(写真:加藤貴光さん。1994年2月 、I.S.A.国際学生協会の活動で訪れたソウルで)
加藤貴光さん(当時21歳、広島県立安古市高校卒、I.S.A.国際学生協会)は、西宮市安井町5丁目のマンションNの207号室で暮らしていた。メーカー勤務の父親が先に大阪で単身赴任していたが、神戸大進学とともに一緒に暮らすことになった。大阪と神戸の中間でみつけたのが、西宮市の閑静な夙川沿い、桜並木のすぐそばにある築25年ほどの賃貸マンションだった。
広島に住む貴光さんの母親の加藤りつこさんは、1995年1月17日の朝、ラジオで阪神・淡路大震災の発生を知った。加藤さんは貴光さんの下宿先に電話をかけるもつながらなかった。奇跡的に取れたチケットで広島から西宮の下宿先に向かうと、2階にあった貴光さんの部屋は潰れていた。対面した貴光さんの遺体はのけぞるほどの冷たさだったという。加藤さんは、遺体安置所となった小学校の教室の寒さや床の冷たさは今でも忘れられないと語る。
(写真:オンラインでインタビューを受ける加藤りつこさん。2021年11月3日、広島市内で)
あの朝、夫を車で広島駅まで送っていった 揺れは感じなかった
聞きて)地震のあったあの日、1995年1月17日火曜日、何をされていましたか。
加藤さん)夫は、貴光が高校3年生の時に、大阪へ単身赴任になりまして、大阪に住んでいて、大阪の会社に行っていたんですね。
2人が1つの家に住む方が、経済的にちょっと助かるかなっていうことで、神戸大と夫の会社のちょうど中間地点になる、阪急神戸線の夙川駅の近くに、5階建ての鉄筋コンクリートのマンションがあったんですが、そこの一室に、社宅扱いで入ったんですね。息子が入学する時に、そこに同居するという形だったんです。
加藤さん)震災の当日ですね。14、15、16日と3連休だったんです。15日の日曜日が成人の日、16日が月曜日だけど振替休日だったんです。
3連休になるんだけど、貴光は、スケジュールが詰まっていて広島には帰らないって言ったんだそうです。当時は私が一人で、寝たきりの夫の母親、お姑さんになるんですけど、の介護をしてたものですから、「お母さんが1人で介護してるんだから、この3連休広島へ帰ってあげたらどうか」って、夫を帰したんですね広島へ。だから夫は、13日の夜に帰省し、17日の朝1番の新幹線で、大阪へ出社する予定だったんです。
加藤さん)17日の朝、5時46分に阪神・淡路大震災が起こったんですが、その日、もう5時半には朝食を済ませて、5時46分にはもう私は後片付けをしていました。6時過ぎには、夫を車で広島駅まで送っていかなければいけないので起きてたんです。でも、全然揺れを感じなかったんですね。だから神戸でそういう大きな地震が起こってたっていうことも全く知らないまま、朝、1番の、始発の新幹線に間に合うように、広島駅まで送っていったんです。
加藤さん)帰る途中、車で、たまたまカーラジオをつけたら、ニュースで、「神戸方面で、大きな地震があったもようで、新幹線始発からストップしてます」というニュースだったんですね。
聞きて)その段階では、深刻な事態とは考えていなかったんですね?
加藤さん)深刻じゃなかったです。地震があったんだって感じで、私は家に帰ってテレビをつけたんですね。そしたら、午前7時、8時辺りになると、何かすごい被害が出てきた様子が、ニュースで流れ始めたんです。
西宮のマンションの電話 つながらない
聞きて)貴光さんには電話はされましたか?
加藤さん)当時は携帯電話もないですからね。固定電話しかなかったものですから、帰宅後すぐ電話をかけてみたんですよ。でも、NTTのほうもストップで、かからなかったんですね。それからちょっと心配になりまして、妹たちとかいろんなところに電話しました。心配なんだけど、どうしていいか分からなくて。
聞きて)妹さんに?
加藤さん)妹家族が山口県の宇部市にいたんですね。これちょっとひどいねということになって、それですぐに車で広島まで来てくれました。みんなで相談しているとちょっと気持ちが落ち着くので、1人じゃなくてよかったんですけど。
加藤さん)広島駅へ送った夫が、全然連絡ないんですよ。電話もかかってこないし、どうしたんだろう。新幹線は動いてないはずなのに、会社に行けてないのではないかって思ってたら、午前10時ごろ帰ってきたんですね。
それで、神戸えらいことになった、と言って、どうにかして、現地に入りたいと思って、いろいろ調べていたんだそうです、広島駅で。そしたら、どこもストップしてまして、交通の手段がないわけですよ。それで、とりあえず、家に帰ってきたといって帰ってきたんですけれど…。
夫の会社の人が西宮の現場まで自転車で見に行ってくれた
加藤さん)夫は、家から会社に電話しても通じない。ニュースで、「公衆電話からだったらつながる」というのを聞いて。近くのスーパーまで行って、会社と連絡を取っていました。そしたら、会社の社員の方々が、すぐ(西宮の)マンションまで行ってみるといって、自転車で行って下さったんだそうです。
聞きて)会社の人はどこから自転車で?
