大学生からのメッセージ《2》

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【写真】3人の神戸大生が亡くなった西尾荘跡。(1995年3月18日 神戸市灘区六甲町で)


大学生からのメッセージ《1》

  • ルミナリエに涙したのはなぜか(神戸大 総合人間科学研究科・鐘江弘純)
  • 神戸からの転校生への思い   (立命館大・匿名希望)
  • 神戸人として、強く心に残しておきたい(神戸大工学部 修士・山村隼之)
  • 報道者の視点からの描写が多い (立命館大 政策科学部・川瀬峰人)

  • あの日に引き戻された     (國學院大 経済学部・中村利昭)
  • 伝えようと試み続けていくこと (早大 社会科学研究科・藤原安義)
  • 良心にかけて、事実と向き合いたい (早大 教育学部・森山春香)
  • 岡山から神戸に来て        (神戸大 経済学部・小原悠子)
  • 亡くなった39人の先輩とともに   (神戸大 経営学部・栃谷亜紀子)

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    ルミナリエに涙したのはなぜか
    鐘江弘純 マスコミへの就職希望 23歳
    (神戸大学総合人間科学研究科 地域文化学専攻M1)

    今日ルミナリエに行ったときの
    感想からどうしても住田さんへ感想のメールを
    差し上げようと思いつきました。

    僕は神戸大学大学院の学生(学部も神大)です。
    ふとした機会から住田さんの本の存在を知り、
    拝読する機会を得ました。

    実は神大生用のマスコミセミナーで
    直接お会いしたことがあるのですが、
    失礼ながらそのとき住田さんに
    憤り混じりの質問をぶつけました。

    「住田さんご自身、その時は誰も
    直接助けることはなかったのですか?」

    その質問の真意はこうです。
    自分がもし住田さんのような状況にいるとしたら、
    間違いなく、報道はそこそこに目の前の人命救助に
    がむしゃらになるでしょう。

    住田さんはなぜ目の前に埋まっている人を「見過ごして」きたのか、
    もし住田さんが人命救助に直接参加していれば、
    数人は生き長らえたのかもしれない、
    そう考えるとその時の住田さんの行動が
    悔しく憎くててなりませんでした。


    目の前で助けを求める命を見過ごしてまで
    伝えることに従事するのが「報道マンの精神」なのか、
    とも思いました。
    住田さんの本を拝読した後も悲しさそこそこに、
    その憤りが大部分残っていまし た。

    今日(12月12日、ルミナリエの初日)多分ほとんどの周りの人同様、
    僕も彼女も神戸の風物詩と化したルミナリエを「愉しみ」に来ていました。
    ところが今日ルミナリエに行って
    最初のアーチを見た瞬間涙がにじんできました。
    ルミナリエ4度目にして初めての経験です。

    アーチをくぐりつつ女性のアナウンスの声で
    「1995年」「被災者」という言葉が聞こえてきます。
    その言葉を聞く度に思い出すのは当時の神戸の街全体、
    つまり神戸の街全体を綴ろうとした
    住田さんの本の色んな部分です。

    「西尾荘」の関係者の証言や被災地で祈る人々の写真、孤独死の状況、
    当時の神戸市の状況全てに思いをはせるに至りました。
    結局最後の東遊園地まで目頭を熱くしたまま歩いてきました。
    「愉しみ」に来てた彼女にぼそっともらしました。
    「ごめん、こんなに悲しいのは住田さんの本のせいや・・・」

    本当に住田さんのせいです。

    もし震災のとき自分のその場の正義感から目の前の人命を助け出し、
    もしくは助け損ね、それを本にして出版しても、
    数あるドラマのひとつにすぎなかったととられるかもしれません。
    ひどい場合には読者に、質の悪いドキュメンタリーのような
    「お涙頂戴」の代物とさえ思われた可能性もあります。

    あの日一箇所にとどまることなく歩き回った住田さんだからこそ
    書けた本だったことをしりました。
    当時の神戸の全体像を被災者として描こうとすることは
    住田さんの行動からしか描けないことを知りました。

    そして実際にその本が被災者でない人間に
    当時の神戸に思いをはせさせることを身をもって知りました。
    なるほど、あの時の住田さんの行動の原因のひとつが分かった気がします。
    僕が質問をしたとき住田さんの答えの一句に
    「自分にしかできない」という言葉があったのですが、
    そのときは飲み込めませんでした。

