◎応援団・岩下昌弘(三年)
一月十六日、夜八時頃、成人式から帰ってきた僕は、いつもやっていたように隣の建物である高見さんの部屋に灯りが点っているのをみて、部屋に入ったような気がする。…午前五時四十六分、ドーンという強い音で目が覚める。…窓をすぐに開けて外を見た。ひどい崩れようだ。…小さな懐中電灯を探し出し、外に出た。「高見さーん」と叫んでみるが返事がない。そのアパートの人たちが何人か出てきていて、話をするが、昨晩いらっしゃったかどうかは分からない。…僕らは、何度もガレキを掘り返したり、病院を探したりするが見つからない。高見さんの行方だけが不明だった。
◎応援団・吉岡悦子(三年)
高見さんは会うと必ず声をかけて下さいます。高見さんは書類カバンをいつも持ち歩いていらっしゃいます。高見さんは少しかすれ気味のダミ声をお持ちです。…高見さんは私服のとき、よくブラックジーンズをはかれます。…高見さんは日本酒がお好きです。…高見さんは普段は笑顔でいらっしゃいます。しかし、応援中やステージ上では、これでもかと厳しいお顔をされます。…高見さんはカラオケでチェッカーズを歌われたりします。高見さんは絵を描かれます。…高見さんは大山がお好きです。大山の眺めについて、私にいろいろと教えて下さいます。
◎応援団・吉田 心
団旗になった高見へ
神戸の街にふさわしい、誇りに思えるすばらしい応援団を築くと誓おう。そして、この神戸をいつまでも応援し続けていこう。大空にたなびくブリックカラーの大団旗とともに。
(応援団 高見秀樹追悼文集『若き旗手丘陵に消えず』より)
◎父・後藤美良(福岡県在住)
十二月十七日、日曜日、大輔の月命日である。家族三人で墓参りに行く。福岡市内を見下ろす太宰府の丘に、真新しい後藤家の墓が神戸を向いて静かに建っている。墓誌には『鉄道を愛し神戸にて学びて没す』と刻印した。今年一年、大輔のことを、思い、考え、悔いたつらい日々であった。
一月二十日、倒壊したアパートのガレキの中から、子供の青ざめた体を収容した。掘り返されたガレキの山には、大輔の遺品と思われる、衣服や生活用品、学校関係の教材、好きだった鉄道の本が散乱していた。この中から大輔の字と思われる一枚のノートを見つけだした。
これらの遺品を持ち帰り、ノートを友人の伊藤君に見せたところ、生前もっとも大事にしていた鉄道乗車記録ノートとのことであった。
小学校低学年の頃、鉄道に興味を持ち、大阪在住中は関西近郊によく出かけていた。子供への何かのプレゼントに『宮脇俊三の時刻表二万キロ』を買ってあげてから感化されたのか、二万キロ完乗の悪戦苦闘が始まったと思われる。お年玉やアルバイト代を注ぎ込み、休日のかなりをさいてひたすら乗り廻った、生々しい二十歳までの記録ノートである。あと二千キロ乗れば達成というところまできていた。完乗の最後に降り立つ駅は境線の後藤駅にすると言っていたと友達より聞く。残念だったことだろう。
乗り残した二千キロは、父母で受け継ぎ必ず達成しようと心に決めた。わたしの鉄道の旅は、今年の夏から始まった。後藤駅に、子供の思いを背中にしょって降り立つその日に向かって頑張り続けていきたい。
◎母・林 敬子(山口県在住)
宏典は、三人兄妹の長男として生まれ、身体の弱い子でしたが、勉強に、運動に、学級委員、テニス部キャプテンとして一生懸命頑張る子でした。神戸大に入っても、勉強やアルバイト…七人家族の生活から、一人暮らしの生活を楽しんでいたのに
あの地震の二日前に電話があり、近所が火事だというのです。『気をつけるのよ』と言っておいたのですが、その声が、最後の知らせになるとは思いませんでした。
あの地震をテレビで見て、東灘区が出たので、すぐ神戸に電話をしましたが、通じませんでした。お友達からの知らせで、行くことを考えました。姫路くらいからなかなか行けそうもありませんでした。長田区からは火事で、二日くらいかかりそうなので、警察の方に案内してもらい灘区役所に着きました。
一目会いました。お友達も来てくださっていました。一階のアパートなので圧死だそうです。苦しんだ様子はなかったので、ひと安心しました。次から次へ運ばれて来る遺体を見て、たえられない日々でした。警察やお医者さんの検査もあり、なかなか山口県に帰れませんでした。食べ物、水などもなく、まだ余震もあり、夜中でも救急車、パトカーの音、高いビルが傾いているなど、今でもあの時のことが思い出されます。
神戸大の方々、アルバイトでお世話になった方々、いつまでも頑張って下さいませ。宏典は、何事にも一生懸命生きる子でした。二十一歳の生涯を終えて、私達をいつまでも見守っていることでしょう。
【写真】アルバイトをしていた神戸大生協の仲間と。中央でVサインをしているのが林さん。
◎夫・金山 昭(談・芦屋市在住)
いつものように、犬のハッピーの散歩に出ていたんです。近所は倒壊家屋も多くて、石垣も崩れていて、石垣をユンボで掘ってもらったんですけど、おらず。同じ町内の、細い路地に入ったところで、家の下敷きになって、一週間目に見つかりました。いろいろかけあったんですが、生きてるもんが先や、場所とか分からんもんは後や、ということでね。
いつも大学には、夕方五時前後に出掛けていってました。帰るのは九時すぎでした。
高校生の娘と、中学生の息子がおります。専業主婦じゃいやや、自分のしたいことをするんだといってました。
◎指導教官・上宮正一郎(談=経済学部教授)
卒論のテーマは、ディスカウントの海外旅行がテーマでした。水曜の夜五時半から八時四十分がゼミの時間でした。二十代のゼミ生のなかで、一人、年の離れたお姉さん格で、明るく熱心な方でした。
わたしと年も近かったんで、個人的な相談にのったりしたこともありました。子どもさんの教育にも熱心な方で、私と共通の話もありました。卒業したら、また新しい道を、という話も聞きました。
◎母・白木朋子(川西市在住)
息子の健介は、二十一歳の青春真只中の若さで、阪神大震災の日、自室のベッドで眠ったまま、非業の死を遂げてしまいました。
隣家の蔵が、離れにあった息子の部屋に倒れてきて、その下敷きになったのです。未曾有の事態に、全身の血が逆流してしまったかの様な衝撃でした。
自分なりに人生の計画を立て、それを実現するために着々と努力してきた矢先の事で、この時ばかりは、神も仏もあるものかと思いました。経済学部の学生でありながら公務員の資格を取得しておりましたので、郵便局の仕事もしておりました。その収入で、北陸地方へ旅行することが何よりの楽しみで、特に金沢に魅せられていたようです。加賀友禅のお土産の品々が、悲しげに手元に残りました。仕事柄、金沢の郵便局を訪ねた折、あまりの美人局員に出会い、保険に加入して帰ってきたというエピソードがあります。旅行好きということもあって、旅行業務主任の資格も取得したばかりでした。
大学のテニス部に籍を置いていましたが、やりたいことが多すぎて、そのテニスも最近ではあまりプレーする時間がない事を嘆いておりました。
『朝茶は縁起がいい』と信じて、なぜいいかという事も説明済みで、朝食には何はなくとも日本茶でした。あの震災の日も、六時に起こす約束でしたので、もう少し時間がずれていたら、きっと朝茶が飲めて、命拾いしていたかもしれません。