1995年のあの日、私はいつものように、
朝6時のNHKニュースを見るためにテレビを入れました。
起きてきた下の娘に「神戸で大きな地震があったみたいよ。
3人亡くなったみたい。」と伝えます。
ちょうど、その少し前、東北地方でも地震があり、
(確か) パチンコやさんが潰れ、3人が亡くなっていました。
きっと「あれ」と同じ位の被害なのだろう、と思いました。
学校へ行く娘を駅まで送り、帰ってきて又テレビを入れます。
その間、30分です。
亡くなった方の数が100人単位で増えていました。
そしてあの日、日本の殆んどの人達がそうであったように、
私もテレビの前から離れられなくなりました。
信じられない光景が次々と映し出されていきました。
思い返してみれば、私も、夜、
学校から帰ってきた娘たちと温かいご飯を食べていました。
焼け続ける神戸の映像を見ながら…。
あの火の下で逃げる事も出来ずに亡くなっていく方たちが
たくさんいたのに…。
たぶん日本の殆んどの人たちがそうだったと思います。
あの日の神戸には六千という別れがあり、
直接肉親や友達を失った方々だけでなく、
運良く助かった人たちにも深いこころの傷を残しました。
その傷はひとりひとり全部ちがい、決して同じ物はないのだと思います。
そう、六千の傷、六千の痛みを残してしまったのです。
でも、これもまた、殆んどの日本の人たちは、
あれから数日間、いえ、数十日間、温かいご飯を食べながら、
公園での炊き出しや、給水車の行列、避難所の映像を見ていたのです。
「大変ね。かわいそうね。」と言いながら…。
私もそうでした。頭ではわかっていても、でも、実感ではない……。
「あの日の神戸の本」は他にも読みました。
けれど、「語り継ぎたい。命の尊さ」。
この本はなぜか、とても悲しみが伝わってくるのです。
これは神戸に生まれ、神戸に育ち、母校の後輩を亡くした
住田さんの悲しみなのでしょうか?
私は関東地方に大きな地震があったら、
ひとたまりもないな、と常々思っています。
では、どうしたらいいのか?
幸い私は、「災害救援ボランティア推進委員会」の講習に出会い、
地域の自主防災組織にはいり、
隣近所の大切さ、備えておく事の大切さなど、
防災意識の高揚のための活動に積極的に取り組んでいます。
いざ大地震に見舞われた時“被害の少なかった町”と
言われる町にしたいと思っています。
「できることからする」本の中の言葉です。
災害時もそうですが、日常からできることを
少しずつしていくということも言えますよね。
そして、神戸の震災を経験なさった方々には、
つらい時もあるかと思いますが、
語り続けていただきたいと思っています。
(2001年10月 メールで)
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薄れる危機感を鼓舞しよう
東京都小平市 木賀孝
(防災関係団体役員・災害救援ボランティア、
当時会社員 総務関係業務担当 65歳)
最初本を手に致したとき、
書店に並んでいる本とは何処か違うなあ?と感じましたが、
当初はそれが何か、わかりませんでしたが、
読み進むうちだんだんと見えて来た様に思えます。
全編を通じ読む者に「強く語りかけている事」です。
悲惨な災害現場を心の葛藤と戦いながら、取材された貴重な記録は、
どのページを見ても胸を刺す内容でした。
特に強く印象を受けたのは、
神戸大学の追悼手記からの「焼け落ちた西尾荘」。
震災で生き延びながら病に倒れ亡くなった多くの人達のいたこと、
さぞや無念だったと思います。
また、混乱のさなかの被災地と大阪、東京との温度差、
被災者の心の痛みを少しでも分かち合う事ができないものか。
自分自身も被災者でありながら、救助に消火に懸命に働いた人々等々。
阪神淡路大震災より6年半、
日常の生活に埋没し震災当時感じた危機感が薄らいだ時、
住田さんの「阪神大震災ノート」を読ませて頂き、
震災時テレビでみた被災地の様子が昨日の様に思い出されきました。
大震災で亡くなった6430人の犠牲者を絶対に無駄にしてはならない、
自分の身の回りから、自分たちを守る活動を行い、
1月17日には、阪神淡路大震災を思い、
薄れる危機感を鼓舞しようと意をあらたにいたしました。
<2001年10月/メールで>
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子供を守り、被災生活… できるだろうか
静岡県 匿名(女性)
ネットで注文した本が土曜日に届き、
早速拝見いたしました。
読み終えると、
“私には何ができるんだろう……”と考えてしまいました。
私は今年の10月で5歳になる息子と、母の3人で暮らしています。
そのため、大地震が起こった時、子供を守るのは私です。
しかし、ちゃんと守りきることができるだろうか……。
たとえ守れたとしても、避難所での生活、復興に向けての様々な試練……。
全てを乗り越えるほどの忍耐力が私にはあるのだろうか、など
改めて考えさせられました。
地震が来たらどうしよう、という事はよく考えても、
避難所での生活のことを考えたことは1度もありませんでした。
色々なストレスとの葛藤、病気など、
考えただけでもゾッとします。
子供のストレスもそのまま私が受けとめなければ、
と考えると、不安という言葉以外当てはまりません。
私が19歳の時に他界した父は、私たち家族によく言っていたことがあります。
・地震のあとは、すぐに外に出てはいけない。
・お風呂の水は必ず残しておくように。
・バケツや、ヤカンには必ず水を入れておくように。等……
これらはおそらく、関東大震災を経験した祖父母の教えではないか。
そう思いました。
それなのに、私達家族は、父の死後すっかり忘れてしまっていたのです。
この本を読んで、
「あーそういえば、お父さんに言われていた水の確保のこととか、
何も守ってないなぁ…」と、申し訳ない気持ちになりました。
そして、もう1つ気がついたことがありました。
我が家には避難用物資が何もないのです。
家具についても、転倒防止の策がとられていません。
東海大地震が心配されている静岡県に住んでいながら、
我が家の地震対策の手薄さにビックリしてしまいました。
あれから6年半という月日が過ぎました。
今の私の子供と同じ歳だった子どもは、
もう小学校の高学年になっています。
その子供達は大丈夫なのでしょうか?