加藤さん)大阪からです。
もう八方ふさがりだったんですね。心臓だけがドキドキ、ドキドキしてもう飛び出しそうな状態だったんですけど。なかなか、状況がつかめなかったんですね。今のようにネットがあって、すぐ、いろんなところから情報が入れば分かるんですけど、全然分からないんです。
貴光は必ず家に電話かけてくるだろうと信じて待ちました。
やっととれた伊丹空港行きのチケット
加藤さん)ちょうど夜の9時ぐらいでしたか。NHKのニュース、スーパーで出るじゃないですか、速報みたいな。その広島版で、あすの朝8時何分かに、広島空港から臨時便が伊丹空港まで出るっていうのを見たんですよ。それで、「これだ」と言って…。交通公社(JTB)へ、ずーっと電話かけたんですね。だけどもつながらないんですよ。
それでも、諦めず、何回も何回も、切ってはすぐかけ、切ってはすぐ…。ずっと電話をかけ続けて、それで7時過ぎだったかな、パッとつながったんですね。
聞きて)朝の7時ですか?
加藤さん)18日朝の7時に。なんとか飛行機のチケットが2枚とれまして、それで朝、義弟に広島空港まで送ってもらって、そこから伊丹に入ったんです。
(写真:オンラインでインタビューを受ける加藤りつこさん。2021年11月3日、広島市内で)
阪急伊丹駅は崩壊 電車がずり落ちていた
聞き手)それは1月18日の何時ごろですか?
加藤さん)お昼前にはもう着いてましたね、伊丹に。それで、途中、空の上から下を見ると、何かおかしいな、普通じゃないなっていう感じだったんですね。
空港に着いて電車に乗ろうと思ったら、電車が動いてないんですねえ。阪急電車も。パッと見上げると、ちょっと高架になった駅のホームから、電車がずり落ちてたんです。車両が。それ見て、もうすごいことになってるって…。
聞きて)そのときに初めて大変な事態だとわかってきたんですね。
加藤さん)初めて、実感としてわいてきたんですけど、それでもまだ息子のところは大丈夫と思ってました。淡路島のほうが震源地っていうのはちらっと聞いたので、伊丹がこんな状態だったら、(そのあいだにある)西宮はもっとひどいんじゃないかっていう不安はありました。
西宮北口周辺では家屋が倒壊、歩く道が無い
加藤さん)電車の動いている区間を乗ったり歩いたりの繰り返しで、西宮北口にやっとたどりついて…。阪急神戸線は不通ですから、そこから今度は歩いて、夙川のあのマンションの所まで行ったんですけど…。
聞きて)どのくらい時間がかかりましたか?
加藤さん)現場に着いたのが18日の午後3時を過ぎていました。
加藤さん)西宮北口駅周辺から、道がないんですよ。歩く道がないんです、がれきで。一戸建ての家の屋根が、私の目線にあったりとか。電柱が倒れて、電線が垂れ下がったりしてるんですよ。だから歩けない。
静まり返った街 サイレンの音が鳴り響く
加藤さん)歩ける所をう回しながら、う回しながら、国道2号線を歩いたんですけど、もう本当に地獄でした。
空気は、よどんでいました。黄色い空気の…、何かどんよりしてた。
人の気配が全くない。歩いてる人もいたんですけど声がしない。
人の声が全くしない。車の音もしない。
ただ、音が聞こえたのは救急車のサイレンの音ばっかりなんですね。
だからそのあとしばらくは救急車の音を聞くと、精神的におかしくなりそうな、そういう感じがありました。
「絶対大丈夫」と信じ歩く 重いリュックを背負って…
加藤さん)不安だったんですよね。どうなってるだろう。まだ分からない。でも、私は「絶対大丈夫」と思って、最後まで信じてました。
そうしないと歩けないですから。もしも私が、ひょっとしてだめかなって思った瞬間に、あの子は駄目になるかもしれないと思うと、「絶対大丈夫。絶対大丈夫」って思いながら、重いリュックを背負って…。お水とかね、バナナとかクッキーとか着替えとかいっぱい入れて、リュック背負って歩いたんですけど。
突然、夫が「ここから見ると、マンションがない」
加藤さん)それで、なんとか最後まで歩けたんですが、突然、夫が、「ここから見ると、マンションがない」って言ったんですよ。
いつも見える場所から、建物がないって…。
