大人からのメッセージ《1》
【写真】丈夫そうなマンションも、ピロティ部分が崩壊した。(1996年1月 尼崎市武庫之荘で)
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「枕元にクツを」関東大震災を体験した養父の口癖
(東京都 38歳 女性)
娘と私、それぞれに生きのびよう(東京都 44歳 女性)
家族各々が生き抜こう(東京都 40歳 女性)
”命”が軽々しくあつかわれる時代に(東京都 45歳 女性)
目の前の景色も焼け野原になってしまうのか(東京都 37歳 女性)
人々の心の痛みははかりしれない(東京都 41歳 女性)
どんなことがあっても、生きていればまた会える(東京都 46歳 女性)
もう一度、家の中を見直そう(東京都 37歳 女性)
交流ウォーク 気持ち共有したい(静岡県浜松市 会社員)
時の悪戯で助かった命(茨城県 社会保険労務士)
かつての勤務地 惨状を前に言葉を失う(広島県福山市 会社員)
ショックを受けた 震災の怖さ、そして命の尊さ(東京都 会社員)
避けてきた神戸……今度、足を運ぼう(富山県 会社員)
五年目の神戸を訪れて(三重県松阪市 消防士)
「戦時中の体験で頑張れた」と友人は言った(兵庫県多可郡 主婦)
体中が震え寒くなりました(東京都 紬織作家)
講演を聴いて(東京都 会社秘書)
多くの人に話し合ってほしい(神奈川県 エッセイスト)
心の傷を負った子とこの一冊をめくってみたい(児童相談員)
小田原市の「グループ・スプラッシュ」講演会の会場から
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「枕元にクツを」関東大震災を体験した養父の口癖
東京都 匿名(38歳女性)
家には介護を必要とする81才の養父がおります。
幼い頃関東大震災を体験しており、
日頃から枕元には必ず逃げる為のクツを用意しておくようにと、
元気な頃には毎日の様に言っておりました。
高齢者のいる家庭にとって、
どんなに備えをしていても充分とは言えないと思います。
そんな私どもにとって神戸で被災した方々の体験談を伺う事が、
唯一の生きのびる手だてを教えてくださる方法ではないでしょうか。
娘は「小学生でもできる事がたくさんあります」という住田さんの言葉に
大混乱の中でも自分の力を必要としてくれる人がいるのだという事に
大変うれしく感じたようで、
最後まで望みを捨てず、生きのびるという事、
命の大切さについて改めて考えさせられました。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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娘と私、それぞれに生きのびよう
東京都 匿名(44歳女性)
当時、主人の母が神戸に住んで居りましたので、
我家にとってはたいへんな出来事でした。
電話は通じず、交通も遮断され、
生死の確認も出来ない状態だった中、
親族から携帯電話で無事の知らせをもらいました。
この時から、我家では地震の備えと共に、
一人一台の携帯電話を持つようになりました。
今まで、娘には
『どこにいても必ずさがしに行くから』と言っておりましたが、
『生きてさえいれば又、一緒になれるのだから、
自分の安全を第一にして数日間会えない位、なんでもない事よ』
と、生きる事の大切さを話してみました。
どの様にして命が失われていったのかを考えると
本当にむごい事と思いますが、
地震と火災は共に起こるものなので、
個人が出来る事を徹底していくと共に
行政にももっともっと深く取り組んで欲しいなと思いました。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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家族各々が生き抜こう
東京都 宮崎千恵子(40歳)
”想像力を持つ””数十センチのすき間があれば人は生きていることがある”
”火よりもまず身の安全の確保”
”家族を心配しておたおたするよりも
その場その場を自分で命を守らなくてはいけない、生きぬく力が大切”
などのお話が大変心に残りました。
普段、どんなに訓練をしていましても、
”橋がこわれ、病院もこわれる”という状況が
どうしても頭の中に入っていない気がいたします。
各々がとっさの判断と、生き抜く知恵を持って、自分を守ることが、
家族全員が生きのびられる結果につながるのだと改めて思いました。
10才の子どもに、
一人の時、まずどうするように気をつけさせるべきか深く考えております。
普段からとっさの決断でぱっと動けるように
