大人からのメッセージ《2》

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【写真】多くの被災者が底冷えのする体育館の避難所へ。(1995年1月 神戸市灘区の神戸大学国際文化部で 撮影=神戸大ニュースネット)



  • 東日本大震災 自分には何ができるのか(長野県 自営業 男性)
  • 医療者と一般市民、認識の差どう埋めるか(北海道 看護師 女性)
  • 「死」…目をそらさずに向き合いたい(兵庫県 看護師 女性)

  • あの朝の、震源地の当直医として(兵庫県 44歳 医師 男性)
  • 中越地震、何を伝えることができるのか?(新潟県 35歳 著述業 女性)
  • 自責の念 福祉関係の仕事へ(大阪市 26歳 ホームヘルパー 女性)
  • 震災と原爆…イギリスの人々と心通わせて(長崎県 女性)
  • 忘れぬ「1・17神戸」(香川県 20代 家事手伝い 男性)

  • 震災と同時多発テロを間近に経験して(兵庫県 39歳 医師 男性)
  • 戦災、天災……時代を超えて語り継ぐこと(神奈川県 男性)
  • 消火したはずの所から,また火の手が(和歌山県 53歳 消防署勤務 男性)
  • なぜか,とても悲しみが伝わってくるのです(千葉県 51歳 女性)
  • 薄れる危機感を鼓舞しよう(東京都 65歳 団体役員 男性)

  • 子供を守り、被災生活… できるだろうか(静岡県 女性)
  • 帰宅途中に孤立した鹿児島水害(鹿児島市 31歳 事務員 女性)
  • 結婚式にいらして下さった方が亡くなられて(東京都 39歳 女性)
  • 戦時中そうしていたように(東京都 64歳 女性)
  • 震源地のふるさとを思う(東京都 48歳 女性)

    大人からのメッセージ《1》
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    東日本大震災 自分には何ができるのか
    長野県 46歳男性(自営業)

    日頃、世の中がおかしくなってきているのではと
    感じていたところ、
    今回の東日本大震災の義援金を見ても
    日本、世界もまだ捨てたものでは無いなと感じました。

    ちなみに、高校生の息子のグループも
    震災直後から駅前で20日弱募金活動をしたそうで、
    230万ちょっと集まったことや、
    中には「寒いだろう」と、缶コーヒーをくれる方や、
    マックのハンバーガーを奢ってくださったと聞き、
    人間も捨てたものでは無いと感じる一方、
    自分が何をやっているんだという気持ちも強くなりました。

    本を読ませて頂き、まずは、
    妻や子供、回りの人達にこの本を読んでもらおうと思っています。
    その人それぞれに、色々な感情があるので、
    強要するつもりはありませんが。
    そして、もう少し詳しく調べてみなければと思いました。
    すみません、多分、小中学生にも
    解りやすく書かれておられるためだと思います。

    それから、本書の中で、
    「被災地にゆかりのない人にとって、理解はできるけれど、
      同じ気持ちにはなれないものがあることでしょう。
      でも、それでいいのです」
    と書いてあり、
    少しホッとした気持ちにもなれました。
    自分があまりにも酷い人間のような気がし、
    少し、少しですがイライラしたものを自分に感じていたので…。

    <2011年4月7日/メールで>

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    医療者と一般市民、認識の差どう埋めるか
    北海道札幌市 高瀬理絵(看護師)

    私は札幌に住む看護師8年目、
    災害医療に関して勉強中です。

    被災者の体験記を読むのは初めてでしたので
    とても衝撃を受けました。
    被災者の気持ちや状況を
    もっともっと知らなくてはいけないな、と思います。
    今後の災害活動の参考とさせていただきます。
    ありがとうございました。

    “医療者として”の立場と
    “被災者(一般市民)として”の立場では、
    災害時の対応が異なると知りました。
    「まっ先にお年寄りから助け出しました」
    という文章に対して、
    トリアージの観点とは異なり、違和感を感じていました。

    「二階が一階を押しつぶすかっこうで、座屈していました…」
    の場面で筆者は、自身の行動を悔いているように感じました。
    しかし、私も同じことをすると思います。
    生存者をがいる希望が持てない
    「ダメ」な状況から救出するよりも、
    生存者がいるだろう希望がもてる状況から
    先に救出すると思うからです。

    でも自分が一般市民だとしたら…
    まずは身近な人を。
    弱い人から、そして死亡している家族をも
    必死で探し出すだろうな、と思います。
    生きていて欲しいとか情によって主観が先立ち、
    客観視できなくなるだろうと思うからです。

       ○     ○

    「死の現場を忘れてはいけない」という文章が
    どうしても理解できなかったのですが、
    繰り返し読み考えるうちに
    この言葉の意味と深さがわかりました。

    災害において、何が正しくて何が間違っているとは
    決して誰もいえないし、言ってはだめだと思います。
    そのとき選択したベストを尽くすのみで、
    後からその行動判断を振り返り
    教訓にすることが重要なんだと思うからです。

    体験したことのない、
    予想を超える出来事が生じると対応が出来ません。
    過去の実例、実体験を検証し学び、
    自分の今日を広げることで想像力も広がり
    それが備えとなることがわかりました。
    今後、自分にとって必要なことだと思います。