その声を聞いただけで私、崩れそうになったんですが、それでも、聞かない、聞かないふりして、その、自分を持ち直して歩いたんですね。
「気を確かに」と言われて…
加藤さん)そしたら、向こうから男の人が、2人タッタッタと私の両側に立って、加藤さんですかって言われて。「はい」と言ったら、「奥さん、気を確かに」って言われたんですよ。
「駄目だったんだ」って、その時初めて、亡くなったことが分かったんですね。
加藤さん)2人に支えられて。その時から、もうひざがガクっとなって歩けなくなって。両側から支えてもらって、やっとの思いでがれきのコンクリート片がいっぱい散らばっているその間を歩きながら、遺体が安置されている場所に連れてってもらったんですね。
(震災翌日のマンションN 。西宮市震災写真館より、西宮市安井町で1995年1月18日撮影。)
横顔を見たとき 「ああ、この子だ」
加藤さん)ちょうど、畳1畳分ぐらい、がれきがないところに、お布団を敷いて、上からお布団を掛けて寝かされていましたけど。うつぶせに寝かされてました。私は何を考えていたか分からないです。しばらくそこにぼう然と立ってたと思うんですが。
本当に、本当に、息子かなと思って、ちょっとこうお布団をめくって、横顔を見た時に、「ああ、この子だ」と思って…。
右手にそっと触ったんですよ。のけぞるような冷たさでした
加藤さん)それでもまだ、信じられないんですよね。
お正月に帰ってきたばかりで、2週間ぐらいたって、こんな状態になるなんて、想像もしてませんでしたから。何があったのか、どうしたのか、もう全然分からなくて。考えることも全く、何にも。思考回路がもう全部ストップしてしまって…。
右手にそっと触ったんですよ。のけぞるような冷たさでした。
あの冷たさは、ほんと、今でも忘れません。あー駄目だったっていうのを、その時初めて実感できました。
(写真:悲しみをにじませる加藤さん)
遺体安置所は小学校だった
加藤さん)それから先がね。あんまり覚えてないんですよね。何をしたかどうしたか。誰がそばにいたか。
車に乗せてもらって、遺体安置所に連れて行かれたっていうところは分かってるんですが。その遺体安置所になったのが、安井小学校だったんです。
どなたかに連れられて、私は、避難場所になっていた体育館から入って行ったんです。
もう大勢の方が無表情で身を寄せ合い、シーンと静まり返った中を私は歩いていったような記憶があるんですけど。
ずっと奥の、教室に連れて行かれて、そこは理科の教室なのか。
理科の実験室なのか、家庭科の調理室なのか、ちょっとよくわからない。
教室の中に水道があったのを覚えています。
そこに、6人ぐらいの亡くなった方が安置されていて。その中の一人だったんですけれど、そこにもう寝かされていました。
買ったばかりのパジャマを着ていた
聞きて)その時、貴光さんはどんな服装でしたか。
加藤さん)パジャマですね。お正月に帰ってきた時に、新しいパジャマをちょっと買っておこうと思って。グレーのスウェットスーツ風の。気持ちのいい肌触りのパジャマを買ってたんですよ。
それを着ていました。
お正月、「これ、持って帰ってもいいか」って言ったんですよ。「これすごく気持ちがいいから持って帰りたい」って言うから、「いいよ持って帰って」と言って。持って帰ったそれを着て、亡くなっていました。
忘れられない遺体安置所の冷たさ、寒さ
加藤さん)遺体安置所の教室の、床の冷たさ、寒さ。それを忘れることはできないですね。
窓を閉めてないし暖房は使えないし。寒いところに、じっと、座っておくっていうのは、本当に、凍えそうでしたね。
でも、そんなことも全く意識にないぐらい。寒いからどうしようっていう、そんな気持ちさえなかったと思います。
夫の会社の方々にお世話になった
加藤さん)みなさん、夫の会社の人たちがよくして下さって、新聞紙と段ボールをたくさん持ってきてくださって。これを敷くとあったかいからって。で、新聞紙を下に敷いて上に段ボールを敷いてこの上に座ったら暖かいからとか。
会社の、社員食堂の方々がお食事を作って持ってきてくださったりとか…。本当に、会社の方々にお世話になりました。
聞きて)会社はどちらの会社だったんですか?