習慣づけたいと思いますが、
実際はどうなるのでしょうか。
”靴”が意外にも大切だということにも大変驚きました。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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”命”が軽々しくあつかわれる時代に
東京都 寺岡恵子(45歳)
いじめを苦にした子供が、会社で失敗した大人がいとも簡単に自殺し、
親が子供をせっかん死させたり、大病院が医療ミスで大事な命を奪ったりと、
”命”が軽々しくあつかわれる時代に生きている娘や私にとって、
この講演会のお話はとてもショッキングでした。
目の前で友や肉親の命を助けられなかった無念さ、
また、91歳という高齢であっても
あきらめなければ、気持ちをしっかり持っていることで
生き抜けるのだということを、改めて考える機会となりました。
いつの時代でも自然が引き起こす災害はありました。
しかし、人間の知恵と勇気で被害を最小限度に抑えることは可能です。
私も日頃から家族の会話の中で話し合っていきたいと思います。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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目の前の景色も焼け野原になってしまうのか
東京都 小澤真紀(37歳)
娘とその友達の親子と一緒に駅、ホーム、電車の中と、
あたりを見まわしながら、いろいろと考えてみました。
頭上を見上げて危ないものがある下にはなるべく立っていない、とか、
横や後ろからも物は飛んできるだろう、とか…。
見せていただいたお写真の事を思い浮かべると、
今、目の前の景色も災害の時には
一瞬にして何もない
焼け野原のようになってしまうのでしょうか。
はっきり言って、とてもこわいです。
すべてその人の運なのでしょうか…。
家族の者が離ればなれの時間帯でないことを祈りたいです。
家庭でも、できる準備、参考にさせていただきます。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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人々の心の痛みははかりしれない
東京都 匿名(41歳女性)
心の中に最も残ったものは、
震災に遭われた方の心の痛みでした。
倒壊した高速道路やビル、避難所の学校に迫る火の手等の恐ろしい写真は
地震の恐怖を改めて思い出させてくれました。
そのような映像や統計には残すことの出来ない
人々の心の痛みは、
経験のない私達には想像も出来ない大きさであることが
痛いほど伝わってまいりました。
どうか、今後とも、多くの子供達に人間の死、悲しみ、命の尊さ、
地震の恐ろしさを伝えていって下さることをお願い申し上げたいと思います。
私個人にとりましても、家族の一人一人のその場その場の災害対策を
もう一度考え直す大変良い機会になりました。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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どんなことがあっても、生きていればまた会える
東京都 匿名(46歳女性)
戦争を知らない私共が、”死”というものを
漠然としてしか考えずに生きていられる幸せと、
”明日は我が身”かもしれないという、
これまた漠然とした恐れを感じながら
生きている不安の両面を強く感じます。
「備えあれば憂いなし」と言われはしますが
人間の生命には運もあり、
隣で寝ていても助かる命と助からない命があるというお話には、
人間、生きている上での
切なさのようなものを感じずにはいられません。
最悪の事態を考えて、時折、10才の娘に、
「たとえどんなことがあっても、生きていればまた会えるわよ」とか、
「もし、ひとりぼっちになっても強く生きていくのよ」と
言い聞かせるのですが、
心の底からそのようなことがないように祈るばかりです。
”その時”に一体自分に何ができるのか、
大地震だけでなく、人間生きているうちには、
おそらくいろいろなことに遭遇するわけで、
その時にいかに冷静に正しい判断ができるかどうか、
適切な行動に移れるかどうかは
人間であるがゆえの課題であると思います。
どんな時にも強い精神力と、優しい心を持てるよう、
自分に言い聞かせながら、