    今でも、もし震災にあったら
    僕が住田さんのような行動をとるかは分かりません。
    でも住田さんが「自分にしかできな」かったこととは
    何かはっきりと分かった気がします。

    及ばずながら、住田さんの本を片手に
    将来「語り継ぐ」ことをし、少しでも住田さん、
    そして当時の神戸の関係者に協力していきたいと思います。
    <2002年12月12日/メールで>


    【著者からの返事】
     鐘江さんからのメールを職場で朝、拝読し
     しばらく、こみ上げてくるものがあり
     ニュースセンターの片隅でたたずんでいました。

     自分が、どんな座標軸にいるのか
     いまだ手探りだったのですが、鐘江さんが
     その一部を探し当てくださったような
     気がしました。

     でも、私は、本当はそんなたいそうなことを
     したわけでもなく、
     人と変わったことをしたといえば
     若い人向けにブックレットを編んだことだけです。

     私もまだこれから、鐘江さんたち
     若い皆さんと、今の日本をさまよって行くわけですが
     阪神大震災を通じて学んだことを
     生かしていけるチャンスがあればいいですね。
     そう祈らずにはおれません。
     <2003年1月10日/メールで>

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    神戸からの転校生への思い
    匿名希望
    (立命館大学4年 就職内定者)

    私は震災が起こった日は栃木にいました。
    当時中学2年生だった私は
    登校前にテレビで震災の発生を知り、
    映像のすさまじさに驚きつつも
    いまいちピンと来ないものがありました。

    その後、徐々に情報が流れ、
    避難生活をされている方々の辛さなども伝わってはくるのですが、
    自分がいつもと何も変わらない生活をしているので
    はっきり言って関心は低かったのかもしれません。

    そんな中で一つだけ、今でも覚えているのが
    震災の前年に神戸から私の町に転校してきた友達の女の子の事です。

    彼女は特に被害の甚大な地区に住んでいたらしく、
    前に住んでいた家の近所もよくテレビに映っていた、
    と話していました。

    当時の関心の低い私は彼女に残酷にも
    「いやぁ、今住んでなくてよかったね」と声を掛ける位で
    片付けてしまったのですが、
    今振り返れば
    その日からしばらく彼女の元気が無かった事に
    気付かなかったのです。

    彼女の仲の良かった友達や
    ご近所の知り合いの方は本当に辛い目に遭った。
    もしかしたら亡くなった友達もいるかもしれない。
    そんな当たり前の事にすら
    気付いてあげられなかった自分が悔やまれます。
    自分がその当事者ではないからこそ、
    そのような配慮が必要だったのだとも思います。

    今回、住田さんのお話やご本を通じて彼女の事を思い出しました。

    もし、あの時私が彼女の気持ちを察し、
    真に気遣った言葉を掛けてあげられたら、
    ほんのわずかでも彼女を元気づけられたのかもしれません。

    そういった意味でも、
    本当に相手の側に立って物事を話せるアナウンサーになりたい
    と私は改めて思いました。

    私にどこまでやれるかは分かりませんが、
    その信念は常に抱いていたいと思います。

    <2002年10月/メールで>
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    神戸人として、強く心に残しておきたい
    山村隼之
    (神戸大学工学部 修士2年・23歳)

    私は神戸市の西区に住んでいますので
    震災の影響はあまりなかったのですが
    それでもあの時の揺れは忘れられません。

    停電のため状況がわからず、
    とにかく復旧するまで家族4人車の中で待機していました。
    復旧後、まず最初にテレビをつけて驚きました。
    「あの阪神高速が倒れている・・・」

    東灘、灘が特にひどいというニュースを聞いたとき、
    東灘に住んでいた同級生の顔が浮かびました。
    彼は大丈夫だろうかと。

    いけないと思いながらも(回線が混雑するだろうと思いました)
    何度も電話をかけました。
    何日もつながらない状態が続き心配していたのですが、
    しばらくして彼のほうから連絡がありました。

