大学生からのメッセージ《1》
【写真】大学構内には、休講措置や卒論提出延期を告げる掲示が。小さく「友人の消息も事務室に知らせてください」の文字も。(1995年1月 神戸市灘区六甲台の神戸大経済学部で)
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忘れてはいけない、でも、忘れたい (匿名希望・19歳)
その時、自分の故郷を救いたい (神戸大 国際文化学部・山本万紀子)
知人の死を見つめなおして (早大 社会科学部・小山 径)
ボランティアで学んだ。心に備えを…(東海大 海洋学部・田中洋行)
初めて知った、被災地の苦しみ (東工大 理学部・星野圭介)
命を落とした同世代の若者のこと覚えていよう
(早大 人間科学部・永原真幸)
“いざ”を見極めるのが一番重要 (早大 第一文学部・西浦久雄)
心の底に鉛のような重いもの感じる (早大 人間科学部・金居宗久)
学生メディアにできることは何か (早大 教育学部・佐々木貴宣)
突然の災害にどう対処すればいいのか(関西大 社会学部・今村真樹)
僕なりの震災の思いを伝えていきたい(同志社大 文学部・玉木剛)
知らないことが多かった (神戸大 経営学部・女子)
被災地の心わかりたい (神戸大 国際文化学部・女子)
神戸にどうかかわるか模索 (神戸大 発達科学部・女子)
事実を受け止め悲しみ乗り越えたい (神戸大 経済学部・女子)
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忘れてはいけない、でも、忘れたい
匿名希望(19歳)
当時、僕は大阪の平凡な中学1年生でした。
大阪は震度4を記録しましたが、別段被害もなく、
大きな災害を経験した事のなかった僕は、
「大きな地震だった」ぐらいにしか考えていませんでした。
隣の県の大惨事も、テレビの中の出来事に過ぎなかったのです。
しかし僕には、周りの友達とは、1つだけ違う点がありました。
身近に、建設会社に勤める人間がいた事です。
彼は仕事柄、毎日神戸に行き、連日会社に泊まり込んでいました。
彼が一言、
「あれじゃあどうしようもない」と
話していたのを覚えています。
彼が自殺したのは、震災から6日後、1月23日でした。
彼は、泊まっていた会社で、自らの命を断ちました。
無力感に絶望したのか、ノイローゼになったのか、
原因は未だに分かっていません。
彼の死は、震災の死者の数には含まれません。
関連死と呼べるのかさえ、僕には分かりません。
しかし、やはり、「震災がなければ」という気持ちはあります。
震災から5年以上が過ぎ、神戸の町が復興しているのと同様に、
彼の記憶も次第に薄れてきました。
頭では、
「忘れてはいけない、語り継がなければいけない」
という事は分かっています。
しかし、心のどこかには、
「早く忘れたい、誰にも話したくない」という気持ちが、
確実に存在するのです。
一生、このアンビバレンスが消える事はないでしょう。
僕は、阪神高速の横を通って神戸に来て、
ピカピカの六甲道駅しか知りません。
しかし、あれほど多くの先輩方が亡くなった事を知り、
数々の遺族の方の話を、この本で読みました。
みんな、多かれ少なかれ、
僕と同じ気持ちを持っているでしょう。
僕だからできる事、僕にしかできない事を、
徐々にやっていきたいと思います。
〈2000年6月9日 メールで〉
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その時、自分の故郷を救いたい
山本万紀子(神戸大学 国際文化学部地域文化学科・一年・19歳)
阪神大震災が起きたとき、私は中学校一年生で、
愛知県の自宅で寝ていました。
震度3くらいの揺れを感じちょっとだけ目を覚ましましたが、
愛知県ではよくその位の地震が起こるので
たいして気にも止めず、すぐにまた眠ってしまいました。
その後8時過ぎに私が目を覚ますまでの間に、
本当に多くの人の命が失われたんだということを、
この本を読んで、
初めてちゃんと認識したような気がします。
当時、「死者6000人以上」と言われても
全然想像がつかず、ただテレビで
被災地の様子や避難している住民のみなさんの様子を、