       ○     ○

    「声をかけ合うことが必要」、「震災関連死」、
    「孤独死」、「災害弱者」という点において、
    看護師としても関わりが重要であり、
    助かった被災者の求めていることのひとつとも思っています。
    同時にこれは災害時に限ったことではなく、
    普段の看護の延長だと改めて思います。

       ○     ○

    「大規模災害のさなかで人の命を守るためには、
    人と人のつながりと一人一人の力、
    そしてそれがうまく結びつくための情報が必要」
    というのは、統一して重要なことだと私も思います。
    日頃から過去の災害の状況や対応を知り
    理解することが重要で、
    災害時の医療者と一般市民についての
    役割の違いを理解し合い、
    認識の差を埋めることで
    混乱や互いの葛藤が少しでも防げるといいと思います。

    <2009年5月31日/メールで>

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    「死」…目をそらさずに向き合いたい
    兵庫県 姫路市 守屋史江 (看護師)

    当時の記憶が戻ってきて、
    胸がしめつけられる思いで読みました。

    以前、神戸の防災未来センターに行ったときは、
    あまりにも悲しくて目を背けていましたが、
    この本にある
    「亡くなった人たちを記憶にとどめる」ことの大切さを学び、
    今度はゆっくり、目をそらさずに
    向き合いたいと思います。

    どんなことにも、どんなときにも
    危機管理の意識を持ち、
    想像力を働かせ、
    「私にできること」を常に考えられる
    看護師、人間でいたいです。

    「焼け落ちた西尾荘」のところを
    子ども(7歳の双子)にわかりやすく話をすると、
    “熱かったやろな”、
    “死んでしまったらもうお母さんにあえへんのやろ”、
    “かわいそう、こわい”などと、
    子どもなりに「死」というものを考えていました。

    この本を読み聞かせたことをきっかけに、
    人の命の尊さを、
    教えていきたいと思います。

    <2008年12月/手紙で>

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    あの朝の、震源地の当直医として
    兵庫県姫路市 水谷和郎(44歳 医師)

    ブックレット、読ませていただきました。
    姫路市の病院に勤務する循環器内科医です。

    何からどうお話してよいのかわからないのですが、
    とりあえず、まずはメールをと思い、書かせていただきました。

    私は生まれも育ちも神戸で、住田さんと同じです。
    須磨の板宿で、大学を終えてから、神戸大学の医局に入り、
    平成4年から医師として働いていました。
    そして、あの日を迎えることになります。

    兵庫県立淡路病院の救急外来で、
    震災当日を記録したビデオを、ご存じでしょうか。
    テレビのニュースの特集企画で取り上げられたこともあります。
    ビデオそのものは、淡路病院外科が撮られたものです。

    実は、私はそのビデオに写っている
    あの日の3人の当直医の一人、
    兵庫県立淡路病院の内科当直医でした。
    あの日の、震源地に近い総合病院の救急医療の現場を、
    最初から最後まで知っている数少ない者です。

    私自身は、住田さんとはちょっと違って、
    震災後3年目までは、
    震災当時のことを他の人としゃべったりしていたのですが、
    4年を過ぎたころから、
    震災のことを話したり、見たりすると
    涙がボロボロ出てきて、
    全く震災にふれることができなくなってしまいました。

    あのビデオはいただいていたのですが、
    見ることはありませんでした。

    震災10年を迎えた平成17年。
    震災を前に、今勤務している姫路の病院のスタッフと
    震災の話をしたのですが、
    神戸と姫路というほんのちょっとの距離、
    なおかつ大阪と違って同じ県内であるにもかかわらず、
    あまりの温度差に唖然としてしまいました。

    そこで、当院が災害拠点病院でもあるため、
    これではいけないと思い、
    自主的に淡路病院ビデオを使って、院内研修会を始めました。

    まずはあのビデオを見てもらうことが先決と思い、上映会を開きました。
    説明をするに当たっては、泣くまいと思って始めましたが、
    途中から涙で、話が続けることができなくなるほどでした。
    これは、後に筑波大学の臨床心理の先生からは、
    惨事ストレスによるものであると言われました。

    その後も院内では毎年、講義を続けています。
    昨年、日本集団災害医学会でビデオを用いた講義の発表をしたところ、
    長崎の大学と松山の病院から講演に来て欲しいとの依頼があり、
    講演に行かせていただきました。

    この度、姫路の飾西高校で来週災害に関する講義をすることになり、
    書店で資料を探していたところ、この本と巡り会えたわけです。

    三宮からの帰りの電車で本を読みながら
    ボロボロ泣いてしまいました。
    ご存じのように、母校太田中学校の校区内は
    長田からの火災の延焼で8割〜9割焼失。
    報道等で知られた鷹取商店街も校区内です。

    うちの町は幸いというか奇跡的に焼け残りました。
    今は、周りは新しい町しかありません。
    子供の頃に過ごした町並みはありません。
    一被災者として、あの日のことをすべて知っている当直医として
    自分しかできないこと、当日の医療を語れる材料を持っていること。
    これはやはり、自分が後世に伝えていかないといけないと思っています。