我が子達にも折にふれて教えていきたいものだと思いました。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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もう一度、家の中を見直そう
東京都 田草川順子(37歳)
どの様な災害においても、
自分で自分を守ると言う意識が必要であると
確信いたしました。
道を歩いている時も、
もし、あのパワーショベルカーが倒れてきたら…、
ホームで人におされて落ちそうになったら…、
と、考える事を私は習慣としていますが、
地震に関しては準備だけして、
あとは天にまかせましょうという気持ちでいました。
もう一度、家の中を見直し、
家族で話し合う機会を持とうと思いました。
何か起こった後は災害への意識が高まりますが、
月日と共に平和が当たり前になってしまいます。
常に意識を持ち続けるよう努力していきたいです。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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交流ウォーク 気持ち共有したい
静岡県浜松市 田辺真一郎
(会社員=本田技研工業浜松製作所勤務=34歳)
私は、静岡・浜松市在住の会社員です。
私は、神戸・須磨に親戚がいることから
以前より関西方面(特に神戸・兵庫県)が大好きで、
毎年夏に神戸方面のバイクツーリングをしています。
そして、阪神大震災については特に関心をもっております。
神戸へは、あれこれ理由をつけては
平均3ヶ月毎に神戸を訪れています。
その際は、震災関連の書籍を購入し今では80冊近くになりました。
私と神戸・震災は住田さんのように神戸に生まれ育ち、
激しい揺れも体験していない、まして全く被災体験もない第三者ですが、
神戸が本当に好きで気になってしようがないのです。
阪神大震災ノートは5月に神戸の書店にて購入しました。
私は、昨年の7月よりボランティアグループ“がんばろう神戸”の
震災モニュメントマップ作成委員会事務局が主催する
〈震災モニュメント交流ウォーク〉に参加させていただき、
被災地をたずねています。
震災で犠牲になったかたの慰霊の気持ちと
発災後、被災者の皆さんに
何のお手伝いもできなかったことへの
お詫びを含めて歩いています。
毎回集まる被災された方々とも
ずいぶん親しくなりましたが、
感じるのは
皆さんつとめて明るく笑顔でおられますが、
その裏には肉親を亡くされたりして
悲しみをこらえているんだなと思います。
私はあくまで第三者で、
どこまでいっても
ほんとうのつらさや大変さは解り得ないのかも知れないけれど
少しでも気持ちを共有したいのです。
歩きながらいろいろな話をして、
逆に皆さんに元気をもらっています。
住田さんの本の中に、
この〈震災モニュメント交流ウォーク〉で
親しくなった方をみつけました。
神戸大在学中になくなられた白木さんの御両親です。
私は、この阪神大震災をもっと深く知り、
しっかりと心に記憶し災害に備えるだけでなく
命、生きるということを学んでいきたいと考えます。
次回は7月にウォークがあり神戸に行きます。
〈2000年6月10日 メールで〉
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時の悪戯で助かった命
茨城県 匿名 (社会保険労務士・50歳代)
”語り継ぎたい命の尊さ”拝読いたしました。
地震に備えて全ての住宅を
耐震化構造の建築物にすることは不可能です。
やはり、日頃から地震の恐ろしさを自覚し
その後の震災に備える心構えを持つことが
誰にもできるベストな方法だと小生も考えます。
例えば、食料品、地震時に必要な
電動ノコギリ、ジャッキ、滑車などの工具類を常備し
その置き場所と操作方法をご近所の人達が熟知していること。
そのためにも日頃からご近所付き合いを大切にしておくこと。
そして、ご近所のそれぞれ家の間取りや、
それぞれの家の皆さんが常時寝ている部屋など
知ることが必要なことだと思います。
この場合ご近所の皆さん全てが
善人であることが大前提となること言うまでもありません。
小生の知人 辻さんの息子さんのこと。
時の悪戯により一命が助かった話。
彼は震災の1年前に神戸大学に入学しました。
神戸大1本で受験し、後期日程で工学部に合格、
そのためアパートの申し込みが遅れたため
安い家賃のアパートがなく、
結局、灘区の家賃の高いマンションに入ったそうです。
その翌年の1月に震災。
助かる。
ボランテア活動とショックで勉強に身が入らないまま1年。
一年留年して5年かけて卒業、
神戸が好きでその後も神戸に住み続けています。
現在は京都市の京セラに勤務しています。
当時ベットから天井に放り投げられたような状態になり