「大変そうだなぁ」とぼんやりと眺めていただけでした。
その内、地下鉄サリン事件が起きてオウム報道が始まり、
私はほとんど地震のことは忘れてしまいました。
神戸に来なかったら、この先ずっとこの地震について
忘れてしまっていたのかと思うと、そんな自分が怖いです。
もし自分の住み慣れた町が崩れてしまったら、と、
この本を読んで考えてみました。
もし家族が亡くなってしまったら、
友達がいなくなってしまったら、
私の町がなくなってしまったら、
それはきっと悲しいどころではすまないでしょう。
立ち直れないかもしれない。
きっと神戸の人達も
立ち直れない程の心の傷を負ったと思います。
この春、私が大学生になってこっちに来る事になった時、
『震災の街』というイメージはほとんどありませんでした。
ただ『都会』というイメージしかなかったんです。
もう復興は完全に終わっているのだと思っていました。
でも、人の心の傷は決して完治することは無いということに
初めて気付き、震災の経験を持ちながら街を建て直し、
懸命に生きる神戸の人達は強いと思いました。
私の故郷は愛知県です。
これまで別に自分の町のことなんて何にも考えなかったけど、
こっちに来て、どれだけ自分がその町のことを好きかわかりました。
町だけじゃなく、家族の大切さも見にしみて感じています。
今も、早く帰りたくて帰りたくてたまりません。
でも、もし東海沖大地震が起きてしまったらどうしよう、と、
この本を読んでものすごく怖くなりました。
その時が来たら、私は一体何をすればいいのだろう、
何が出来るのだろうと、不安でいっぱいです。
ちゃんと理性的な行動が取れるでしょうか?
でも、この本を読んでそういうことを考えるようになったのは、
私にとってかなりの進歩だと思います。
何度も何度も読み返し、
いざというとき少しでも自分の町を救いたい、
そう思いました。
〈2000年6月8日 メールで〉
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知人の死を見つめなおして
小山 径(早稲田大学 社会科学部・四年)
阪神大震災で亡くなった6人の方のご遺族のコメントを読んで、私が真っ先に思ったのは、去年の八月、水の事故で亡くなった知人のことでした。
その知人とは、都内の大学一年生(男性・当時20歳)で、あるサークルの飲み会中に川に飛び込み、そのまま彼は帰ってきませんでした。その事件以来、一人の人間が亡くなるということについて重く考えてきました。一人の死が多くの人の心に重くのしかかることを知ったからです。
そのご両親、特に母親は今でもふさぎ込んでいらっしやいます。その環境にいる彼の姉は、弟の死の悲しみとともに今の家の環境にストレスを溜めています。父親は単身赴任中でしたが、役職を捨て東京に帰ってくることになりました。そのサークルで一緒に飲んでいた大学生達も、責任を感じているかも知れません。
そして私自身も例外ではありません。事故現場の捜索を見にいった時、行方不明になってから一日たって発見され、ダイバーが川から上げた彼の遺体を見た時の光景は、今でも寝る前などに思い出されます。
きのうまで変わらず生きていた人間が、今は青黒くなって横たわっているという生死の違いを、全く現実的に受け入れることができませんでした。それから三ヶ月間、なんとなく彼の死を避けようと生活してきた気がします。
しかし、この本を読んで、もっと積極的に彼の死を受け入れなければならないと気づかされました。
この本の場合、六人のご遺族の方のコメントが、命の尊さを逆に証明しています。
それは本文にも登場した広島の原爆資料館に置かれている遺品が、戦争はいかに愚かなものであるかを証明しているのに似ていると感じました。そしてこんなことが起こらないようにするには、どうしたらよいかという所に考えが至る点でも、似ていると思いました。
原爆資料館の遺品は戦争を防ぐということを考えさせられると同時に、今も世界各地で戦争が起こっていることにやるせない気持ちにさせられます。私も今年就職活動で広島に行った際、資料館を初めて訪れ、戦争に対する憤りを新たにして資料館を出た覚えがあります。
地震の場合それ自体を防ぐことはできません。ですが、地震による被害を防ぐことは人間は持ち合わせています。