    この本にあったように、
    自分自身も淡路病院のビデオを見る度に、
    ビデオに映っている自分の発言や行動が、
    あの時こうすればよかったのにという
    後悔にさいなまれることもあります。
    ビデオというのはある意味残酷ですよね。
    いつ見ても、その時の現場にフラッシュバックしてしまいます。

    でも、本当に起きてしまってからでは遅いんです。
    起きたからこそ、
    少しでも被害を少なくするために
    我々が伝えていかないと、と思っています。

    <2008年11月16日/メールで>

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    中越地震、何を伝えることができるのか?
    新潟県 匿名 女性(35歳・著述業)

    はじめまして。
    私は日本海に面した町で
    著述業をしています。

    ある自治体で
    新潟県中越地震※(地元では中越大震災といいます)の
    震災の記録集をまとめる
    スタッフをしております。
    (※編集注=2004年10月23日(土)午後5時56分ごろ発生)

    「3年を迎える今だからこそ伝えられることもある。
    市民一人ひとりの震災の体験を記録に残して伝えよう」
    というコンセプトではじまった編集会議。
    被災した方々にあの日の経験を聞くたびに、
    震災を直接体験していない私と
    その場の空気とのギャップを感じて
    「わたしが伝えていいのだろうか?」
    「体験してない私が、何を伝えることができるのだろうか?」と
    悩むようになりました。

    私は中越大震災では
    ほとんど被害のなかった町に住んでいたため、
    震源地にほど近い町に住む人々が体験したことを、
    そして、心と体の感覚を、
    共有できなかったのです。

    仕事を引き受けた時点であらかじめ予測していたことですが、
    人に会えば会うほど「私でいいのだろうか」という
    思いばかりがふくらんできました。

    そんなときに、
    編集の資料として取り寄せていた
    「阪神大震災ノート」を読み始めました。

    その中で、
    広島の原爆のリポートをすることになった住田さんが
    「体験していない自分に何が伝えられるのだろうか?」と
    悩んでいたところに目がとまりました。

    そのくだりを読んで、
    「私も一人ひとりの体験を、想いを、
     そのまま伝えればいいのだ。
     私のできることは、その体験を聞き、
     感じとり、それを記録集に
     まとめることで、この経験を未来につなげていくことなのだ」
    と感じました。

    構成の参考に読ませていただいていたのですが、
    住田さんの「伝える人」として悩んだ経験が、
    構成よりも、もっともっと深いところ、そして、
    記録集のスタンスを決める上で一番大切なところを
    照らしてくれました。

    なんだか勇気が出てきました。
    一人でも多くの人に会おうと思います。
    どうもありがとうございました。

    <2007年6月18日/メールで>

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    自責の念 福祉関係の仕事へ
    大阪市 矢田真琴(26歳・ホームヘルパー) 

    当時の新聞とラジオ(AM、FM)とテレビニュースとか見て
    次々亡くなられた方が
    増えていくのを聞いていて…絶望感がありました。

    とても良く知ってる
    重大な被害を受けた広域地域を画面で見てまして
    消失感、何とも言えないと思いました。

    各テレビ局のヘリコプターが飛び過ぎだと
    今でも思ってます!!

    住田アナが「職業的な精神的外傷」を受けたと
    一月のアノ時期になると…と文章で書いてあったのが
    印象に残ってます…私も余り一月が好きじゃないし。
    高校生やったから、たいして何も出来なかったから…。

    何か自責の念がありました…今でも…あります…。
    淡路島に知り合いいてますから。
    何か悔しいです!
    だから今、まわり道はしましたけど
    福祉関係の仕事をしてるのだと思います。

    今も阪神淡路大震災の本を読んでますが、
    まだ唯一読めないのは
    震災関係を扱った推理物です。
    o(^-^)o失礼致しましたm(__)m

     本は大阪市立図書館で借りて読みました。

    <2004年2月14日/携帯メールで>

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    震災と原爆…イギリスの人々と心通わせて
    長崎県 櫛部らん(現在無職)

    淡々と事実が述べられ、
    何よりアナウンサーとして遭遇された体験、
    ご自分の第一報が軽かったのではと
    最後に自問されているところが真摯で、
    心動かされました。

    私は2002年10月から1年間
    イギリスの南西部の中学で
    日本文化紹介の
    ボランティア活動をしてきました。

    そのなかで神戸の地震について
    2校の中学で延べ8回
    生徒、先生達に話す機会がありました。

    私は故郷である長崎に
    震災の2年前に帰っており、
    直接の体験はないのですが、
    友人が送ってくれた神戸の
    現在と震災直後の様子を比較している
    写真集から資料をつくり、
    日本から持参したビデオも見せて、
    地震を知らない国の中学生たちも
    どうにか話を聞いてくれたのが、
    今はいい思い出になっています。

    高速道路から落下寸前のバスを見せるだけで
    授業になると思いました。
    ビデオの冒頭、コンビニの防犯カメラが
    地震発生時の様子をとらえた場面で
    笑い声がおこりました。
    客がカウンターの下に隠れるシーンでした。

