大震災から23年 語り継ぐべきは
1月号特集
犠牲学生の漫画を本に
後輩のデザイナーが企画 記者=瀧本善斗
「空を泳ぎたかった魚の話」と題されたパラパラ漫画。魚は海を飛び出し、空をはためくこいのぼりへたどり着こうとするがなかなか届かない――。そんな物語は、震災で亡くなった発達科学部2年生の上野志乃さんが生前描いたものだ。父の政志さん(70)ががれきから拾い上げた遺作を、志乃さんの後輩がいま絵本にしようと動いている。
【写真】上野志乃さんの漫画のコピーを見る父の政志さん(左)と本下瑞穂さん(12月18日・宝塚市で 撮影=瀧本善斗)
志乃さんは1人暮らししていた灘区琵琶町のアパートが震災で崩れ、下敷きになった。政志さんは毎年命日の朝にアパートの跡地を訪ね、手を合わせる。2017年はこの場に、志乃さんの高校の5年後輩でグラフィックデザイナーの本下(ほんげ)瑞穂さん(38)も加わった。16年のニュースネット震災特集で政志さんを知り、同委員会を通じて連絡。対面が実現した。
本下さんは、志乃さんが発達科学部の美術受験に備えて入った画塾にも通っていた。面識はなかったが、卒業生作品として先生から紹介された志乃さんの木炭画に感銘を受けた。デザイナーになってからも仕事に苦しんだときは木炭画を思い出し自らを励ます。
6月、政志さんからパラパラ漫画を見せられた。「作品が生きていると感じた。絵本にすれば図書館など温かくて日常的な場にも志乃さんの名が残るのでは」。提案に政志さんも喜んで賛成。本下さんは既に漫画を印刷会社へ持ち込み、どのような形で出版するか検討を進めている。
志乃さんは生前、染色の道へ進むことを考えていたという。「私と同じく芸術を志した人の漫画を作品として世に出してあげたい」と話す本下さんに、政志さんは笑顔でうなずいた。
巨大ツリーに「鎮魂」
「必要ない」8割 本紙調査 記者=竹内涼
ニュースネット委員会は、メリケンパーク内で開催していたイベント「めざせ!世界一のクリスマスツリー」について、神戸大生を中心にネット上で意識調査した。期間は12月20日〜1月8日で、113人から回答を得た。開催趣旨に「阪神・淡路大震災の犠牲者の鎮魂」「震災からの復興」が含まれていることについて、「必要ない」と答えた人が8割を超えた。
イベントは12月2〜26日まで開催し、ホームページによると140万人以上が来場した。「そら植物園」の代表で、植物を使ったイベントを各地で企画している西畠清順さんがプロデュースし、神戸市も運営に参加した。
「必要ない」と答えた理由を複数回答可で聞いたところ、「企画を盛り上げるために震災が利用されていると感じるから」が86・7%、「そもそもツリーと『鎮魂』や『復興』は関係ないと思うから」が65・6%だった。ツリーと震災の関連性に疑問を持つ人が多かった。
神戸で行われるさまざまなイベントで「鎮魂」「復興」という言葉が使われることについて、意見を自由記述で聞いたところ、被災者の気持ちを考え、安易に使うべきではないという意見が多く見られた。一方で、商業目的ではなく、震災の風化を防ぐ目的なら賛成という人も複数いた。
「無言の叫び心動かす」
慰霊碑 震災翌年に建立 記者=竹内涼
六甲台第1キャンパスにある慰霊碑。1996年3月に設置され、横には震災で亡くなった神戸大の教職員・学生41人の名が刻まれた銘板が置かれている。毎年1月に遺族や学生らが献花と黙とうを行う場となっている。
【写真】(上)1996年3月当時の慰霊碑(提供=大学文書史料室)
(下)慰霊碑に献花する武田廣学長(2017年1月17日 撮影=ニュースネット委員会)
慰霊碑は当時工学部非常勤講師だった小林陸一郎氏が制作。メキシコのピラミッドを模した高さ1・4㍍の御影石の台座の上に、「鎮魂」「慈」の文字をかたどった灯(あかし)が乗る。碑の周りには白砂がまかれていて、「兵庫県南部地震神戸大学犠牲者慰霊碑」という碑文が刻まれた白御影石も置かれている。
96年4月発行の学報によると、同年3月に除幕式が行われた。故・西塚泰美学長(当時)は「人の心を動かすものは、万巻の書物や映像よりも、この碑に名前が刻まれた方々の『無言の叫び』の方が、はるかに重く大きいものがあります」とあいさつしている。
ただ、除幕式の時点では白御影石と白砂はなかった。同年9月ころに工事が行われ、設置されたという。多淵敏樹副学長(当時)が碑文の文字を書いた。大学文書史料室の野邑理栄子さんは「詳しくは分からないが当初のままでは殺風景で、見た目に問題があったのではないか」と話す。
防災の教訓 市民へ
室崎益輝名誉教授 記者=下島奈菜恵
震災後の家屋調査など、防災研究に50年近く取り組んでいる室崎益輝名誉教授。市民とのコミュニケーションを大切にし、市民に防災教育を広めている。
【写真】講演する室崎名誉教授(本人提供)
防災の道に進んだきっかけは、1968年に有馬温泉の旅館で起こった火災事故。現場を調べ、火事が起きて当然の建築だったと気付いた。「火事が起きても死亡者を出さない方法を教えなければ」。当時大学院1年で建築のゼミに所属していたが、ゼミを変え防災研究に取り組むようになった。
阪神・淡路大震災の前は主に行政から頼まれた仕事をしていたが、震災後に市民の「震災時にどう動けばいいか分からなかった」という声を聞いた。市民に防災教育が伝わっていないと実感し、市民とのつながりを重視するように。現在はNPO法人災害看護支援機構などの市民団体の役員をしたり、地域の小さな集まりで講演したりしている。
「神戸は震災の体験を調査し、伝える責任がある」と話した。
震災を継承
祭で劇制作 記者=瀧本善斗
ボランティアサークル、学生震災救援隊の代表・江藤恒夫さん(工・3年)にとって震災は生まれる前の出来事だが、継承のための活動に力を注いできた。
【写真】震災救援隊代表・江藤恒夫さん(7月2日 撮影=瀧本善斗)
2017年7月に都賀川公園であった毎年恒例の復興祭「灘チャレンジ」では、江藤さん作の寸劇を披露。震災後に生まれた神戸大生が授業課題で震災経験者にインタビューすることになり、最初は面倒がるも、話を聴くにつれ真剣になる筋書きだ。寸劇を見た灘区の40代女性は、震災後に生まれた世代が作っていると聞いて「ハッとした」と話す。
家族が被災し、震災教育の盛んな地域で育った江藤さん。地域住民と学生の意識のずれを感じるという。「部内でも地震発生日すら知らない学生もいた。神戸の街や人が当たり前に持つ前提が共有されていない感じがある。もっと震災を知ってほしい」と訴える。