この本を読んで、救急車や自衛隊が来ることを期待する前に、地域社会で命を守るために、あるいは命を救うためにやれることをもっと真剣に考えなければならないと認識させられました。
それと同時に、今の現実は私も含めて「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、地域社会のネットワークについて真剣に考えているとは必ずしも言えず、教訓と現実の温度差を感じます。
人間の命の尊さというものは、それを失って初めて認識するという逆説的な特徴を持っているのだと思います。この本を読んで、戦争であれ、地震であれ、水の事故であれ、命の尊さは同じということに気づかされました。
私の場合、知人の死について考えた時、どんな事故や事件や災害であっても、亡くなった人の命の尊さや、今さしせまって危険にさらされている命の尊さを考えると思います。
そして何よりその裏側にいる遺族や友人、知人の悲しみや苦しみを考えると思います。
この本を読んで、私は彼の死から目を背けるのではなく積極的に受け入れて、そこから自分の感じたことを糧にして、この春から、放送の仕事をしていこうと強く思いました。
少々、ご遺族の方のコメントなどが残酷すぎて辛かったですが、それ以上に彼の死に対する考え方が変わった点で私は大きな影響を受けました。
<1999年11月30日/Eメールで>
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ボランティアで学んだ。心に備えを…
田中洋行(東海大学海洋学部 水産学科水産資源開発課程・四年)
私が阪神大震災を知ったのは高校三年の時です。千葉県のある付属高校へ通っていた私は進学も決まり、出席日数を稼ぐだけの登校が続いていました。
一月十七日の午後、帰宅電車の中でみた新聞の号外で被害の大きさに鳥肌が立ちました。
当時、第三世界のNGO活動をしていた私は、帰宅してすぐにテレビに食い入るように見ました。そんな私が神戸へ足を運んだのは震災後一ヶ月が経過してからでした。
学校は意味のない登校が続いていたので、先生に相談し、十日ほど休みを貰ってボランティアへ向かいました。短い期間でしたが、日々報道される神戸の様子をみて、いてもたってもいられなくなったのが本音です。
受け入れてくれるボランティア団体を探すのに時間がかかり、結局神戸へ向かったのは二月二十一日。
大阪から神戸へ行く車窓の景色は印象的で、屋根の上に敷かれたビニールシートの青が徐々に増えてゆくものでした。私は三宮・中山手のカソリック教会に滞在させていただき、そこに集る若者たちに混じって「避難所回り班」に所属しました。
神戸は震災一ヶ月が経過し、人々が少し冷静さを取り戻し始めたころです。長引く避難所生活に疲れが見え始めたのもこの頃からでした。私の仕事は主に、お茶やお菓子を持って避難所を訪ねることでした。話を聞き、人手が必要とあれば後日人を集め、作業にあたりました。
ボランティアの毎日は忙しく、十日間風呂に入らなかったのも始めての経験でした。
当時のメモ帳には、汚い字で、まとまらない震災についての文章がただ書きなぐってあります。
避難所回りで、本が体の上を飛んでいたと聞いて、それから本だなの前で寝るのをやめました。物資が届かない二、三日間の食べる分は常にあったほうがいいと聞いて、一人暮らしを始めると、缶詰の食事を常備しました。
体験した人から話しを聞くという影響力は強いと思いました。阪神大震災を経験した人の話には説得力があり、聞く一人一人の頭で疑似体験をする機会となります。そういう意味で地道に語り継ぐことが、最も効果のある防災になるのではないでしょうか。
どこにでも起こり得る災害だからこそ、誰もが意識する必要があります。感情で判断して行動するのは危険です。しかし、極限状態では、目の前で人が亡くなってゆく中で、客観的に冷静に判断して行動することが求められます。その極限状態を一人一人がシミュレーションできなければなりません。
今、住田さんの本を閉じて、そして当時のメモ帳を読み返してみて、阪神大震災がどこにでも起こり得る文明社会の混乱そのものだと感じました。