    家は全壊でしたが、家族も含め全員無事だとのことでした。
    彼は本当に大変な経験をしたそうです。

    そしてその時、自分の経験した震災を
    人々に伝えることのできるテレビの力を痛感し
    同時にその仕事に憧れを抱いたのだそうです。

    その彼は今、NHK京都局でカメラの仕事をしています。

    阪神大震災まで地震というものを経験したことがなかった私にとって
    本当に学ぶべきことが多い出来事でした。
    神戸人として、あの震災のことは強く心に残しておきたいと思います。

    <2002年10月15日/メールで>
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    報道者の視点からの描写が多い
    川瀬峰人
    (立命館大学政策科学部、当時13歳)

    僕の被災した時は、ちょうど
    神戸大学発達科学部付属住吉中学校に在籍してた時でした。
    幸い、家族親戚、友達など震災により
    亡くなった人はいませんでした。
    それゆえ、僕にとっての震災は、悲しいものではなく
    「大変なもの」と言う印象が強かったような気がします。

    ブックレットを読ませていただいたことにより、
    忘れかけはじめていた震災の時の記憶が、
    また鮮明によみがえってきました。

    僕も、震災は語り継ぐべきである、
    という考えを以前からもっており、
    資料なども、可能な限り収集保存してきました。
    中学3年の時には、学年全員の震災文集の発行も手伝い、
    またそれを現在、同窓会のホームページを使いインターネットで
    公開できるようにしようと考えています。

    そして、何よりあのブックレットに興味を引かれた点は、
    報道者の視点からの描写が多かった事です。

    震災後、情報の大切さと言うものに魅せられて、
    将来は報道関係の仕事につきたいと考えています。
    その手始めとして、
    密着した報道ができるコミュニティーFM放送に、
    高1のときから参加し、
    またあのような大災害が発生した時には、
    自分も情報伝達の一端を担える事ができればと思っています。

    ブックレットは今まで保存してきた資料とともに
    震災を体験していない人へ
    語り継ぐための材料としていきたいと思っています。
    〈2001年7月15日 メールで〉
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    あの日に引き戻された
    中村利昭
    (國學院大學 経済学部・3年)

    阪神大震災からもう6年たつんですよね。
    地震の記憶も風化してきていたのですが
    被災者の方々の生々しい証言を読むと
    急に6年前の1月17日に
    引き戻されたような感じがしました。

    もっともインパクトが強かったのは
    最初に読んだ大学生たちの証言でした。
    昨日まで当たり前のように接していた友人が
    突然不条理な自然現象で死んでしまう厳しい現実が
    生々しく書かれていて
    とてもつらい気持ちになりました。

    ある学生の証言なのですが
    「友人が死んでしまった時の気持ちは
    悲しいというより悔しかった」という言葉には、
    阪神大震災で親しい友人や家族を失った人だけがわかる
    つらさ、悲しさが凝縮されているような気がしました。

    東京では関東大震災が起きてから78年たつのですが、
    いまだに大きな地震は起きていません。
    おそらく近い将来地震が起きることは確実です。
    旧国土庁が発表した南関東大地震の被害想定では
    死者9000人という数字が出ています。
    冬の風の強い日の夕食時に震度7の地震が襲った場合
    死者が15万人出るという報告もだされています。

    東京都の被害想定報告書を読むと、
    僕のすんでいる地域の総合危険度は三段階評価でB
    友人が多く住む中野区は、火災危険度がものすごく高くて
    総合危険度がAになっています。

    東京では関西と違ってかなりの頻度で地震が起きるので
    子供の頃から防災意識を図る教育をさかんに行っていました。
    ということで、家には万が一のための救急袋を常備していますし、
    地震のときのための非難場所もあらかじめ指定されています。

    東京に住んでいる限り、将来厳しい試練に会うことは避けられません。
    阪神大震災は僕たち東京人にとっても他人事ではありません。
    阪神大震災ノートに登場した人々の証言をきちんと受け止めて
    将来確実に来るであろう
    「第二次関東大震災」に備えようと思いました。
    <2001年7月15日/メールで>
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    伝えようと試み続けていくこと
    藤原安義
    (早稲田大学・社会科学研究科 地球社会論専攻修士課程3年・25歳)