加藤さん)メーカーのライオンです。(夫の勤務先は)大阪の福島にあったんですけど、そこの社員の方々が、社長からの伝達で、できることをやりなさいということだったそうで、みなさん本当に、よくしてくださった。
住んでいたマンション 2階は上から潰されていた
聞きて)貴光さんの住んでいたのは、マンションNという名前でしたね。
現場の様子はごらんになったんですか?
加藤さん)あまり見てないです。そのときは見てないです。
加藤さん)2階に住んでたんですよ。3階、4階、5階があったんですが、2階が一番ひどかったですね。3階以上の人はみなさん助かってるんですけど。
あの建物が解体される前に行ったんですけどね。部屋を見るのは本当につらいですけど、人が、寝そべって、やっと開くぐらいの隙間しかなかったんです。
聞きて)3階以上はそのまま残って、2階の部分が下敷きになったのですか?
加藤さん)3階以上は、北に倒れてたんです。2階は上から潰された感じで。
聞きて)貴光さんがいた部屋は?
加藤さん)北側なんです。北側の、玄関の方の部屋を使ってたんですけれど。でも、南側にいても、助かってないと思います。わずかな隙間しかなかったですから。
(写真:倒壊したマンションN 。西宮市震災写真館より、西宮市安井町で1995年1月17日撮影。)
遺体搬出は地震の翌日の18日
聞きて)そういう隙間から貴光さんを外に運び出してくださった方がいたんですね。
加藤さん)遺体を、出して下さったのは18日の、地震の翌日の朝だったんだそうです。
聞きて)どういう関係の方が、どのように出して下さったんでしょうか。
加藤さん)人の力ではどうにもならないんですね鉄筋コンクリートだから。重機が入らないと出せないということで。それで、三田市の消防署の方が出してくださったっていうのをちらっと聞いたことがあるんですけど。だから、すぐその日に(17日当日に)救助できていたら助かってたはずです。
ドンドン叩いてたんですって。床を
加藤さん)ドンドン叩いてたんですって。床を。
聞きて)えっ?音が聞こえたんですか。
加藤さん)上の人たちは避難するじゃないですか。そしたらちょうど貴光の上の階に、大学生の女の子がいたらしいんですけど。その子が救出された時に、「下にいる。下にいる」って言ったんだそうです。ものすごく大きな声で、下にいるから助けてって言ってくれたそうなんですけれど、どうにもならなかったんですよね。
人の力では、2階のあの、コンクリートとか鉄筋は、こじあけられなかったみたい。だからずーっと、(貴光は)叩いてたって。
胸部圧迫で顔が紫色に 即死じゃなかったんだ
加藤さん)私が現地に行った時に、「ごめんなさい、加藤さんごめんなさい」って、ご近所の方だったんですね。3階にいらした方が「ごめんなさい、うちの娘が、最後に息子さんのSOSの、床をたたく音を聞いたんです」って。「それがどうにもならなくてごめんなさい」って、わざわざ18日に(現場に)来て下さって。
加藤さん)だから、ああ、生きてたんだって思って。即死じゃなかったんだって。顔が紫色になっていましたから…。
これは即死じゃなかったんだと思ったら、本当にむごいことだったなって…。息が切れるまで、意識がなくなるまで…、どんなにしんどかっただろうって、心細かっただろうって思ったら、せめて、名前を呼んでやれば、呼んでやればよかったねとかね…。いろんなことを後悔しましたけど。一生懸命生きようとしてたみたいですね。助けてほしいっていう合図で、床を叩いたということは…。
でも、傷は1つもなかったんですよ。だから、何か家具の間に挟まったんじゃないかなと思うんですけど、胸部圧迫だったんです。
だから、この胸部の両サイドから圧迫されてたので、(顔が)紫色になっていましたね。圧迫されながら、息ができなくなるまでのその苦しみっていうのは、どんなだろうと思うと、もう私も、たまらなくなりますけどね。よく頑張ったなと思います。
(写真:涙を浮かべる加藤さん)
I.S.A.国際学生協会で海外の学生と交流
聞きて)貴光さんの学生時代のお写真を見せていただいてもいいですか。
加藤さん)これが亡くなる1年前です。2年生の時から、I.S.A.国際学生協会に、入って活動してたんですけど。韓国へ行ったんですね。その時に、みんなで写した写真です。
加藤さん)とにかく写真がないんですよ。写真が返ってこないんです。(倒壊現場から)掘り起こせなかったんですね。だから、貴重な写真なんです。亡くなる1年前の(1994年)2月に、韓国ソウルに行った時、ソウル大学の学生さんたちと一緒に写っているその写真を、ちょっと引き伸ばしたものです。