起こるか起こらないかわからないことを想像するのは大変なことですが、心の準備をするとしないのではずいぶん被害の大きさも違ってくるはずです。
震災後の神戸を見た私も、自分のできる範囲で、「生々しい震災」を想像できるように訴えたいと思います。
<1999年12月7日/Eメールで>
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初めて知った、被災地の苦しみ
星野圭介(東京工業大学理学部 情報科学科・四年)
私は阪神大震災当時、新潟に住んでおり、関西に親戚も知り合いもいませんでした。
あの時、テレビで見る光景・惨状に衝撃は受けましたが、心のどこかでは阪神大震災は遠い向こうで起きた出来事だと思っているところがありました。
今回、この本を読んで、阪神大震災の実状や、被災された方々の気持ちを、初めて詳しく知りました。
目の前で生き埋めの人が炎に包まれたという話には、実際にその場にいた方、ご家族の手記を読ませて頂き、本当に心が痛みました。自分がもしその場にいたり、そのような状況で家族や友人を亡くしたらと考えると、とてもいたたまれない気持ちになりました。 今後のために、人が亡くなった現場を記録に残し伝えていくことが大事であるという提言にも、非常に納得させられ、共感を覚えました。
震災で生き残れたのに、その後の対応のまずさから亡くなってしまった人も多いという「震災関連死」の話も印象に残りました。
仮設住宅に住む一人暮らしの老人の「孤独死」は、マスコミ等でもよく取り上げられましたが、仮設住宅ができる以前に避難所での寒さ、ストレスから亡くなった人や、慢性疾患の治療が中断してしまい亡くなった人が多くいるという話は、ほとんど知りませんでした。
このような、平常時から気付きそうな問題で多くの人が亡くなったという事にやるせなさを感じるとともに、「机の下に潜って、その後に火の元確認」程度では済まない大地震が来たときに、何が問題となるか、どういう行動を取るべきかを常に考えてみておくことの大切さを知りました。
また、今春からマスコミに勤めるものとして、災害報道の難しさや苦労を知りました。
このような場面に立ち会ったときに、どのような姿勢で、何をまず伝えなくてはならないのかを考えてみるきっかけとなりました。
「自分が体験していなくても、伝え聞いたことを語り継ぐことが大事である」という姿勢を、仕事の上でも、また人間としても、常に心に持って生きていきたいと思います。
<1999年12月5日/Eメールで>
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命を落とした同世代の若者のこと 覚えていよう
東京都 永原真幸 (早稲田大学人間科学部・五年)
私は当時予備校生で、枚方市の自宅にいました。
確かセンター試験の翌日だったと思います。
ものすごい揺れを感じて目を覚ましました。
テレビをつけるとそこにはものすごい光景が写っていて、
信じられませんでした。
私の地元である枚方市はほとんど被害がなく、
京阪電車もその日の昼には走っていたと思います。
東京で学生生活を始めることになり、
私にとって震災は過去の事になっていました。
ちょうど、早稲田大学の入学手続きが3月20日で、
地下鉄東西線の早稲田駅の掲示板に
サリンの化学式とbyオウムと記されている
悪質な落書きが書かれていました。
できたばかりの友人と不謹慎にも
南青山総本部に行ったこともあります。
東京という自分の間近で起こったオウム騒動の方が、
直接経験していない震災よりも身近な問題でした。
神戸と大阪の温度差のようなものが書かれていましたが、
大阪で育ったものとしては
それほど切実な問題として考えることができませんでした。
ただ、同じ関西人として、
このまま無関心でいていいのかという、
後ろめたさのようなものを感じていました。
そして、一年後に、所属していた英字新聞会の取材という形で、
神戸を訪れました。
一年経ったそのころでも、
まだ震災の後遺症に苦しむ人たちがいるということを知り、
ショックを受けました。
もちろん、テレビでも震災の特集が放映されていましたから、
知識としては知っていたのですが、
画面で見るのと実際に行くのとでは大きな違いでした。
本の中で一番印象に残ったのは、