    VTRが進むにつれクラスの30人の生徒のうち
    見ているのは4〜5人という状態、
    私は15分で教壇から逃げ出しました。
    任された授業に失敗したことよりも、
    なぜ、こういう悲惨な地震の現実を
    笑われなければならないのか、その事に
    傷つき、信じられない気持ちで一杯でした。

    担当の先生は神戸自体の紹介をしたらどうか、
    と助言してくれました。
    考えてみれば、既に8年。
    日本の子供にでも、
    神戸の震災の話をして関心をもって聞いてもらえるか、
    難しいのではないかと悟りました。
    次のクラスではKobeにまず興味をもってもらおう。

    イギリスの片田舎の中学生と神戸との接点。
    「ベッカム イン コーベ」の写真があればと、
    インターネットで探しました。
    2002年6月、ワールドカップで
    彼は神戸スタジアムに来ていました。
    ウイングスタジアムが神戸市民の復興への祈りを込めて
    フェニックスの翼をイメージして造られたこと、
    再びマグニチュード7.2の地震が発生しても耐えられ、
    また災害時の避難場所にも使われることを私自身はじめて知り、
    写真と共に導入に使い、
    このスタンドの収容人員の7倍、8倍もの人が
    家を失ったのだと話しました。
    するとその後に見せた例のコンビニシーンでは、
    だれも笑わなかったのです。
    全員が授業に最後まで参加してくれました。


    実は住田さんの本は
    向こうでは読む余裕がなかったのです。
    日本に帰ってきてから読んで、
    メイルをしたくなったのは
    広島の原爆のことも語られている、
    そこに不思議な共通点を見たからです。

    同じ中学で
    若い美人の歴史の先生から頼まれて
    長崎の原爆の話をしたとき、
    生徒たちが
    熱心に聴いてくれた、
    そのことを思い出したのです。

    私の両親は被爆こそしていませんが目撃し、
    親類には被爆手帳を持つ者もいます。

    その先生は
    日本人が、原爆を落としたアメリカをどう思っているのか、
    特に被爆者の気持ちを知りたかったのですが、
    私は長崎新聞の「私の被爆ノート」を
    300人分読んだものの、
    答えられなかった。
    当時の被害の大きさと放射能の影響くらいしか話せなかった。

    自分が長崎生まれで今そこに住んでいながら何も知らない、
    何も考えてこなかったことを痛感するだけでした。

    しかし、震災と原爆という2つの重い、
    重すぎる出来事を通して
    外国の人々と心を通わせることができたのは
    他に代えがたい経験でした。

    <2003年12月1日/メールで>

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    忘れぬ「1・17神戸」
    香川県 神山和重(20代・家事手伝い)

    もう8年過ぎたんですよね。
    忘れもしません。平成7年1月17日午前5時47分。
    私は当時高校2年を終えようとしていました。

    あの瞬間、ベッドで寝ていた私は縦揺れに驚き目が覚めました。
    今でも違和感があるのですが、あの揺れで右肩を痛めました。

    実家は新聞販売店なんですが、
    朝刊の配達に行っていた父母も家にいたのですが、
    当然のことながら皆パニックになり、
    震源が近いと感じながら「おはよう日本」をつけました。

    するとしばらくして、
    宮田修アナウンサーが青ざめた表情で
    地震の一報を告げました。
    神戸には親戚もいますので、
    父が電話をするのですが、なかなかつながらず、
    つながったのは夕方だったと思います。

    幸い親戚は皆無事でしたが、
    すごい勢いで増える死傷者、
    大型バスの前半分が落ちかかった阪神高速、
    異常な曲がり方をした線路……我が目を疑いました。

    震災から数日してから、親戚の見舞で神戸を訪ねました。
    東灘区だったのですが、
    現地に着いた瞬間、体じゅう震えました。

    テレビで観る終戦直後のような焼け野原……絶句でした。

    本を拝読すると、あの記憶が甦り、辛いです。
    しかし6400余人もの方が、
    何が起きたのかわからないまま亡くなられたと思うと
    涙があふれてきます。

    幼く短い生涯を閉じざるをえない人も
    たくさんいたはずです。

    「1・17」は「8・15」と同じく後世に語り継ぎ、
    あのような大惨事を
    二度と起こさぬようにすべきだと考えています。

    何故か涙が止まらないまま書いたので、
    誤字があると思いますが、ご容赦ください。

    <2003年5月13日/メールで>

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    震災と同時多発テロを間近に経験して
    兵庫県 匿名 (39歳 医師 男性)

    私は医師であるため、それも胸部外科医という専門性のため、
    常に人の生死に関わっていますが、
    この本から教えられることが多々ありました。

    1995年1月17日の阪神大震災を
    神戸大学医学部附属病院の勤務医師として、
    2001年9月11日の米国同時多発テロを
    ニュ−ヨーク・コロンビア大学メディカルセンターの
    フェローとして経験しました。

    阪神大震災の際は、昼間は震災のど真ん中に位置する大学病院で、
    夜間は自宅のある東灘区岡本の本山第2小学校に
    医師である家内とともに駆け回りました。

    死体確認だけでも10人は有に超えました。
    想像を絶する状況は察して頂けると思います。
    岡本の自宅マンションは問題ありませんでしたが、
    隣のマンションが崩れ亡くなられた人がいました。


