松田和久(70)

Photo 所  属=経営学部名誉教授、神戸学院大教授
被 災 地=神戸市兵庫区上沢通8−6−5

◎神戸大学経営学部助教授・久本久男

 松田さんが生涯を通して考えたことは三つあります.労働生産性の測定、利潤率の意義、そして歯科医療の経済学です。地震まではこの歯科医療問題を研究しており、地震のあった一月十七日火曜の前日に新しい論文を完成していました。地震後、ご家族の方、得津さん(経営学部教授)、神戸学院大学の関係者が松田さんの無事を確認するため自宅に電話を掛けました。しかし、呼出音が鳴るだけで受話器を取る人はいませんでした。
 得津さんと私は、松田さんがご家族のいる姫路あたりにすでに避難しているのであろうと思っていました。しかし、ご家族の方から十九日に松田夫妻の死亡が確認されたという連絡がありました。
 地震から十日経過した頃に、私は松田さんの自宅がある兵庫区上沢通を訪ねました。自宅から南西方向のすべての家は全壊していて、松田さんの家は屋根が完全に落ち、一枚の板のようになっていました。近所の方に話を聞くと、十七、十八日と松田夫妻の姿が見えず、十九日に崩れた家を警察が掘り起こしてみると遺体が発見されたということでした。崩れた屋根の状態を見て松田夫妻が即死であったと判断できました。
 もし松田さんが生きておられれば、つぎのように言うのではないかと推測します。「日本のように生産力が高い国において、この程度の地震でなぜ六千人の人々が死亡し、なぜこれほど多くの人々がひどい避難生活をしなければならないのであろうか?」

【写真】松田名誉教授夫妻。


朝倉純子(46)

Photo 所 属=理学部助手
被 災 地=神戸市灘区桜ヶ丘3−18−811桜ヶ丘ハイツ

◎理学部教授・中村昇

 理学部地球惑星科学科助手、朝倉純子さんは、地震当時、灘区桜ヶ丘のマンションにお父さん(朝倉晃持氏)と同居されていた。長男・宏君は帯広畜産大学二年(当時)で勉学中であった。読書好きな純子さんのベッド脇の本棚には、たくさんの本が並べられていた。突然のマンション倒壊で、朝倉さんは、書棚と本の下敷きになった。一命はとりとめたものの間もなく入院先の六甲病院で亡くなられた。
 朝倉純子さんは、昭和四十六年三月奈良女子大を卒業し、住友化学工業に勤務。その後、五十年神戸大学理学部地球科学科に教務職員として赴任され、平成五年に助手に昇格された。
 赴任当時は、地球科学科が設立されて間もないころで、教室内も和やかな中に活気があり、学生も意欲的な雰囲気があった。朝倉さんは、当初三年生の地球科学実験を担当、後に事務系の職務も分担された。研究面では、隕石の化学分析をされた。
 多くの学生が朝倉さんから実験指導を受けており、その中には現在、地球科学界をはじめ各方面で活躍している者も多い。
 理系らしい論理性と緻密な仕事ぶりは大変印象的で、研究者としての才覚を感じさせるものがあり、ご活躍が期待された。誠に惜しい人材をなくした。ここに謹んでご冥福をお祈りします。


中條聖子(29)

Photo 所  属=医学部第三内科医員
出身大学=島根医科大学
出身高校=兵庫県立神戸高
被 災 地=神戸市東灘区魚崎中町2−4−25

◎姉・中條鉄子(医師=大阪府在住)

 神戸大学第三内科の女医、聖子は、阪神大震災の激震にのまれ、大好きな本達に埋もれ、再び目をさましませんでした。
 いつも笑い声の絶えない彼女は、皆から随分慕われ、『先生は大勢の人の命や心を救ったのに』『だれにも別け隔てなくベストを尽くしてくれたのに』と、先輩の先生方や看護婦さんから心底惜しまれました。患者さんやご家族からは『末期癌の主人は、朝に夕に先生が来て楽しい話をしてくれるのに勇気を得、最後まで安らかな気持ちで頑張れました』なと、数多のお便り、電話もいただきました。
 一方少女のころの夢を忘れず、忙しい医療の合間に、童話や詩、エッセイ、イラストなどをかき続けた妹。十数年前、多感な青春前期に、人形作家の川本喜八郎先生の人形劇・三国志に出会い、彼女は諸葛孔明の優れた人間性がその人形に鮮明に写されているのに感動し、以来、先生の世界に心酔しました。NHKで人形劇・平家物語が始まり、妹は放送のたびに毎日手紙を書きました。この一途な気持ちが通じ、この度川本先生が、妹の為に諸葛孔明のお人形を作ってくださいました。先生のご厚情に感激しています。聖子の命の証しとして、彼女の残した作品を形あるものとし、彼女の夢や希望、懸命に頑張った青春を永遠に輝かせてやることが、わたしたち家族の使命と考えています。

◎友人・奥田志保(医学部院生=神戸市在住)