     神戸で大震災が起こったとき、私は大学の学部1年生だった。今は修士課程の3年生なので、もう7年も前のことである。
     報じられる度に数を増す被災者の数。「これは凄いことが起こった」と感じて、テレビの前に噛り付いていたことをいまでもよく憶えている。
     私は昼過ぎにサークルの部室を訪れた。
     部室の中ではサークルの仲間達がラジオに噛り付いていた。「おいっ!死者の数がどんどん増えていくぞ。こりゃ、洒落になってないなぁ・・・」という声が聞こえてきた。部室を訪れる者は口をそろえて「凄いことになっているねぇ」なんて言って入ってきて、すぐに一緒になってラジオに耳を傾けた。ところが、午後三時を回った頃、当時3年生の先輩が部室に入ってきた。
     「ん?どうかした?みんな深刻そうな顔しちゃって(笑)」

     先輩は、多数の方が亡くなられた大災害、しかも自らが生活を営んでいる同じ日本国内で起こった大災害から10時間以上が経とうとしている時になお、「震災が起こったという事実」を知らなかったのだ。
     先輩とラジオに噛り付いていた我々の間にある「落差」はどこに起因するのか?
     それは「メディアに接していたかどうか」ということただ一点である。私は、メディアによって震災を知り、メディアによって徐々に実感を付与されて震災を見つめていたのだ。

     しかし、もっと考えてみると、この私の「実感」というものも本当は実に薄っぺらいものであった気がする。
     批判を覚悟の上で告白すると、私はあの時は「パニック映画」が何かを見ているのではないかと感じていた。私は絶対的な安全地帯でそれを見ている。そしてこれはまた、湾岸戦争の中継を見て感じた違和感と同じだったのではないだろうか。

     この夏、私はある神戸のニュータウンを訪れ、数時間かけて歩いた。
     整然としている街に潜む狂気。合理的に設計されたがゆえに起こった非合理な結末。行き過ぎた環境浄化運動と「無意味な空間」の排除。そんな閉塞状況の中で酒鬼薔薇少年は育ったのだ。ある本に書いてあったこんなエピソードを思い出した。
     「阪神大震災の取材で聞いた、印象深い話があります。長田区の被災者のおばあさんのところに、役人が復興計画を作って持ってきたんですね。それは、もう見るからに整然とした、すばらしい街の青写真なわけです。でもその説明を聞いていたおばあちゃんが最後にひと言、『あのー。お地蔵さんはどこにあるんですか?』と尋ねたんだって。長田区にはお地蔵さんがたくさんあるんです。しかし、合理性を追求した復興計画からはお地蔵さんは排除されていた。これは象徴的なことです。須磨ニュータウンも、30年前にはある種理想的な街として計画されたはずです。でもその理想はどこか間違っていた。」

     そのときわたしの中で燻っていたモヤモヤが一本に繋がった気がした。すなわち、私が大学生という多感な時期に起こった前代未聞の大事件。阪神大震災、オウム事件、神戸事件。これらの根底には何か今まで私たちの社会が築いてきたものからこぼれ出た「歪」があるようなことを感じた。
     その足で私は幾つかの震災跡地をもう一度回ってみようと思った。何かの実感を求めて。

     私は来年からテレビの現場で働くことになっている。まさに「伝える側」に立つわけだ。しかし、本当の「実感」など伝わりっこないとも私は思っている。どんなに伝えても、その時に神戸で被災した人でないと、その時にニュータウンで生活を営んでいた人でないと本当の実感など分からないだろう。
     が、しかし、であるからこそ「何とか実感は持てまいか、と行動を起こす契機になるような実感を伝えること」。それがメディアの大きな役割だと感じている。
     「伝えることの大切さ」……。いや、こう言い換えるべきかもしれない。「伝えようと試み続けていくことの大切さ」と。その試みの大切さを「実感」した時、誰も知らん顔は出来なくなるであろう。

    〈2000年12月13日 メールで〉
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    良心にかけて、事実と向き合いたい
    東京都 森山春香 (早稲田大学・教育学部4年・21歳)

    真っ青な空と、ぐにゃりと曲がったままの白い壁、
    断層の残る緑の芝生。
    1999年8月、淡路島の北淡町にある震災記念館を訪れたとき、
    私の眼に飛び込んできたのは、現在はどこまでも平和な、
    けれど一度見たら決して忘れられない風景でした。