凄い恐怖感があったそうです。
〈2000年6月26日 メールで〉
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かつての勤務地 惨状を前に言葉を失う
広島県福山市 池口敏彦(会社員 34歳)
阪神・淡路大震災は、私にとって忘れられない災害です。
震災が起こるほんの1年ほど前、明石に住み、
神戸へ通勤する日々を送っていました。
よく慣れ親しんだ街を震災で失ったショックは
大きいものがありました。
ちょうど震災当日、
東京へ出張する予定で4時半に起きて支度をしていたのですが、
5時45分頃に激しい揺れを感じました。
その時は神戸地区が大惨事になっているとはつゆ知らず、
駅へと向かったのですが、新幹線が動いていません。
小一時間ほど待っても埒(らち)があかないので
会社へ戻ったのですが、
そこで耳にしたニュースが大震災のニュースでした。
その翌日(18日)から数日間の新聞は、
今でも手許に保存してあります。
私のいる広島県福山市は震度4でした。
当時は、仕事の都合上、
月に2回は東京へ出張する必要がありました。
震災直後は飛行機で上京していたのですが、
震災の現場をこの目で見てみたいと思い、
あえて鉄道で東京へ行ったことがあります。
あの時は、休みと休みの間に出張を入れて、
休日に移動するようにしたと思います。
貴重な体験でした。
姫路までは新幹線で行けますが、
そこからは在来線とバスで大阪へ向かいます。
明石を過ぎて、神戸市内へ入ると、
そこには見慣れた風景はもはやありませんでした。
焼け落ちた家々、崩れ落ちたビルの残骸。
惨状を目の当たりにして文字通り言葉を失いました。
淡路島の野島断層にも行ってみました。
現在は、震災当時の状況を保存する資料館となっており、
今回の地震の原因となったずれの大きさや、
過去の断層のずれなどを見ることができます。
また、不幸にも断層の上に建てられていた家が
当時の姿のまま保存されており、
家の中がどのような惨状になったのかを知ることができます。
あれから5年経ち、
神戸は復興したかのように見えます。
しかし須磨海岸には未だに仮設住宅が多数残っており、
また、観光客の行かないような場所は
まだまだ復旧が遅れているのが現状のようです。
〈2000年5月16日 メールで〉
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ショックを受けた 震災の怖さ、そして命の尊さ
東京都杉並区 相沢弘明 (会社員 不動産会社勤務・29歳)
先日本屋さんで偶然見つけて読んだこの本。
正直言うと軽い気持ちで買って、
そして軽い気持ちで読み始めること数分後。
わたしは頭を後ろから
お寺の鐘打ちの棒で叩かれたような気持ちになりました。
本当に涙が止まらなくなって
いたたまらなくなりました。
わたしは生まれも育ちもずっと東京ですが、
港街「神戸」が大好きで年に2回くらい遊びに行きます。
今年の2月に行った時は、
「震災」のことなどすっかり忘れて
六甲ドライブウエイだの舞子公園だのと
遊んできました。
神戸出身の友達も何人かいますが、
みんな東京で知り合った人たち。
彼らの実家は幸い大事に至らなかったらしく、
友人自身もこちらにいたので
震災に遭った人に
直接話を聞ける機会もありませんでした。
当時23歳だったわたしも、
「あのきれいな夜景をしばらく見られないのは
残念だけどしばらくして街が落ち着いたらまた行こう」
くらいの気持ちしかありませんでした。
そのときには震災で大変な思いをしている人が
こんなにいたのに……。
今思うと大変恥ずかしいという気持ちを通り越して
自分自身に怒りさえこみ上げてきます。
この本にめぐり合えて本当によかった。
「あの日」の様子がテレビで伝えられていたものとはまた違って、
街のその時の描写がとてもよく伝わってきます。
本にもあった「非日常への切替えスイッチ」は、
今後いつやってくるか分からないあらゆる非常事態のために
意識していきたいと思います。
そして今度神戸を訪れるときは
今までとはまったく違った見方で訪れることになると思います。
そのきっかけを与えてくれた
この『阪神大震災ノート』に感謝します。
〈2000年6月14日/メールで〉
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避けてきた神戸……今度、足を運ぼう
富山県 Tetsuroh(会社員・神戸学院大学卒・30歳)
ゴールデンウィーク中に近所の書店より入荷の電話があり
早速読ませていただきました。
読んでるうちにいろいろなことを思い出しました。
……地震前、11年前のことでしょうか?