加藤さん)これは、日本に、韓国とかアジアの学生さんたちを迎えて、学生会議という平和会議をやるんですね。その時に、ディスカッションした仲間だと思うんですけど。韓国とか、シンガポールとか、インドネシアとかそういうところの学生さんたちと一緒に写っている写真です。
こういう写真もみんなお友達が持ってきてくれたんです。
(写真:大学2年生、インドネシアから来た友人と。)
虫の知らせか 夏には宇部の叔母に会いに行く
加藤さん)これが亡くなる5か月前ですね。
あの、前年の夏休みに、帰省しまして、その時に、彼の叔母にあたる私の妹が山口県の宇部にいたんですね。何か虫の知らせだったのか、宇部に行こうって言うんですよ。それで、車で宇部まで行って、1週間ぐらい滞在したんですけど。
その時にいとこたちがまだ幼くて、中学生だったかな、カラオケ行きたいと言って。ふだんは連れてってもらえないから、タカちゃん来たらカラオケ連れてってと言って。それでみんなでカラオケに行った時に、歌っている場面なんですけれど。
この時のこと忘れられないですね。サザンオールスターズの「いとしのエリー」を英語バージョンで歌ってくれて…。何かすごく、いい時間を過ごしたんです。震災の5か月前だったんです。
友人が持ち寄ってくれた写真 遺影もやっと
加藤さん)これも1年前ですね。日本に、韓国の学生さんたちが来たときに、交流した写真だそうです。神戸学生青年センターの、階段のところです。ここに、(後年)私は連れていってもらいました。
ここにいたのねと言って、足跡をたどった思い出もあります。
(写真:1994年夏、I.S.A.国際学生協会の仲間たちと)
加藤さん)写真が少ないので本当に大事な、大事な写真なんですけどね。高校の卒業アルバムも、全部持っていったんですよ。それも返ってきてないし、家には残ってないんですよね写真が。幼い時の写真ぐらいしかないんですよね。
みんなが持ち寄ってくれました。ちょっとでも加藤くんが写っている写真をといって、集めてくれて。それでやっと、遺影もできたっていうような状態だったんですけどね。
さびしい思いをしないように、友達を残してくれた
聞き手)サークルのお友達とかも、震災後にお母さんの所に来られましたか?
加藤さん)しょっちゅう来ました。夏休みとか冬休みとかそういう時には必ず誰かが広島の自宅に来てくれました。
のちにNHKのプロデューサーになった山口君が提案してくれて、「広島ノートを作ろう」と言って、ちょっと、大江健三郎さんの(著書をもじって)ね。
うちに来た人が必ず、そのノートに感想を書いて帰る。そのノートにいろんな人が書いてくれました。
聞き手)お母様にとっては、貴光さんのお友達は直接知らない間柄だから、書いてもらったのは、いい記録になりましたね。
加藤さん)だいたい親って、大学生になった息子の友達を知ってる人って少ないじゃないですか。でも私は、(このノートのおかげで)大勢のお友達を知ってるんですよ。
なんていうのか、(貴光は)私がさびしい思いをしないように、ちゃんと友達を残してくれたなと思って。
高い目標を立て、その具現化のために生きた子でした
加藤さん)I.S.A.国際学生協会って、全国に展開するクラブなんですね。全国に6支部あって、北は東京から南は九州まで、6支部(の仲間)が入れ代わり立ち代わり来てくれてました。今でも(交流は)ずっと続いてます。
聞きて)サークル活動のつながりは強いですね。
加藤さん)強いです。1年生の時はESSの英語のクラブにいたんですね。
それはこれから先、自分はやはり海外出なきゃいけないし、英語はマスターしておかなきゃいけないというんで、ディベートとスピーチと、それからディスカッションその3セクションを1年でマスターするって言って。それで、秋のスピーチコンテストでは、神戸大学へ優勝旗持って帰ったんですよ。
とにかく、高いところに目標を立ててて、その目標に向かい、具現化するために、今、何をしたらいいかっていうことを考えて生きた子でした。
木村修三先生に学びたくて神戸大を目指した
聞きて)神戸大学に入学したのは理由があったんですね。
加藤さん)いろんな大学を調べてみて、教授で、この人と思う人がいらしたんですよ。
木村修三先生とおっしゃって、もう退官されてますけど。イスラエルに駐在されてて(編集部注:参議院事務局勤務時代に外務省特別調査員として駐在)、中東和平について研究された方なんですよ。
貴光は高校2年生のときに湾岸戦争が始まって(編集部注:1991年に多国籍軍が、クェートに侵攻したイラクを空爆して始まった)、それをものすごく勉強したんですよね。