    2001年9月11日火曜日は、
    いつものように家族4人で車で定刻に家を出て、
    下の娘(2才半)を幼稚園へ、
    さらに上の娘(5才半)をキンダーガーデンへ連れていったあと、
    メモリアル・スローンケッタリング癌センターに勤務する家内と
    マンハッタンへ向かいました。

    マンハッタンとはハドソン・リバーを挟んで
    対岸のフォートリーという街に住んでいたので
    マンハッタンへは世界最大の交通量・渋滞の
    ジョージ・ワシントン橋(往復14車線)を渡ることになる。

    いつもその橋からマンハッタンが美しく見ることができる。
    が、 その日は違っていました。
    ツインタワーのワールドトレードセンターの一つから
    黒い煙があがっていたのです。
    さらに我々の車が橋のほぼ中央に差し掛かったとき、
    もう一つのタワーから大きな炎があがりました。
    後にわかったことですが、まさにセカンドアタックの瞬間でした。

    (メディカルセンターに着くと)
    徐々にラボの廊下が慌ただしくなり、
    渡り廊下に行きダウンタウン方向を見たとき
    そこには信じられない光景がありました。
    ワールドトレードセンターが崩れ落ちる……。

    その2週間後、ニューヨークタイムズに、
    不思議な広告が載りました。
    ”Imagine all the people living life in peace. ”
    ジョン・レノンの名曲、イマジンの歌詞の一部です。
    テロリストに対する報復ということが
    アメリカ国家においてすべてに優先する問題とされている時に、
    それに水を差すような歌が静かに響いてきました。

    社会にバランスを見出すことができるという意味で、
    この曲が流れるアメリカ社会に対し
    私はある種の安心感を持ちました。

    大抵の人が宗教など本気で信じていない
    温和な日本に長く暮らしていると、
    「Imagine」と言われても。
    ジョンのこのフレーズは、
    戦後の日本人にはあまりにも違和感がなさ過ぎた。
    われわれが住んでいるのはどこか空想的な社会で、
    戦争・紛争は既に遠くの出来事でしかなかった。
    平和ボケっていうやつ? 
    世界は常に、宗教とイデオロギーの対立の中で
    殺し合いを続けていたのです。

    クールだったニューヨーカーが、テロ後、
    幾分優しくなったような気がして、
    ますますニューヨークが好きになりました。


    歴史の教科書に載るだろう出来事を日米両国で間近に経験し、
    考える事はどうしても日本とアメリカの比較になります。

    一言で言って、人々特に若者が日頃から考えている事、
    話題になる事が全く違います。
    アメリカの若者は国際情勢をはじめ政治・経済など
    メディアを通して良く勉強し他人と議論し、
    自分の確固たる主義・主張を持っています。
    ある日、コロンビア大学での同僚の息子(小学5年生)が
    病院にやってきて、
    雑談中にブッシュ大統領の方針を自分なりの考えで
    痛烈に批判した事には驚きました。

    最近、日本の若い人は新聞を読まないとよく聞きます。
    究極の社会的ボケにならないか心配です。

    <2002年10月24日/メールで>

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    戦災、天災……時代を超えて語り継ぐこと
    茅ヶ崎市 森本晴夫

    早速読ませて頂きました。
    人の心に訴える真実の強さ、真実を伝える言葉の重さを受け止めながら
    現在生きていると言うことの意味を改めて考えさせられた次第です。

    戦争当時、中学校の勤労動員があり
    大阪鉄道局の梅田用品庫で貨車の積みおろしや
    倉庫資材の出し入れ等に従事していましたが、
    空襲を受け身の周りにいくつかの焼夷弾が落ち
    火を吹き始めた時には足がすくみ動けなくなりました。
    その時一人の兵隊さんが
    「早くこちらに来い!」
    と、火の向こうで叫んでくれたおかげで
    無我夢中で逃げることができた経験があります。

    非常の事態の時に、声をかけることの大切さ、
    声をかけられ勇気づけられる有り難さを思い起こしています。
    生死の境は紙一重ですが、生き延びることができた時に
    どの様に考えるかは、
    人それぞれとしても大事なことであると
    心にとどめております。

    阪神大震災の後、茅ヶ崎市でも市主催の社会教育実践セミナー
    「その時のために」をテーマに7回の連続講座が持たれましたが、
    終了と同時にそれでおしまいでは意味が無いので
    有志で「防災について学ぶ会」をつくり
    小規模ながら学習を続けております。

    自然災害に関する新しい科学的知見も増えつつある現在、
    それらを可能な限り正しく理解することに努めて
    防災に活かすことは極めて大切なことですし、
    また先人の書き遺された貴重な経験や知恵を
    読み知ることも重要です。

    何時、何処で、どの程度の地震が起き
    どのような災害状況であったかの
    科学としての記録が整備されてきている一方で
    古典文学の中にも
    防災に対する大変有用な智恵が記述されています。

    必ず起きる自然災害を自然災害だけに留め
    人災を引き起こさないように努力する人間の生き様は
    昔も今も変わらないからだと考えています。

    ただ、鴨長明が方丈記で嘆いている様に
    地震被害等に関する記憶や伝承が
    年月の経過と共に風化しがちなことは残念です。

    その意味からも「命の尊さ」を語り継ぐ必要がありますし、
    語り継がねばならないと思います。
    そのことが将来の減災に繋ぎうる道と信じている次第です。
    <2002年/メールで>