    最初は、一週間の四国旅行に向かう途中、
    海峡を渡って、ふらりと寄ってみた、という程度でした。
    ところが、阪神大震災の震源地であるこの地には、
    今でも地震の凄まじさを物語る爪痕が、くっきりと残っているのです。
    A地点と、B地点が、地中からの恐ろしい力で捻じ曲げられ、
    活断層となって一方を押し上げている。
    私は本能的に震えました。とても「怖い」と思いました。
    こんな光景を今まで見たことはなかったからです。
    震災後、多くの地点で、そうした地盤の割れ目が見つかりましたが、
    そのちょうど狭間に位置していた家屋が、
    震災当時のまま、記念館のとなりに保存されていました。

    梁や柱、畳が、変形し、家具は倒れ、
    棚から落ちた食器類も落ちて、床に散乱したまま。
    私はその時はじめて、阪神大震災がどんなものだったか、
    そこでどれほど多くの人の命が失われたか、「感じる」ことができたのです。

    1995年1月17日の震災当日、高校生だった私は、
    名古屋に家族と住んでいました。
    早朝6時頃、震度3の揺れでパッと目が覚めました。
    「ついに東海大地震が来た!」、そう思った私は、
    思わず「お母さん!」と叫んでいました。
    ところが、7時頃になってテレビをつけたら、
    神戸の方で恐ろしいことになっている。
    高速道路の柱は延々と倒れたまま、炎上する家屋。
    「なんか信じられないけど、すごいことになった」。
    それが、淡路島を訪れるまで私が持っていた、
    どことなく「他人事」のような震災のイメージでした。

    自分は決して震災を直に味わったわけではない、
    親しい人たちを失ったわけでもない。
    しかし、記念館を見て、淡路島の断層の上に立ち、神戸の方を見ると、
    私が「お母さん!」と呼んだあの時すでに、
    多くの方が亡くなっていた事実で胸が痛くなりました。

    この本には原爆のことについても触れられていましたが、
    私は同じように、
    (修学旅行で)原爆ドームを訪れたときのことも思い出しました。
    壁に黒く焦げ付いた「人型」や、
    生々しく保存された人の爪や皮膚の展示物を前に、
    見入るのを拒みたい自分もいます。
    でも同時に、原爆の語り部を前に、
    平気であくびをして眠ってしまえる同級生に憤りも感じました。
    被爆して亡くなった、多くの韓国・朝鮮人の人々の慰霊碑がなぜ、
    日本人と同じ敷地内にないのか、
    といったことにも疑問を持ったりもしました。

    震災後、まだ倒壊したままの民家のとなりで、
    倒れなかった住宅の住民に
    「どんな構築方法で建てたのですか?」と嬉しそうに聞くレポーター、
    「震災とサリン事件は世紀末の予兆だった」と言う社会学者。
    しかし、そこに、どんな命があっただろう、
    どんな生活があり、どれほどの幸福がこれからあったはずだろう、
    と問うことはほとんどありません。
    だからこそ、この本の題に、
    「命の尊さ」とあること、住田さんが直に感じられた思いが、
    ひたむきなメッセージとして込められていることは、私の心に深く残りました。

    自分が実際に体験していない一つの出来事・事件に向き合う場合、
    せめて大事にしたいのは、それを「共感」しようと思う自らの心です。
    良心にかけて、
    事実と向き合って自分の力で考えることの大切さを忘れたくはありません。

    現場に遭遇した場合でも、自分は冷静な判断ができるかどうか。
    一つのことから、別の面を見ることも必要なのではないか。
    そして、この目で見、肌で感じたことを伝える責任感。
    そこに問われてくるのは、自分自身の人間性でもある、と思いました。
    来春から放送現場で働く者として、
    私はそのことを常に頭に置いておこうと思います。

    《追伸》
     私は大学生になって上京するまで18年間、名古屋で生まれ育ちましたが、
     こちらでは小学生になれば、伊勢湾台風について学びます。
     多くの資料やアニメフィルムもつくられていて、
     実際の体験談もたくさん聞きました。
     当時は、日本の誰もがこの惨事を知っているかのように思っていましたが、
     そうではないのですよね。

    〈2000年8月2日 メールで〉
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    岡山から神戸に来て
    小原悠子(神戸大学経済学部・一年・18歳)
     ・神戸大学ニュースネット委員会 記者

    私は岡山県出身で、
    初めて神戸に来たのは震災後1年くらいの時でした
    その時は普通の観光で来たのですが、
    電車の中から見えた、青いビニールシートのかかった町並みを
    今でもはっきり覚えています。

