ふと「あのとき」のことを思い出してみる。突然の大きな揺れで目が覚める。恐怖のあまり体を小さく丸めると、その上から父親が覆いかぶさるように守ってくれていた。そのまま再び眠りに落ちた。【1月24日 神戸大NEWS NET=UNN】?
阪神・淡路大震災から、1月17日で16年。今年も多くの人々が早朝から集い、手を合わせることだろう。だが、一歩その空間を抜け出せば、整備された神戸の町で震災のあとを見つけることは難しい。ましてや大学の中では、毎年一時の木枯らしのように1.17が過ぎてゆく。?
昨年1月17日、六甲台の慰霊碑前で遺族の方に取材をした。震災で神戸大生だった息子を失った母親。毎年、名古屋から足を運んでいる。「神戸に来ると改めてやりきれない。悲しいし、寂しい思いにかられる」。また、11月には友人を亡くした方にお話をうかがった。「15年、16年たっても変わらないね、何も。変わらない」?
目に見える場所にはなくとも、人の心の中には「あのとき」が生き続けている。学生記者として、震災経験者として、それをどのように表に出せばいいのか。取材ノートに書きとめた大勢の人の言葉を見つめながら、そんな問いを自分に投げかけている。
編注)このコラムは1月12日発行の本紙「神戸大学NEWS NET」2011年1月号に掲載されたものです。
コメント
この記事へのトラックバックはありません。
この記事へのコメントはありません。