医学部第三内科医員の中條聖子さんは、平成二年に島根医科大学を卒業後、同年国家試験に合格し、第三内科に入局されました。  彼女は大きな瞳と、腰まで伸びたまっすぐな髪がチャームポイントの美しい人で、誠実で飾らない人柄から、上司の先生方、同僚、患者さんを含めて、多くの人から厚い信望を集めていました。医師として、日々の診療に追われる中で、個々の症例について詳細に検討し、学会でも数多くの発表をしていました。又、私にとっては、どんなことでも親身になり相談にのってくれるかけがえのない親友でした。

◎同僚・清水和彦(神戸大学付属病院第三内科=神戸市在住)

 研修医持代、夜遅く、隣でカルテを書いていると、彼女は段々と机にもたれ、目が虚ろになり、カルテの文字が歪んでゆき、……机に伏してしまうのです。『チュウさん、チュウさん』と揺り起こそうとすると『もう、止めて。邪魔しないでよ』と叱られたものです。だれが名付けるともなく『眠り姫』と呼ばれるようになりました。
 その後、数カ月が経ち、徐々に仕事に慣れて、重症の患者さんの状態を尋ねても、『大丈夫バッチリよ』と口癖のように言っていました。そんな時には、決まってVサインを出しながら、長い髪を揺らし目を細めて微笑むのです。今でも瞼に浮かびます。


茶本潔代子(55)

Photo 所 属=生協パート職員
被 災 地=神戸市灘区桜ケ丘町6−4

◎カフェリア勤務・岡田淀子(神戸市在住)

 私が大学の生協にパートとして入社いたしましたとき、背の高い美しい宝塚美人のような奥様がいらっしゃいました。それが、茶本さんでした。それはそれは仕事もテキパキとよくでき、まわりの人達への気配り……。カフェリアにはなくてはならない方でした。お友達にさせていただきまして、いろんな出来事を時間のたつのも忘れて話しておりました。この手記を書かせていただいておりますと、お顔が目に浮かび、ペンが前に進みません。
 一月十七日午前五時四十五分。あの悪夢のような出来事。阪神大震災という出来事。忘れることはできません。
 茶本さんの娘さんに初めてのお子さんができ、十五日まで娘さんは神戸の実家に帰っておられ、十六日には三田市の娘さんの家に送って行かれ、帰られてすぐに震災に遭われました。
 あと一日娘さんの家に泊まっていればと……。色々考えますと、運命のいたずらに、ただただ残念です。
 ご家族の皆様は、いかばかりか心が痛みます。まだまだ大学でお仕事をするのを楽しみにしておられました。寂しくなりましたが、皆様で茶本さんの分まで一生懸命頑張って仕事をすることが茶本さんの供養になるはずと話しております。天国で、家をなくしたぐらいは我慢しなさい……と言っている茶本さんの優しい笑顔が浮かびます。これからの人生、奥様の分までご家族力をあわせて頑張ってくださいませ。一生あの忌まわしい震災をわたしたちは忘れることはないでしょう。


國澤美輪(32)

Photo 所 属=生協ランスボックス勤務
出  身=島根県
被 災 地=神戸市灘区下河原通2−3−15第二泉山荘

◎生協勤務・西村稔祐(談=神戸市在住)

國澤さんは、ランスボックスのオープンとほぼ同じ時期、八五年だと思います、そのころから生協にお勤めでした。理工学書や文具、などを扱うレジでの接客が中心でした。先生方や学生さんからも慕われていました。学生から『つきあってください』と交際を申し込まれたこともあったんだそうです。
 私は、地震の日は、職場が心配になり九時前に店にでてきたんです。学生も次々に六甲台に上がって来ました。学生から『六甲道駅の高架が落ちてる』と聞きました。國澤さんは、六甲道の近くなんで、非常に危険だと思いました。きちょうめんな方だったんで、何かあったら(店に)上がってくるはずなのに、おかしいと思ったんです。
 昼過ぎに、國澤さんの家を見に行ったら、文化住宅だったんですが、一階が(押し潰されて)50〜60センチになってるんです。住んでいるのは一階だった。中にいたら難しい、と思いました。声をかけたんですが、何もできませんでした。
 翌日から、生協職員、そして生協組織部の学生も出て、三日がかりで、二十人くらいで掘りました。畳をはがして、モルタルどけて。ようやくベッドにたどり着いて、一人が暖かい肌にふれまして。レスキュー隊を、亡くなってるとわかると後回しにされるんで、『生き埋めになってる』と呼んで来て、掘り出したら……やっぱり彼女でした。確認したのが、二十日の午後一時、収容されたのが四時か四時半ぐらいでした。 ようやく生協も営業し、しばらくした二月末ぐらいですか、先生方の何人かが、國澤さんのご実家にお参りしたいと、たずねていらっしゃいました。わたしが(ご実家と)連絡をとりました。お客さんと、従業員の関係を越えて、國澤さんは慕われてたんだなと感じました。

【写真】アラブ旅行帰りの江口職員(現・学生震災救援隊代表)と一緒に。中央が國澤さん。




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