広島の被爆者との話です。
同じ、原爆を経験した人のなかでも思いは様々だということ。
私自身も、震災についていくら考えようとも直接経験された人の前では、
なにも言えないですし、
なにもわかってないのにそのことを考えること自体、
不謹慎だとさえ思っていました。
この本全体で、
住田さんの出身地神戸に対する愛情のようなものを感じました。
私も、出身地枚方が被害に遭っていたら
このような気持ちになったと思います。
このことで、自分と住田さんとの圧倒的な温度差を感じました。
しかし、おそらく、
この本の中で住田さんが一番伝えたいことであろう
「記録する、記憶することの大切さ」を考えたときに、
こんな私こそが、
震災について覚えてなければいけないと痛感しました。
震災は原爆と違って、止められるものではありません。
私自身が少しでも、震災について意識にとどめることが
どのような意味があるのかは今の私にはわかりません。
ただ、震災手記で書かれていた、
今の私と同じく就職を控えて将来の夢で一杯であった
同世代の若者が命を落としていったことは、
覚えていようと思います。
私自身、就職活動がうまくいかず、
希望の職種につけませんでした。
で、その事を人生の一大事のように考えて
悩んでいました。
でも、私にはまだ命が残っていて
挑戦する可能性も残っている。
その事に、感謝しなければいけない。
月並みな意見だけれど、
彼らの分まで頑張っていかなければいけない。
そう思います。
<1999年9月3日/Eメールで>
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“いざ”を見極めるのが一番重要
東京都田無市 西浦久雄 (早稲田大学第一文学部・一年)
マスコミ志望の僕と致しましては、
大変興味深く読ませて頂きました。
この夏、一人、青春18切符を使った大阪観光の後、
震災があった地区は今どうなっているのか気になり、
神戸の方へ行ってみたのですが、
三ノ宮駅などもすっかり震災の影が無く、
駅前の「復興支援センター」だけが
ポツリと町並みに浮いていたのが印象的でした。
もう薄暗い時間だったからかもしれませんが、
JRの車窓から見える景色は
わずか4年半前に壊滅的な被害を受けた町には見えず、
現代の物事が風化するスピードが
如何に早いかということに驚きました。
また、「日常」から「非日常」への移行が、
こんなにも難しいものであったというのは、
大変、僕自信驚きです。
いざというときにはいくらでも動いてやる、
と思っていた僕ですが、
その“いざ”を見極めるのが一番重要なことだというのは、
なかなかそういった経験をしたことが無いものにとっては
思いつかないことだと思います。
<1999年9月4日/Eメールで>
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心の底に鉛のような重いもの感じる
東京都 金居宗久 (早稲田大学人間科学部 人間健康科学科・三年)
この本を読み終えた後、
心の底に鉛のような重たいものを
落とされた気分でした。
以前沖縄に行って、
ひめゆりの塔を訪れた時も
これと似たような心境でした。
阪神大震災当時、私は高校生で
新聞やニュースから流れる情報でしか
現場の状況を理解することが出来ませんでした。
恥を忍んで申し上げますと
私のなかでは、
阪神大震災はここ半世紀内で未曾有の大地震であり
死者も多数出たらしいといったような
他人事のように捉えていました。
しかし、この本を手にし目を通すごとに、
震災が神戸の人々に与えた悲惨さが身にしみました。
この本の著者である住田さん御自身をはじめ、
被災者の方々の生の声が
私の心臓を強烈に絞るほど胸に響きました。
阪神大震災に対する思いは、
被災者ひとりひとり違うと思いますが
ひとに伝えることが出来るひとは、
自分なりの震災に対する気持ちを語って欲しいし、
被災していない人間も過去の出来事としてではなく
いつ起こってもおかしくない現実の問題として
この震災を見直す必要があると痛切に感じます。
<1999年9月6日/Eメールで>
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学生メディアにできることは何か