中東に関心があったみたいで、木村先生のゼミに入りたいっていうのが目標で勉強してきたんです。だからよその大学に見向きもしなかったんです。
一浪しましたけど。でもその一浪した時に、自分は、ものすごく成長したと思うと言ってました。
加藤さん)だから、そういう、神戸大は望んで、望んで入れたところですからね。ものすごく喜んで、「よっしゃぁ」って言ってました。これから本格的に勉強できるって、すごく喜んでたとこなんですが、ゼミに入る前に亡くなってしまって…。
聞き手)ゼミの振り分けが3年次からですね。その目前ですね。
加藤さん)目前なんですよ。
木村先生のゼミに受かったのは12月。受かったって、それをすごく喜んで電話をかけてきました。で、「よかったね」と言って。高校の時からの憧れの先生ですから。受かって、さあ来年からって。そのちょっと手前でしたからね。無念です、本当に。今でも無念ですね。
(写真:マンションの玄関で、六甲祭の日に。右側の部屋が自室。1994年11月撮影。)
木村ゼミの最後の学生になるはずだった
加藤さん)神戸大で合同慰霊祭をしていただいたんですけど(1995年3月17日)、その式のあとで、亡くなった39名の学生さんたちの親が、それぞれのゼミの先生とか学科の先生と食事をしようという機会を大学が設けてくださいました。大きな部屋で、お弁当で…。
なにか、すごくそのとき寂しかったんですよ、私は。ゼミの先生と貴光は親交もないし、まだ1度も交流持ててないし。そんな中、ほかの方々はすごく親しく先生とお話しされている様子を見ながら、寂しいなぁと思ってたら、木村先生が来て下さって。本当に感動しました。
木村先生は、「残念です」。「面白い学生が入ってくるなって、すごく期待してたんですよ」と言ってくださって。先生とお会いできて、本当にうれしくて。あの時の喜びは今でも忘れることはできないです。
あの子の念願だった講義を、まだ一回も受けていないのに亡くなるなんて、どんなにか悔しかっただろうかと思ってしまうと、本当に、いたたまれなかったんですけどね…。
先生のご著書も頂いて、「加藤君も、私のゼミに入ってくれたら必ず読む本ですから」と言って、本を私に持ってきて下さって。
今でも大事にしてます。難しくて読めないですけど、ふふふ(笑)。
聞きて)たしか、木村ゼミの最後の学生になるはずだったんですね。
加藤さん)そうですね1998年に退官されたんですね。最後の学生になったと思うんです。
韓国の学生と議論 「必ず信じあえる」
聞きて)I.S.A.国際学生協会でソウルを訪れた貴光さんは、どんな活動をしたのですか。
加藤さん)反日感情がものすごく強いじゃないですか。こういうクラブに入っている韓国の学生たちは、結構親日家なんですね。でも、おじいさんの代になると、「日本人を連れてくるな」って、そういう状況だったらしいんです。
とにかくあの子は、高校時代からずっとそれを考えてて、韓国の教科書とかずっと読んで、それから、日本の教科書との違いを調べたりとかしてましてね。
とにかく、国と国はぎくしゃくしてても、学生のうちに、学生同士、信じ合える友達を作っておこうというのが、あの子の夢だったんですよ。
だからとにかく、理解しあいたいということで、徹夜で討論したそうです。
加藤さん)今、日本が、韓国に対して銃口を向けてきたら、タカはどうするかって言ったら、すかさず、「私は、その銃口の前に立つ」って言ったんですって。その言葉にものすごく、心開いてくれたって。
とにかく、アジアから信頼を失墜してるんで、特にアジアの学生と会いたいと言ってましたね。今度の夏は中国へ行くって言ってたんですけど、行けなかったです。たった1回きりです、海外に行ったのは。韓国が初めてで最後でした。
加藤さん)日本の歴史から韓国の歴史から、そういうことも全部含めて、話し合ったらしいんですけど。最後にね、「タカ」と呼ばれたらしいんです。
「タカのような日本人学生は見たことない」って、「今まで初めて会った。だから、ぼくたちも、タカがいる日本を勉強しよう」と言ってくれたんですって。だからすっごく喜んで帰ってきましたね。やはり、心は通じ合うよって。絶対通じ合うと言って。
加藤さん)ソウルから伊丹空港に帰ってきたんですが、その足で広島に帰ってきました。下宿先(の西宮)には寄らず家に帰ってきてね。広島駅まで迎えに行ったら、「お母さん、必ず信じ合える。それを実感したんだよ」って、私の肩に腕を回して、ぽろぽろぽろって涙流したんですよ。
この子は本気なんだなと思って、本当に、頼もしく思ってましたけど。
あなたたちをを見ると、貴光と同世代に見える