地学の授業で活断層の講義のとき、
(当時通っていた神戸の大学の)教授が
「ここは活断層がいっぱい走っているからな。
いずれ大地震が起こるぞー神戸から逃げるなら今のうちだぞ」
…って笑って話してました。
そのときはまさか数年後本当に起こるなんて
教授も私達生徒も誰一人思ってもいなかったでしょう。
震災の日のことも思い出しました。
富山でさえ強い揺れで目が覚めました。
そのときは神戸の友人や教授が気がかりでしたが、
もう社会人になっていて、あの日は展示会の仕事がありました。
朝、富山の電車でさえダイヤがめちゃくちゃになって
私の通勤電車は今までに体験したことのないほど満員になってました。
そして展示会場は……ちょうどテレビのある会場で震災の現場が
映し出されてました。
私が神戸にいたことを知らない会社の人たちは
流れてくるTVを見つづけていましたが、
神戸元町のかつてのバイト先が
燃えているのを私は見るに絶えず、展示会場を
抜け出したのを思い出しました。
あとで部長から叱られたなぁ……
(70頁の)住田さんのお母様と同じなんでしょうか……。
あれからずっと震災のニュースの場面が見れなかったです。
ちょうど今、例の17歳の少年の連続した事件のニュースが
流れています。なんか複雑な気持ちでした。
やっぱり住田さんの(1頁)言う通り、身近な人が亡くならない核家族の
影響なんでしょうか……
私も核家族育ちですが12年前、母の妹(おばちゃん)がなくなり、
私は神戸から夜行で戻ったときも涙が出ました。
最近では1ヶ月前、大親友の母が亡くなりお通夜に出たときも、
先月うちのハムスター「だらすけ」(だらすけのページ↓)
http://homepage1.nifty.com/tetsuroh/hamster/darasuke.html
がなくなったときも恥ずかしながら
いい年をして泣いてしまいました。
核家族の影響以外にも原因があるような気がします。
私は会社では部下もいます。
最近の若い部下を見ていて、はっと気が付いたことがあるのです。
(もちろん全ての人ではないですが)
自分の失敗や能力不足を絶対に認めない、
失敗は他人のせいにする部下が非常に多いのです。
注意すると反省や落ち込むことは絶対に無くて
むしろ逆ギレして仕事も放棄したり…しょっちゅうです。
(こんな後輩は昔は一人もいなかったけどなァ…)
最近では私も叱るのが無駄だと思えてきました。
というのは最近気づいたのですが
どうやら親に叱られた経験が無いようなのです。
叱っても「自分のすることは(怒られたことがないから)すべて正しい」
と思い込んでいるようなのです。
これでは叱っても意味が無いです。
なぜ叱られてるかが分からないのですから。
バスジャック事件の場合、「優等生がイジメの影響によって…」など
一部では書かれていますが、どうでしょうか?
実は私も中学時代はひどいイジメにあって
腰の骨を圧迫骨折しているのです。
しかし両親は手助けはしてくれませんでした。
ハハハ…(^^;)
ちょっとうちの親は極端に冷たいかも知れませんが
「自分の問題ぐらい自分で解決しろ」と言いたかったのでしょう。
その後おかげでいい方向に向かっていったのも事実でしたけど。
私は少子化で悪いことをしても叱らず
子供を甘やかし過ぎて育てている親が
多くなってきたのではないかと思うのです……
住田さんはどう思われますか?
ちょっと話はそれますが、
十数年前に校則が行き過ぎているという
問題があった時期がありましたよね。
あれから校則が緩和?されたように思えるのですが
最近、駅前で白昼堂々と制服姿でタバコを吸う高校生を
よく見かけるようになって
「なんか俺達のときとちがうよなぁ…」
って思うんです。
私が学生の時は校則を破る生徒はたくさんいましたが、
未成年の喫煙も悪いことと知ってて、見つかったら叱られると
知ってたからこそみんな隠れて吸ってたんものなんですけどね……。
やっぱり親も先生も叱らなく&叱れなくなったからなんですかね?