東京都 佐々木貴宣(早稲田大学 教育学部英語英文学科)
当初まさに遠い世界の出来事のようでした。
朝起きてテレビを見ると高速道路が傾き、
バスが宙づり…。
母が「これ、神戸よ」と言うのを聞いても、
「まさか、冗談でしょ」といった感じでした。
情けない話ですが、
テレビや新聞による報道が大量に伝えられるとともに
やっとこのことが大きな出来事だと
認識することができたのでした。
確かに、「情報」は重要です。
しかし、極限の状態では、
必要な情報と不必要な(誤った?)情報が
入り乱れるのだろうと思います。
それを取捨選択できる能力(経験)が
備わらなければならないと思います。
と、同時に必要以上に大量な情報の中、
伝えるほうも、取捨選択していかなければならないのでしょう。
「想像力の欠如は救援が遅れたり、
被害への認識が遅れたりすることにつながる(21ページ)」
全くその通りだと思いました。
僕は時おり、
○○(地震、火事、戦争から「カツアゲ(=恐喝)」されそうな場面まで)が
起きたら…、
といったシナリオを想像して、
シミュレートしてみることをしています。
(実際、高校生の時に「カツアゲ」されそう
になったときにはひどく冷静だったのを覚えています。)
避難訓練のような体を動かして行うものも必要でしょうが、
このように想像からの訓練(イメージトレーニングみたいなもの)も
緊急時の精神状態を保つためには必要なのではないかと思っています。
書かれていたように、
マニュアルが破綻することもあるのですから、
いざというときに備えた、
マニュアル(避難訓練的なもの)を越えた自らの感覚を
磨く必要があると考えます。
この本のソースとして、
関西学生報道連盟の記事や写真が
あれだけたくさん使われているという点に、
驚かされました。
つまり、他のマスコミが語らない(語れない)部分まで
取材をしている、ということでしょう。
学生報道の強さを見た気がしました。
報道するということに対するストイックな姿勢、
触れることをためらうようなものでさえ、
伝えるべきものは伝えるのだ、という姿勢に感心しました。
自分(自分の所属する早稲田大学英字新聞会もふくめ)に
それができるだろうか、と想像してみましたが、
なかなかできるものではないと思います。
しかし、学生報道という中に身を置いている以上、
大学新聞(のみ?)でできるそのようなことにも
目を向ける必要性を強く感じました。
<1999年9月7日/Eメールで>
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突然の災害にどう対処すればいいのか
奈良県 今村真樹 (関西大学社会学部・一年)
亡くなった神戸大生に関する手記を読んでいる時、
涙が溢れそうになった。
あまりにも生々しく、
そして遺族・友人のやりきれない思いが
活字を通じて伝わってきたからだ。
数年前に、友達がバイク事故で死んだ時、
母親が
「この子はいつ起きるの。
学校に行かなあかんやんか。」
と、泣きながら叫んでいた事を思い出した。
震災で亡くなった方は六千四百三十人。
どれだけの人がこの母親と同じような
やりきれない思いを抱いたのだろうか。
僕には想像がつかない。
災害は前ぶれなく突然やってくるものであり、
どれほど科学が進歩したからといっても
人間には防ぎようのないものだ。
突然襲ってくる災害に
どのようにして対処すればいいのか、
また同じような被害を出さないためには
どうすればよいのか。
この本を読んで「危機管理意識」
の必要性について考えさせられた。
<1999年8月30日/FAXで>
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僕なりの震災の思いを伝えていきたい
豊中市 玉木剛 (同志社大学文学部英文学科・四年)
「語り継ぎたい。命の尊さ」の6章「語り継ぐこと」
を読んで目から鱗が落ちるような思いがした。
特に、筆者の父の旧制中学校時代の友人達が集まり、
原爆に対する気持ちの違いで
口論になったという話は新鮮だった。
というのも私は原爆に対する受け止め方は
経験した人なら誰でも同じだと思い込んでいたからだ。
