歯朶原(しだはら)孝さん
昭和49年3月24日生まれ
当時:神戸大・理学部3年
陸上部
被災地:神戸市灘区備後町2ー3
出身高校:兵庫県立明石北高校
執筆:謙三さん(父)

 

夕食時の会話、
昨日のよう


 歯朶原 孝、神戸市灘区備後町二−三、アパート一階にて圧死。当日一月十七日下宿先へ何回電話しても通じず心配していたところへ、友達から電話が入り、着のみきのまま飛び出しました。山麓バイパスを出て三宮に入り、目を覆うばかりの惨状に唖然としました。なんとか無事でいてくれと祈る気持ちで王子動物園の前を通り、東へ向かいましたが広い道路が両脇から火が出ていて、火を避け迂回しながら下宿先の方へ向かいましたが進めなくなり車を広場に乗り捨て、道が瓦礫の山になっている所を数カ所乗り越え、やっとの思いで昼過ぎ現地にたどり着きました。現地では余震が続くなか、友達による必死の救出作業が続けられていました。今も感謝の気持ちでいっぱいです、お蔭さまで当日の午後五時過ぎには遺体を引き出すことができました。
 大学では理学部と陸上部に在籍し、地質学野外実習等、地震のことも勉強していたようです。陸上部では関西学生対校駅伝競争大会(丹後半島)の第五十五回、五十六回大会(’九三年、’九四年)に出場し頑張っていました。
 地震の十日前の一月八日(土)昼過ぎ、彼から電話があり「今須磨にいる、練習で六甲道から須磨まで往復三〇km走ってるんやけど、今日は一人で走ってる。大久保まで三五kmなのでこのまま走って帰る。」ほんとに自宅まで走って帰ってきました。西風の強い日でした。その日の夕食時「お父さん、定年まであと何年や、四月に四年になるけど、四年で卒業しないつもりや四月からは家から通学する。」と言っていたのがまるで昨日のように思われてなりません。もっと勉強したかったのに・・・。
 一人息子を亡くした寂しさは、年を重ねるごとに感じます。ときどきは、子供の頃からのことを思い返しながらも、家族で前むきに生きていきたいと思っています。   


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