれていたと思う。その沈さんを、地震は遠くへ連れて行ってしまった。
一月十七日に沈さんが亡くなった家の跡へ、白菊一束をもって行こうと思う。沈さんの霊へ向かって心から手をあわせ祈りたい。
『沈さん。あなたは遠くへ行ってしまったけれど、あなたは私達の心に永遠に生きています。私達はあなたのことを決して忘れません』
◎保証人の妻・竹部法子(談=神戸市在住)
地震の前の日は、論文を書くのに、徹夜していたそうです。ご主人と一緒に部屋にいて、沈さんの上に大きな柱が落ちてきたそうです。ご主人は十時間ぶりに助け出されました。
お子さんを、中国のご主人のご両親に預けて勉強されていたのですが、心残りだと思います。