今度機会があったら神戸に足を運んでみようかとおもいます。
考えると、ずっと、近くまで来てはやっぱり避けていましたし。
〈2000年5月14日/メールで〉
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五年目の神戸を訪れて
三重県松阪市 長島廣一郎(松阪消防署警防係勤務・53歳)
私は消防士。
いくつかの災害現場を経験しましたが、
消防人として、三重県の消防士が
大都市神戸で救助活動するなど信じられませんでした。
でも、派遣メンバーに入ったこと、
消防士として、かつて無い現場活動ができたことが、
今後の消防人としての誇りと活力になりました。
一消防士では何も出来ませんが、
諸々の機関が協力すれば何でも出来る。
私は色々な体験をされた方々のことを見聞きすることによって、
今後の防災対策に生かしていきたいと思っています。
今年の1月27日には神戸のポートアイランドでの
防災展に行ってきました。
最新の防災機器には目を見張るような物から
アイディア機器まで展示、実演され、 大変参考になりました。
その後、阪神大震災時に私が救助活動をした
東灘区の岡本町界隈を歩きました。
震災直後、野寄公園で野営をしました。
阪急とJR線に囲まれた地区の、住吉川から東側が、
三重県の活動区域でした。
鉄骨3階建てが倒壊し、救出活動した所は、駐車場になり、
文化住宅がメチャクチャに倒壊していた所は、
新しい住宅が立ち並び、生まれ変っていました。
また、中層階が押しつぶされた団地の建物は建て替わり、
当時を思い起こす物は何一つ無くなっていました。
お寺の燈篭の中段の石が新しく差し替わっているとか、
さら地の所が残っていて、また法面(のりめん)の石積に、
色の変わったセメントがひび割れ跡を補修した所など、
探さなくては震災の跡を見つけることが出来ません。
私は当時の現地を知っているからわかるので、
全く見もしない人には説明がつかないのです。
「防災を知りたい人は災害現場を見ないことには解らない」
亡くなられた方を救出した所で、手を合わせました。
しかし、救助活動を行った場所全域を廻る事はできませんでした。
なぜ、救助活動中は疲れも寒さも感じず行動できたのか
不思議でなりません。
これも職業意識でしょうかね。
防災には「NOT TOO LATE」 。
しかし、時が経つにつれて薄らぐ防災意識。
人間だから仕方ないにしても
「忘れたらあかんよ」を思い起こし、
今後とも防災意識を一人でも多くの住民に
伝えていきたいと思っています。
消防士として悔いのない人生、
毎日一生懸命生きる、命のピリオドが、
もし消防士として活動中であれば、
我が子と、愛する妻に、
勇敢な消防士だったとして伝えられるよう。
災害現場で、 一人でも多くの方を救えるよう、
救助隊員としてがんばります。
消防車や、救急車のサイレンの鳴る日が
なくなりますように……。
<2000年1月31日/ 手紙で>
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「戦時中の体験で頑張れた」と友人は言った
兵庫県多可郡中町 藤原 加壽子 (主婦)
『語り継ぎたい。命の尊さ〜阪神大震災ノート』
繰り返して読ませて頂きました。
「語り継がねばならぬ!!」
という止むに止まれぬ強いお気持ち、
アナウンサーとしてのお仕事の立場からの
活躍ぶりと、その時その時のお気持ちが
いたるところの行間ににじみ出ていて、
沢山のお写真とともに感動いたしました。
特に28ページの「助かった命 失われた命」の
(亡くなった神戸大生の)写真と記事などは
とても胸を打ちました。
高校の社会科の副読本と伺いましたが、
筆者の実体験談もあり、
たいへんわかり易い言葉で書かれていることも
かえって説得力があり、
活用されることを希望したいと思いました。
神戸市在住の友人が
「戦時中の空襲の体験があったからこそ
この度の大地震に負けずに頑張れたと思う」
と語ってくれたことも思い出しました。
「極限の音も叫びも哭く声も
届かざるなり報道映像は」
加壽子
<1999年10月10日/ はかぎで>
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体中が震え寒くなりました
東京都荒川区 中田養子(紬織作家・55歳)
「語り継ぎたい。命の尊さ」読ませて頂きました。
体中が震え寒くなりました。
私の母は50年余り前、室蘭(北海道)で艦砲射撃を経験しました。
赤ん坊の私を抱いて、この世の地獄を見たそうです。
その母にこの夏、
「郷土の資料館に納めるため当時の様子を伝える物が欲しい」
という連絡がありました。
(母は)70の手習いで絵を描き始めたので
是非絵で表現してほしい、との依頼だそうです。
しかし、母は怖くて描けないそうです。
累々と横たわる荒むしろをかけられた人々の姿がはっきり浮かぶそうです。
住田さんもこの本を書くのにどんなに辛かったかと想像します。
私たちはいつ、どんな目にあうかわかりません。
病気ひとつとっても他人事ではありません。
生きている限り大切に過ごしたいです。
若い人たちにも是非このことを知って生きて欲しいと思うのは
私も同じです。