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    消火したはずの所から、 また火の手が
    和歌山県橋本市 山本正昭(53歳 消防署勤務)

    私どもの小さな消防署
    (当時:職員数52名:内5名が県消防学校における研修期間中)
    におきましても大変厳しい勤務体制でありましたが、
    被災地のことを思い、職員一丸となって少ないながらにも、
    延べ六日間(17日〜22日)、交替しながら
    延べ27名の応援隊を送らせてもらいました。

    ちなみに私も、二日目(18日)でありますが
    第二次応援隊として出動し、
    長田消防署管内の消火活動(主に残火整理でありましたが)に
    従事した一員であります。

    実は、近所の中学校教頭から話しがあり、
    …九月の初めに地元の市立中学校の生徒対象に
    「命の大切さ!」と題して話しをせよ!…
    との依頼があった訳です。
    取り敢えず、引き受け、今までの体験談を、
    中でも特に印象に残っている幾つかの現場活動を
    取り上げて話すつもりでありました。

    そのような時、たまたまインターネットで
    「命の大切さ!」や「尊さ!」を検索しておりますと…
    目に飛び込んできたのが、この「語り継ぎたい。命の尊さ」でありました。

    早速、あらすじに目を通しながら……、次々と読むほどに
    その当時の薄れかけていた事や感情等が蘇えってきたものであります。

    <一読して>
    先にも述べたように薄れかけていた当時の状況!が思い出されました。

    その当時の消火活動(残火処理程度でありましたが…)ですが、
    辺り一面の焼け野原、
    一旦消火したはずの所々から、
    次々と…又燃え上がってくる火の手!

    それを夜通しがかりで行なった消火活動。
    ちょっと一息つき、辺りを見渡すと只そこには我々だけがポツンといてるだけ。
    まるで映画のワンシーンの中にでもいてるような、
    初めて経験した光景。
    その状況がはっきりと思い出されてきたものであります。

    それにその当時、さほど気にも留めず消火活動していたその現場には、
    …恐らく多くの人が埋まっていたのでは…
    その時の状況が思い出されると同時に感情が込み上がり
    目頭が熱くなってきたものであります。

    特に、「焼け落ちた西尾荘 神戸大学の追悼手記」を読んでいて、
    もしかして我々が消火していたところでは?…
    と一瞬「ヒヤリ」としたものであります。

    文中「何で消防は、はやくこないんだ」…
    その部分は、ほんとに私自身に言われているようで
    ズキンと胸に突き刺さった感じでありました。
    その友達の気持ちが痛いほど分かりますし
    又、当地の消防職員の気持ちを考えると、
    どんなに悔しい思いであったか。
    そのような事を思いながら目頭を熱くし読ませて戴きました

    多くの亡くなられた方々に心よりお悔やみを
    一人、目を瞑って黙とうを奉げたものであります。

    ほんとにこのような大惨事になりますと消防力の無さが痛感するもので、
    私くしも地元の消防訓練指導の折には、
    書かれているように「隣近所助け合う心」が大切ですよ!…と
    話し掛けています。

    (2002年10月10日 メールで)

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    なぜか、とても悲しみが伝わってくるのです
    千葉県柏市 古池佳子(51歳 会社役員)

    1995年のあの日、私はいつものように、
    朝6時のNHKニュースを見るためにテレビを入れました。
    起きてきた下の娘に「神戸で大きな地震があったみたいよ。
    3人亡くなったみたい。」と伝えます。
    ちょうど、その少し前、東北地方でも地震があり、
    (確か) パチンコやさんが潰れ、3人が亡くなっていました。
    きっと「あれ」と同じ位の被害なのだろう、と思いました。

    学校へ行く娘を駅まで送り、帰ってきて又テレビを入れます。
    その間、30分です。
    亡くなった方の数が100人単位で増えていました。
    そしてあの日、日本の殆んどの人達がそうであったように、
    私もテレビの前から離れられなくなりました。
    信じられない光景が次々と映し出されていきました。

    思い返してみれば、私も、夜、
    学校から帰ってきた娘たちと温かいご飯を食べていました。
    焼け続ける神戸の映像を見ながら…。
    あの火の下で逃げる事も出来ずに亡くなっていく方たちが
    たくさんいたのに…。
    たぶん日本の殆んどの人たちがそうだったと思います。

    あの日の神戸には六千という別れがあり、
    直接肉親や友達を失った方々だけでなく、
    運良く助かった人たちにも深いこころの傷を残しました。
    その傷はひとりひとり全部ちがい、決して同じ物はないのだと思います。

    そう、六千の傷、六千の痛みを残してしまったのです。

    でも、これもまた、殆んどの日本の人たちは、
    あれから数日間、いえ、数十日間、温かいご飯を食べながら、
    公園での炊き出しや、給水車の行列、避難所の映像を見ていたのです。

    「大変ね。かわいそうね。」と言いながら…。

    私もそうでした。頭ではわかっていても、でも、実感ではない……。

    「あの日の神戸の本」は他にも読みました。
    けれど、「語り継ぎたい。命の尊さ」。
    この本はなぜか、とても悲しみが伝わってくるのです。
    これは神戸に生まれ、神戸に育ち、母校の後輩を亡くした
    住田さんの悲しみなのでしょうか?