聞きて)これも懐かしい写真でしょうね。大学生のころの貴光さんですからね。
加藤さん)そこで止まってるんですよね、今。だからあなたたちに会うと、同じ世代ですから、ものすごく近く感じるんですよ。
加藤さん)(貴光が生きていたら)もう48歳になるんで。みなさんの親のような年齢なんですよね。でも同じ世代に見てしまうっていう、何か不思議な感覚です。
桜並木が見える夙川沿いのマンションを選んだ
聞きて)どうして、西宮のマンションを選んだんですか。
加藤さん)それはあの、(夫と2人で住んでいたので)夫の会社と大学の、ちょうど、中間地点になるところをと言って、探したんですね。
貴光は神戸(市灘区)の六甲台の方ですから、ちょっと(夫の大阪の)会社のほうが遠いですけれど、大学が近い方がいいだろうということで、夙川がとってもいい環境なのでそこを選んだようです。
男同士で、いろいろぶつかることもあったんですけど、でも、経済的なことを優先してくれた。費用かかるから、大変だからと言って、古いマンションなんですよ。当時で築25年ぐらいだったんですけどね。
でも駅から徒歩で3分ぐらい、ちょうど夙川公園の真ん前なんですよ。だから、ベランダに出ると、春には桜並木が見えるんですね。ものすごく環境がよかったです。
(写真:北側から見た、震災前のマンションN。道路より一段低い土地に建っていて、2階から出入りできた。1階はピロティで、駐車場になっていた。貴光さんの部屋は、2階の奥から3つ目の部屋だった。加藤りつこさん提供。)
3日間も検視を待った安置所
聞きて)遺体安置所でのことを教えていただけますか。
加藤さん)それが、すぐに帰れるもんだと思ったんですけど、18日は一日だめだったし、19日も警察の方が来られなかったんですよ。死者が多かったものですから。
安置所では、運ばれた順番に検視されるんですよね。
息子の場合は、(安置されたのが)翌日の18日だったものですから、17日に運ばれた人たちが優先的に検視されたみたいです。だから、まだかまだかって本当にイライラしました。20日にやっと警察の方が見えて、検視になったんですけどね。3日間待ったんです。
サイズの小さな棺に入れられて…
加藤さん)やはりね。顔が変わっていくんですよ、日に日に。それがすごく心配でした。少しずつダメージが…。皮膚の色が変わったりとか。そういうのを見るのがつらくて。だから早く連れて帰りたい、早く連れて帰りたいって、そればっかり思ってました。
加藤さん)いざ検視が終わって、西宮市から棺が用意されたんですけど、あの子の体が大きかったものですから…。175センチで70kgあったんですね。だから、肩幅が広いし…、棺に入らないんですよね。普通サイズ(の棺に入れるために)こんなに、肩をすぼめたような感じで。関節を折る音がしました。もうたまらなかったですね。人間として扱われないというね。何かその…、つらいですね。
霊きゅう車で広島へ 見慣れた神戸大のそばを通る
聞きて)棺に入った貴光さんは、広島に帰ってこられるんですね。
加藤さん)すぐ帰れると思ったら今度は、霊きゅう車がないんですよ。それでもう、とにかく会社の方がずっと霊きゅう車を探してくださって。で、20日のお昼過ぎぐらいだったかな、見つかって。ちょうど3日目ですよね。
加藤さん)それで、霊きゅう車に乗せて帰ったんですけど、中国自動車道に入るために、神戸大のそばを通ったんですよ。見慣れた学校の景色で。神戸大のそばを通れてよかったなと思ったんだけど、ここに憧れて入ってきて、卒業もできなくて、広島に連れて帰るなんて…。霊きゅう車の中で号泣してしまって。
加藤さん)道路もね、まだ、いろんな所が崩れてたりした中を帰ったんで、すごい時間がかかりましたね。広島に帰ったのは20日の夕方だったかな。
22日に葬儀 式場があふれるほどの友達が来てくれた
加藤さん)20日に広島に帰って、その日お通夜で。21日も、もう1日お通夜だったんですよ、友引か何かあったのかな。私は全然そんなことはわからない。もうお葬式の段取りも全部、妹たちがしてくれてたんで。その流れに乗ってただけで。
加藤さん)22日の、午前中にお葬式だったんですけど、土砂降りで。ものすごい雨だったのを覚えています。
交通もねすごく大変な状況の中で、お友達は船に乗ったりして神戸から来てくれました。神戸大だけじゃなくって、神戸女学院とか、松蔭とか。それから、東京からも来てくれましたね。
200人ぐらいになったんですけどね。
だから式場があふれちゃって…。そんなに人が来て下さるとは思わなかったんで。高校の友達も来てくれた。