だが、冷静になってよく考えて読み進めると、
「広島に、同じあの日、あのとき居合わせた、
同世代の人でも心に受けた傷はさまざまであること。
原爆に対する気持ちもみんな違うこと。
その後の人生も違ったものであったことを」
という文章がすっと私の心の奥に飛び込んできた。
私は大阪・豊中市の高層マンション14階に住んでおり、
震災時には激しい揺れを経験した。
マンションは揺れを吸収する
耐震性の機能があるため、
上の階になればなるほどよく揺れるのだ。
地震で家の食器や家具が大量に割れてしまって、
ガラスが辺りに散らばっていた。
私たち家族は全員無事だったことを確認した後、
雑然となった部屋を何日もかけて掃除した。
その間、全国各地に住んでいる親戚や
両親の友人などが
安否を心配して電話をかけてきて励ましてくれた。
イギリス人の知人も国際電話をかけてくれた。
また、父親が「食器が大量に割れた」と電話で言うと、
数日後に何十枚もの皿を送ってくれた人もいた。
震災で被害を受けたことは災難だったが、
「友人や親戚のやさしさ、大切さ」
を改めて知ったと家族で話している。
私は神戸の被災者の人達と比べると、
たいした被害を受けていない。
だから私が震災についてどうこう言うのは
おこがましいという感覚をずっと持ってきた。
そして時が経つにつれ、記憶から遠のいていき、
震災が起きたことはあたかも神戸だけの問題で
自分とは関係がないという錯覚に陥っていたのだ。
だが、この本を読んだ後、
私は私なりの震災に対する思いを伝えていけばいいんだ、
と考えるようになった。
そして、震災で経験したことを思い起こし
、
どう対処すれば良いかなど、
私が見聞きした震災に関する事実を
積極的に伝えていきたいと思っている。
<1999年8月29日/FAXで>
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知らないことが多かった
神戸市 匿名希望 (神戸大学経営学部・三年・女子)
震災当時、北九州にいて、テレビや新聞を通してしか情報を得ることができませんでした。いろいろ情報を得て、知っていたつもりではいても、知らないことのほうが多いのはあたりまえだし、普通なことなんですね。改めて気付かされたことが多かったです。<1999年4月9日/新入生歓迎講演会アンケートから>
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被災地の心わかりたい
神戸市 匿名希望 (神戸大学国際文化学部・一年・女子)
震災のことはあまりよく考えず神戸大学へ来てしまって、自分がとてもあさはかだったような気がします。そこにいなければすべてをわかることはできないかもしれないけど、できるだけわかりたいと思います。まだ自分にできることがあれば、もやっていきたいです。<1999年4月9日/新入生歓迎講演会アンケートから>
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神戸にどうかかわるか模索
神戸市 匿名希望 (神戸大学発達科学部・三年・女子)
神戸に来てから二年。被災地に住み、被災地の大学生として、どのように自分がかかわっていこうか、まだ模索しています。来た当初、『震災のとき…』という言葉が多かったことを思い出しますが、震災という事実が薄れていることもあるのではないかと思います。<1999年4月9日/新入生歓迎講演会アンケートから>
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事実を受け止め悲しみ乗り越えたい
神戸市 匿名希望 (神戸大学経済学部・四年・女子)
つらいことを忘れないで語り継いでいるということはしんどいことだし、できれば忘れたい、考えたくない、というのが本心じゃないかと思っていた。でも、事実をありのままに受け止めること。その勇気を皆がもっていたら、いろんな悲しみを皆で乗り越えることができるんじゃないか、と思いました。<1999年4月9日/新入生歓迎講演会アンケートから>
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