    私は関東地方に大きな地震があったら、
    ひとたまりもないな、と常々思っています。
    では、どうしたらいいのか?
    幸い私は、「災害救援ボランティア推進委員会」の講習に出会い、
    地域の自主防災組織にはいり、
    隣近所の大切さ、備えておく事の大切さなど、
    防災意識の高揚のための活動に積極的に取り組んでいます。

    いざ大地震に見舞われた時“被害の少なかった町”と
    言われる町にしたいと思っています。

    「できることからする」本の中の言葉です。

    災害時もそうですが、日常からできることを
    少しずつしていくということも言えますよね。

    そして、神戸の震災を経験なさった方々には、
    つらい時もあるかと思いますが、
    語り続けていただきたいと思っています。

    (2001年10月 メールで)

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    薄れる危機感を鼓舞しよう
    東京都小平市 木賀孝
    (防災関係団体役員・災害救援ボランティア、
     当時会社員 総務関係業務担当 65歳)

    最初本を手に致したとき、
    書店に並んでいる本とは何処か違うなあ?と感じましたが、
    当初はそれが何か、わかりませんでしたが、
    読み進むうちだんだんと見えて来た様に思えます。

    全編を通じ読む者に「強く語りかけている事」です。

    悲惨な災害現場を心の葛藤と戦いながら、取材された貴重な記録は、
    どのページを見ても胸を刺す内容でした。

    特に強く印象を受けたのは、
    神戸大学の追悼手記からの「焼け落ちた西尾荘」。
    震災で生き延びながら病に倒れ亡くなった多くの人達のいたこと、
    さぞや無念だったと思います。

    また、混乱のさなかの被災地と大阪、東京との温度差、
    被災者の心の痛みを少しでも分かち合う事ができないものか。
    自分自身も被災者でありながら、救助に消火に懸命に働いた人々等々。

    阪神淡路大震災より6年半、
    日常の生活に埋没し震災当時感じた危機感が薄らいだ時、
    住田さんの「阪神大震災ノート」を読ませて頂き、
    震災時テレビでみた被災地の様子が昨日の様に思い出されきました。

    大震災で亡くなった6430人の犠牲者を絶対に無駄にしてはならない、
    自分の身の回りから、自分たちを守る活動を行い、
    1月17日には、阪神淡路大震災を思い、
    薄れる危機感を鼓舞しようと意をあらたにいたしました。

    <2001年10月/メールで>

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    子供を守り、被災生活… できるだろうか
    静岡県 匿名(女性)

    ネットで注文した本が土曜日に届き、
    早速拝見いたしました。

    読み終えると、
    “私には何ができるんだろう……”と考えてしまいました。

    私は今年の10月で5歳になる息子と、母の3人で暮らしています。
    そのため、大地震が起こった時、子供を守るのは私です。
    しかし、ちゃんと守りきることができるだろうか……。
    たとえ守れたとしても、避難所での生活、復興に向けての様々な試練……。
    全てを乗り越えるほどの忍耐力が私にはあるのだろうか、など
    改めて考えさせられました。

    地震が来たらどうしよう、という事はよく考えても、
    避難所での生活のことを考えたことは1度もありませんでした。
    色々なストレスとの葛藤、病気など、
    考えただけでもゾッとします。
    子供のストレスもそのまま私が受けとめなければ、
    と考えると、不安という言葉以外当てはまりません。

    私が19歳の時に他界した父は、私たち家族によく言っていたことがあります。
     ・地震のあとは、すぐに外に出てはいけない。
     ・お風呂の水は必ず残しておくように。
     ・バケツや、ヤカンには必ず水を入れておくように。等……
    これらはおそらく、関東大震災を経験した祖父母の教えではないか。
    そう思いました。
    それなのに、私達家族は、父の死後すっかり忘れてしまっていたのです。
    この本を読んで、
    「あーそういえば、お父さんに言われていた水の確保のこととか、
    何も守ってないなぁ…」と、申し訳ない気持ちになりました。

    そして、もう1つ気がついたことがありました。
    我が家には避難用物資が何もないのです。
    家具についても、転倒防止の策がとられていません。
    東海大地震が心配されている静岡県に住んでいながら、
    我が家の地震対策の手薄さにビックリしてしまいました。

    あれから6年半という月日が過ぎました。
    今の私の子供と同じ歳だった子どもは、
    もう小学校の高学年になっています。
    その子供達は大丈夫なのでしょうか?
    大人でさえ深い爪痕を残している事でしょう。
    幼い子たちは、どのような気持ちで、日々を過ごしているのでしょうか?
    肉親を亡くした子どもはどうしているでしょうか?
    自分の子供と重ね合わせて考えては、
    胸が張り裂ける思いになります。

    追伸
     住田さんは、今はどのような気持ちで、受けとめていらっしゃいますか?
     やはり、震災当日は、何か震災の事にかかわった事をしていないと
     気が休まらないのでしょうか?