ありがとうございました。
<1999年3月31日/手紙で>
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講演を聴いて
東京都千代田区 伊藤紀子(会社秘書・30歳)
四年前の震災のときのことをまざまざと思い出し、
見つめ直せる良い機会となりました。
直接の地震経験者ではありませんが
神戸に本社を置く「危機経験」社員として
「日常と非日常のスイッチの切り替えの難しさ」や、
「隣人に助けられ、助けることの大切さ」などは、
見にしみて理解できます。
危機管理という言葉はよく聞くこの頃ですが、
本当の意味での危機対応能力は自分に備わっているか、
住田さんにお会いできたことをきっかけに
あらためて考え直してみようと思います。
〈1999年3月24日/手紙で〉
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多くの人に話し合ってほしい
神奈川県藤沢市 上條麿美(エッセイスト)
横書きでやさしくわかりやすく書かれ、読みづらい漢字にはルビもふられて、これなら若い人が(活字離れの人も)読みやすいのでは、と思いました。住田さんが地元で地震の時に体験したことが、やはりこういう本を書かせるエネルギー源になっているのでしょうね。説得力があります。この本を出すことで、この大きな震災を語り継いでいきたいということと、この本を参考にして、広く多くの人に話し合ってほしい、次に災害がきたときに多くの被害がでないよう方策をたててほしいという思いが少しでも具体化されるといいですね。
私は行政に対する強いいきどおりを感じているのですが、あまりに、ボランティアに頼りすぎてはいなかったか、と。被害に遭った人たちの本音をもっとききたいなと思います。「どうやって立ち直っていったか」その中から、行政が何をやったかや、ボランティアの課題が浮かび上がってくると思うのですが、どうなのでしょね。<1999年3月10日/手紙>
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心の傷を負った子とこの一冊をめくってみたい
匿名希望 (児童相談員)
私が担当している子は神戸で震災に遭い、こちらに引っ越してきました。友達を失った恐怖から、神戸という言葉のつくことに過剰に反応していましたが、最近、ポツポツ話始めました。この一冊を彼女とめくってみようと思います。<1999年2月10日/手紙>
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「すぐ隣の命の大切さ」見直したい
小田原市の「グループ・スプラッシュ」講演会の会場で
・小学校時代、西宮に住んでいました。当時の恩師が、今回の震災に見舞われ、お孫さんを亡くされました。現在、恩師は70代後半です。「なぜ、老い先短い私が助かり、これかという若さの孫が死ななければならないのか」この言葉が忘れられません。
・たった今、地震がおきた時、家に帰る前にまず周辺の人の安否と言われたことが印象的でした。「自分の家族まっ先、自分の子さえ」と思いがちですが、目の前の人を助けないといけないことがわかりました。自分の子どももそうした周囲の人々に助けられることと思いました。
・「すぐ隣の命の大切さ」をもう一度見直します。
・命が今ここで危機に直面しているかも、という想像力が大切と思います。
・(神戸大学の亡くなった学生と)同じ年頃の息子を持つ親としてお子様を亡くされたご両親のお気持を考えると心が痛みます。
・子どもが生まれた時、命の尊さを知りました。慈しみ育てられたお子様を亡くされた親御さんがどのように辛い思いをされているか、想像を絶するものだと思います。
・震災で大切な人々亡くした方たちの悲しみが伝わってきました。災害時には、まず周りにいる人々に気を配らなければいけないという言葉が印象的でした。
・「今、自分に何ができるかを考える」この言葉を常に心に留めておきます。
・自分には何ができるか(人間の力のなさを知った思いですが)問直す機会をもらったように思います。お話に涙した後、自分ができる小さなことを教えてもらいました。
・報道を通してしかわからなかった現実でしたが、1月17日午前7時40分、その日初めてTVから映された映像を見て、ショックを受けたこと、子どもたちに本日の講演でお聞きした内容と共に伝えてゆきたいと思います。
・マスコミの取材ヘリコプターの音で救助を求める声も聞こえなかったという話が後からありました。取材のやり方を相互に事前に話し合えないものでしょうか。
・生命を守るとか、防災についてという分野でのプロの方は多くいらっしゃいますが、心の痛みも含めて神戸を語れる方は少ないと思います。いつまでも伝えて頂きたいものです。
・人はどのような事件も、災害も、自分に関わりないことは特に時間の流れとともに忘れてしまいます。ならば、せめて覚えておこうと思う、それが人のつとめではないでしょうか。多くの情報を多くの方へ伝え、人の記憶を呼び起こすことができます。
<1999年1月30日/講演会アンケートより>
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