    しかし、実際に歩いてみると街はとてもきれいで、
    私の第一印象は「神戸の街はきれい」というものでした。
    その時、あの日テレビで見た、炎があがり煙りが立ち上っている
    上空からの映像がここの場所だったとは、思いもしませんでした。

    今、私は神戸に住んで3ヶ月が経とうとしています。
    しかしその間、自分が今住んでいるところ、
    そしてこの神戸大学でも多くの被害があったということを
    深く考えたことはありませんでした。

    ニュースネット委員会に入部して、
    ホームページを見ていても震災特集に特に目をとめる事もなく、
    リンクを開くことはしませんでした。
    しかし、ある日、神戸大でも
    39人もの学生が亡くなったということを知りました。
    まさかそんなに被害があったなんて……と驚いたと同時に
    ショックでした。そしてその時に
    ああ、この地で5年前に阪神大震災が起こったんだ、
    と実感したのです。

    5年前、多くの方が亡くなって、
    多くの方の心に傷を負わせた大震災のことを私も忘れないでいよう、
    と思っていた自分が
    いかにいい加減だったか痛感しました。
    恥ずかしいと思いました。
    私の中で大震災のことは、
    すでに一つの過去の出来事となっていました。

    本の中にもいくつか載っていた手記ですが、
    読むと、残された方々の思いが切々と伝わってきて
    とても苦しくなります。

    岡山にいる時は、
    テレビなどの報道で被災した方々が
    どんなに大変だったか知る事はできても、
    気持ちはそれ以上になりませんでした。

    だけど今、こうして私は神戸に住んでいます。
    神戸大にいます。
    だからといって、実際にここで被災された方々と
    同じ気持ちになれる事はないでしょう。
    しかし、何かできるのではないか、と思います。
    何かしなければいけないと思えるようになりました。

    神戸の人たちにとって今、
    阪神大震災とはどういうものとして心の中にあるのか。
    もう喋りたくもない、思い出したくもない事なのか。
    正直、私は分かりませんでした。
    しかし、口にだすことはないけれど、
    心の中には絶対忘れないものとして残っている、と思います。
    だから、私達が媒体となって、
    形として残していかなければならないと思いました。
    〈2000年6月30日 メールで〉
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    亡くなった39人の先輩とともに
    栃谷亜紀子(神戸大学経営学部・四年・21歳)
     ・神戸大学ニュースネット委員会 1999年度編集長

    大学にある慰霊碑の前を通りかかったり、
    また学生が亡くなった下宿跡を訪ねたりするたび
    時間は違うけど、碑に刻まれている39人と
    同じ場所を共有しているんだという
    不思議な気分になります。

    そうして、亡くなった先輩たちも、
    同じ景色やにおいの中で
    レポートに追われたり、クラブ活動をしたり、
    将来のことについて考えたり・・・。
    きっと私と同じような毎日を送っていたんだろうな、
    などと、いろいろ想像するのですが、
    私が今、ここで死ななければならないという状況は、
    どうしても考えられません。
    きっと先輩たちも、
    1995年1月17日で人生を終わらなければならなかったなんて
    思いもしなかったことでしょう。

    でも、39人もの学生がここで亡くなったという事実は
    多くの資料が示しているように本当の話で
    しかも、それはほんの5年前のことです。

    5年前、家の下敷きになった友人が火にまかれて亡くなるのを
    ただ見ていなければならなかった、
    そんな出来事が、JR六甲道の近くであったのです。
    震災特集の取材やブックレットなどで当時の状況を知り、
    友人やご遺族の思いに触れるにつれ
    39人もの学生が亡くなったという事実の重みは
    私の中で増していきます。

    先輩たちの無念さやご遺族の悲しみは、いかばかりだろう。
    同じような災害に見舞われたら、私だったらどうするだろう・・・。
    当時、広島の高校生で、
    神戸にいなかった私も、
    同じ場所を共有している者として
    阪神大震災は、もはや他人事ではないのです。

    震災の記憶をつなぎとめておきたいと思い
    神戸大の震災の記録を残してきました。
    「他人事ではない」震災の取材や、そこで感じたことから
    私が語り継げる、何かを見つけたことは
    とても意義深いことだと思っています。
    〈2000年6月5日 メールで〉
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