    <2001年7月31日/メールで>

    ////////////////////////

    《著者より》
     毎年1月17日は、やはり、気がめいってしまいます。
     年々、いたみは薄れているように感じるのですが、
     それがまた、地震のことを忘れていってしまうようで
     辛い気分になってしまいます。

     メールの返信が「不達」で届かないので、
     匿名で掲載させていただきました。
     はげましのメッセージありがとうございます。

    <2001年9月8日/ホームページにて>
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    帰宅途中に孤立した鹿児島水害
    鹿児島市 匿名希望(議会議員会派事務員 31歳女性)

    以前仕事で資料を検索していたときに、
    住田さんの本を知りました。
    鹿児島の書店では手に入らなくて、
    京都へ出かけたときに探してみました。すぐに読みました。

    私は現在鹿児島市内で働いています。
    学生時代は京都でした。
    京都市内の学校で4年間過ごしました。

    「震災のときは」 当時、県の団体職員として県庁に勤めていました。
    朝、出勤してからずっとTVにくぎづけで、仕事も手につかず……。
    友人や先生の安否が気になりました。
    黒煙の立ちのぼる神戸の街を見て涙が止まりませんでした。
    友人たちの無事が確認できたのは1週間後でした。

    同じ職場に神戸大出身の男の子がいて、
    ふたりで「すぐに飛んでいきたいね」
    「どうすることがいいんだろうね」と語り合ったりもしました。
    ボランティアで行きたい私を両親は反対し、
    私も仕事を捨てて行く勇気が持てませんでした。
    結局何もできなかった自分がとてもなさけなくて……ずっと後悔していました。

    震災より1年半前、1993年8月6日。
    鹿児島は連日大雨続きの夏でした。
    その日も、みんな大変な事になるとは思っていませんでした。
    私は帰宅途中に身動きがとれなくなり、
    歩道より若干高さのあった空き地に避難していました。

    近くにいた男性が
    「このままじゃ本当に動けなくなるぞ、今のうちに避難したほうがいいぞ」と
    みんなを促し、私は近くにいた女性と手をつなぎ、腰まで水に浸かりながら、
    バイクまでも流れていく中を高いほうへ避難しました。
    あの時の恐ろしさは忘れられません。

    震災の恐ろしさは、8.6(はちろく)水害の数十倍だったでしょう?
    大好きな神戸を応援することができなかった事、
    ずっと後悔していたけれど、
    あんなにがんばっていた住田さんの文章からも、
    ご自分を責める言葉がみられ、少しほっとしました。(ごめんなさい)

    いろいろな出来事に完璧に対応できる人間なんていませんよね、
    住田さんのがんばりと、何もできなかった私とでは、ちがいますが、
    経験という学習をさせてもらったんでしょうか?

    なんとも言えない心の中のモヤモヤが住田さんの本で、
    少しやわらいだような気がします。
    <2001年2月/メールで>

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    結婚式にいらして下さった方が亡くなられて
    東京都 匿名(39歳女性)

    実は主人の実家は宝塚市、
    すぐ下の弟は神戸市の東灘区、一番下の弟は、大阪の豊中市、
    主人の親戚たちもみんな西宮市や、神戸市などで、
    あの震災に遭いました。

    私達家族は、1月4日までお正月を過ごすために宝塚におりました。
    その時、主人の母が
    東京は地震が多くて住みにくいけれど、関西は全然地震がないから住みやすい、
    と私に話した、約2週間後の大地震でしたから、
    母たちのショックはとても大きかったようです。

    幸い、誰も、怪我をしなかったのですが、家の中はメチャクチャで、
    片づけが大変だったこと、
    私達の結婚式にいらして下さった方が震災で亡くなられて
    とても悲しかったことなどを思い出しました。

    いつ東京にも起こるかわからない地震、
    その他のあらゆる非常事態のために、
    意識を高める良い機会を与えて下さいましたことに
    深く感謝いたしております。
    <2000年11月20日/講演を聞いて>

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    戦時中そうしていたように
    東京都 菅井光子(64歳)

    改めて五年前の阪神淡路大震災のすざまじさを思い出しました。
    当時は私も水や乾パン、ガスコンロ、等々買い求めたりしましたが、
    そのままになっております。
    忘れた頃にやってくるかも知れない天災に備えて
    全部点検し直さねばと思いました。
    お話を聴いた孫娘とこれからは夜、枕元に、靴、手袋、着替え等入れた
    非常持ち出しザックをおいて寝ましょうと話し合いました。
    私が子どもの頃(第二次大戦中)毎晩そうしていたように。
    <2000年11月20日/講演を聞いて>

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    震源地のふるさとを思う
    東京都 原秀子(48歳)

    阪神大震災では出身地が震源地ということもあり、
    約1年は戦後かと思われる状況が続き、
    復興することの難しさをしみじみ感じました。
    しかし、人間とは、たくましいものであると同時に
    良きにつけ悪しきつけ、忘れてしまうこともはやく、
    心に止めおくことの難しさを深く感じました。
    どうかできるだけ沢山の人々に
    語り継いで欲しいと願っております。
    <2000年11月20日/講演を聞いて>

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