大人でさえ深い爪痕を残している事でしょう。
幼い子たちは、どのような気持ちで、日々を過ごしているのでしょうか?
肉親を亡くした子どもはどうしているでしょうか?
自分の子供と重ね合わせて考えては、
胸が張り裂ける思いになります。
追伸
住田さんは、今はどのような気持ちで、受けとめていらっしゃいますか?
やはり、震災当日は、何か震災の事にかかわった事をしていないと
気が休まらないのでしょうか?
<2001年7月31日/メールで>
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《著者より》
毎年1月17日は、やはり、気がめいってしまいます。
年々、いたみは薄れているように感じるのですが、
それがまた、地震のことを忘れていってしまうようで
辛い気分になってしまいます。
メールの返信が「不達」で届かないので、
匿名で掲載させていただきました。
はげましのメッセージありがとうございます。
<2001年9月8日/ホームページにて>
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帰宅途中に孤立した鹿児島水害
鹿児島市 匿名希望(議会議員会派事務員 31歳女性)
以前仕事で資料を検索していたときに、
住田さんの本を知りました。
鹿児島の書店では手に入らなくて、
京都へ出かけたときに探してみました。すぐに読みました。
私は現在鹿児島市内で働いています。
学生時代は京都でした。
京都市内の学校で4年間過ごしました。
「震災のときは」 当時、県の団体職員として県庁に勤めていました。
朝、出勤してからずっとTVにくぎづけで、仕事も手につかず……。
友人や先生の安否が気になりました。
黒煙の立ちのぼる神戸の街を見て涙が止まりませんでした。
友人たちの無事が確認できたのは1週間後でした。
同じ職場に神戸大出身の男の子がいて、
ふたりで「すぐに飛んでいきたいね」
「どうすることがいいんだろうね」と語り合ったりもしました。
ボランティアで行きたい私を両親は反対し、
私も仕事を捨てて行く勇気が持てませんでした。
結局何もできなかった自分がとてもなさけなくて……ずっと後悔していました。
震災より1年半前、1993年8月6日。
鹿児島は連日大雨続きの夏でした。
その日も、みんな大変な事になるとは思っていませんでした。
私は帰宅途中に身動きがとれなくなり、
歩道より若干高さのあった空き地に避難していました。
近くにいた男性が
「このままじゃ本当に動けなくなるぞ、今のうちに避難したほうがいいぞ」と
みんなを促し、私は近くにいた女性と手をつなぎ、腰まで水に浸かりながら、
バイクまでも流れていく中を高いほうへ避難しました。
あの時の恐ろしさは忘れられません。
震災の恐ろしさは、8.6(はちろく)水害の数十倍だったでしょう?
大好きな神戸を応援することができなかった事、
ずっと後悔していたけれど、
あんなにがんばっていた住田さんの文章からも、
ご自分を責める言葉がみられ、少しほっとしました。(ごめんなさい)
いろいろな出来事に完璧に対応できる人間なんていませんよね、
住田さんのがんばりと、何もできなかった私とでは、ちがいますが、
経験という学習をさせてもらったんでしょうか?
なんとも言えない心の中のモヤモヤが住田さんの本で、
少しやわらいだような気がします。
<2001年2月/メールで>
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結婚式にいらして下さった方が亡くなられて
東京都 匿名(39歳女性)
実は主人の実家は宝塚市、
すぐ下の弟は神戸市の東灘区、一番下の弟は、大阪の豊中市、
主人の親戚たちもみんな西宮市や、神戸市などで、
あの震災に遭いました。
私達家族は、1月4日までお正月を過ごすために宝塚におりました。
その時、主人の母が
東京は地震が多くて住みにくいけれど、関西は全然地震がないから住みやすい、
と私に話した、約2週間後の大地震でしたから、
母たちのショックはとても大きかったようです。
幸い、誰も、怪我をしなかったのですが、家の中はメチャクチャで、
片づけが大変だったこと、
私達の結婚式にいらして下さった方が震災で亡くなられて
とても悲しかったことなどを思い出しました。
いつ東京にも起こるかわからない地震、
その他のあらゆる非常事態のために、
意識を高める良い機会を与えて下さいましたことに
深く感謝いたしております。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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戦時中そうしていたように
東京都 菅井光子(64歳)
改めて五年前の阪神淡路大震災のすざまじさを思い出しました。
当時は私も水や乾パン、ガスコンロ、等々買い求めたりしましたが、
そのままになっております。
忘れた頃にやってくるかも知れない天災に備えて
全部点検し直さねばと思いました。
お話を聴いた孫娘とこれからは夜、枕元に、靴、手袋、着替え等入れた
非常持ち出しザックをおいて寝ましょうと話し合いました。
私が子どもの頃(第二次大戦中)毎晩そうしていたように。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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震源地のふるさとを思う
東京都 原秀子(48歳)
阪神大震災では出身地が震源地ということもあり、
約1年は戦後かと思われる状況が続き、
復興することの難しさをしみじみ感じました。
しかし、人間とは、たくましいものであると同時に
良きにつけ悪しきつけ、忘れてしまうこともはやく、
心に止めおくことの難しさを深く感じました。
どうかできるだけ沢山の人々に
語り継いで欲しいと願っております。
<2000年11月20日/講演を聞いて>
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