今 英人さん
昭和46年6月26日
当時:神戸大・工学部・自然科学研究科1年 広中平祐数理ゼミ
軟式テニス同好会
当時:神戸市東灘区御影町西平野字平野
出身高校:石川県立金沢泉ヶ丘高校
写真:左端
執筆:英男さん(父)
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折れたスキー処分できず
記憶にあいまいな点あり。
17日
夕刻、金沢を出発し、夜中に神戸に向かう
18日
西宮の辺りから惨状にまきこまれる。連絡つかず。同行・英人の母、妹、従兄二名、私の計五人名。一台の車にて昼近く芦屋付近で交通マヒ。母・従兄二名の計三名にて出発。阪急線の線路沿いに現場へ。私と妹は車にて、何とか夕刻に現場到着。
未だ安否確認とれず。一夜、現場で明かす。
19日
午前十時頃に英人、レスキュー隊員確認。家屋の一階、全壊。二階部分の下で救出難航し午後二、三時頃に京都機動隊にて救出、圧死。無念。
学部、クラブ友人と共に、私の車にて安置所へ搬送。安置所にて一夜明かす。他に遺体三百から五百位か。翌日夕刻、車にて金沢に向かう。
20日
母と妹と私。翌日早朝、金沢の海で日の出を見る。
故郷への帰郷である。涙なし。
記憶の中で、親子四人、唖然とするのみにて、言葉少なし。
しかし、涙なし。出つくしたの感。
朝日に向かい帰宅へ。我が家の前を通り九時頃か、家へ入る。友人、多く迎えてくださる。
親戚手配の葬儀所へ運ぶ。彼の産まれ育った家にいたのは四、五時間。可哀想なことをしたと残念に思う。翌二十一日は葬儀である。
現地と離れている為、話題性が多く、マスコミ攻勢も強烈で、母親の心労増す。
車の帰宅中に母・妹・私と、心に言い聞かせた事は「この事で、今後特にお互い社会的に、平常心を保ち善い事をしよう。精いっぱい我々が生きることで、彼の死を無駄にせぬように」と話し合った。
「天国で彼と会うためには、自分達が己を大切にしなければ、地獄に落ちると逢えないかもしれない」との懸念であった。
二十一日の葬儀には。小、中、高、大の学生友人が多数祈ってくださった。
彼の短い人生を有意義なものとしてくれた友人達には感謝の念多く、ただひたすら祈念するのみ。
わたしにはあまり、記憶にない。
だが、今になって、葬儀の行われた場所の近くに行くと、思い出す当時のことが心痛い。
あれから五年を迎えようとしている今日、来春一月十七日神戸行の計画をしながら、この文を書きながら、彼の学生時代を想う。彼の遺品をみながら胸が痛い。研究資料、友人の情報、そして彼の部屋には真中から折れた彼愛用のスキーがまだ処分せずに泥のついたままである。衣類も洗濯すら母親はしない。かれの香りが消えるからと・・・。
二部屋ほど、遺品がそのままである。
もう整理せねばならないのだが・・・。
何かあると「もう結婚している頃カナー」とか、「なんの仕事をしているカナー」とか、折に触れ、彼の不在感は強いが、彼がこの世からいなくなったという、又わたしたちの前から消えたという喪失感はまだない。
彼の二十歳の人生は素晴らしかった。「人の一生の価値は長さでなく、深さである」との言葉は、同感できる。
妹も院を卒業し、京都に就職、好きな科学を職としている。そろそろ悩みの多い原器に輝いているのを見るとうれしくなる。
家庭では彼の話題は思ったより少ない。心の中で、家族同士が感じあっているの感だ。
彼の話題には限りがない。素晴らしい記憶を残して輝いている。どこかで彼を感じる。心で語りかける。返事があったような気持ちがする。
誰かに語りかけたい彼の人生。だが語れない。時が過ぎて、話題にものぼらなくなった昨今、たまに「息子さんが・・・」の話になると、きまって「その折は、皆様にご心配おかけしました」の言葉のみ。社会の記憶から薄れる事故も、思い出という美しい場面の事に集約されていくようで、問い返しのつかない災害も、にくめばきりがつかない。
それよりは、大切なのは記憶をふくらまして、彼の生存の期間の証明だけが、大切な気がして、神大、高校、中、小の卒業証書が額のなかで微笑んでいるような気がする。
歳老いてゆく、私共に、素晴らしい命を残し、わたしたちより先に、充実した人生を、わたしは称えるしか方法がない。
彼の残していったのは、私の心の中の在り様なのか。今でも私の中に生きている。「今日を大切に、感謝して、楽しんで生きるようにしたい」と。
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