ああ、みんなほんとによく来て下さったんですよ。
今でも感謝しています。
加藤さん)中学とか高校の時に呼ばれていたニックネームが「ウーちゃん」って。他の友達は「加藤君」でしょう。だから「ウーちゃーん」って言って泣いてくれてた子は、中学校か高校の友達なんだなっていうのが分かって。
聞きて)何でウーちゃんなんですか。
加藤さん)あのね。同じクラスに、加える登ると書いて、「加登」という名前の男の子と、貴光は「加藤」でしょ。「カトウ」って呼ばれたら、2人が「はい」って立つんですって。だから先生から「カト、ウー」と呼ばれてて、それでみんなが「ウーちゃん」って、ふふふ(笑)。
(写真:笑顔を見せる加藤さん)
最後に会ったのは2週間前のお正月
聞きて)加藤さんが、貴光さんと、生前最後に会われたのはいつですか。
加藤さん)お正月です。
聞きて)帰省した時ですね。
加藤さん)そうです。1月4日には、もう(西宮に)戻りました。
12月には、I.S.A.の学生フォーラムがあるんですよね。年に1回、6支部が持ち回りで。ちょうどその年の担当が、神戸支部だったんですって。で、その神戸で、100人近い学生が集まって、シンポジウムや交流会などいろいろ企画したらしいんですけど。その、神戸支部の委員長をしていたものですから、準備の段階からもうほとんど寝てないっていうような状態で。年末には疲れきって広島へ帰ってきました。12月29日か30日かもう(年末)ギリギリのところで帰ってきました。
疲れてるはずなのに、「話をしよう、話ししよう」って言って。もう私は眠いからって言ったら、「もう寝るのか、もうちょっと話をしたい」と言って、すごく話したがったんですよ。
聞きて)何の話をしたんですか。
加藤さん)そうサークルのこともそうですし、大学のこと、これからの自分の将来のこと。そういうことも話をしたかったんでしょうね。
それから、「お母さん、ちょっと背中が曲がってきたね」と言って、畳の部屋に私を座らせて、30分ストレッチしてくれたんですよ。後ろからこうしてゆっくりゆっくりと…。それが最後でしたね。
介護に追われる母親を思ってくれていた子だった
加藤さん)母の介護をしてたんで、やっぱり(私のことが)心配だったと思うんですね。一人で介護してたから。今だったら、医療や福祉の制度や施設もあるし、ヘルパーさんとかねそういった方に助けてもらえるんですが、あの当時は全部自分で、家族がやらなければいけなかったんで。私はもう付きっきりで、24時間体制で介護してましたんでね。それは心配だったと思うんですよ。
加藤さん)おふくろにね、喜んでもらえるような何かいい方法ないかなって考えてたらしくて、それが高校の時に高校の友達に手紙を書いていたんですね。
親父も単身赴任で出て行った。やがては、自分も出ていくと。そしたら、寝たきりの祖母を一人で介護しているおふくろを、どうやって励ましたらいいか。「お知恵があったら拝借したい」と書いた手紙を、高校の友達に送っていたんです。
その友達が、私に手紙を送って(転送して)くれたんですよね。「どうしても、加藤君のお母さんに知らせたい」って、「加藤君が何を考えてたか知らせたい」と言って…。お葬式終わって半年後に私に送ってくれたんですけど、それで初めてわかりました。こういうふうに貴光は思っていてくれたのかって。
大学に入ったら、一切、親からお金は受け取りませんでした
聞きて)お母さん思いの息子さんだったんですね。
加藤さん)そうですね。大学に入学する時、やっとそのころに「ショートステイ」っていう制度が始まったんですよ。
義母を1週間預かってもらって、初めて旅行に行ったのが、夙川のあの「Nマンション」だったんです。(入学するために西宮に向かう息子と一緒に)新幹線に乗って…。
聞き手)介護は大変だったんですね。
加藤さん)私がどこかへ出かけるってことができなかったんで、貴光が小学校3年の時からどこにもつれてってないんですよ。それでも辛抱してくれたんですね。
僕のためにお金使う必要ないって。授業料と、住む所を提供してもらっているのに、その上、自分の生活費やお小遣いまで送らないでくれって。大学に入ったら、一切(親からお金は)受け取りませんでした。
人生の目的のため、塾講師のバイトに
加藤さん)自分でアルバイトしてました。
聞きて)どんなバイトでしたか?
加藤さん)塾の講師です。神戸に山本塾って大きい塾があって、そこの、講師としてアルバイトしてたんですけど。保護者面談なんかも全部やってたらしいです。中学生の塾なんですけど。
何で中学生に教えるかっていったら、自分が中学校の時に、勉強も身に入らず、フラフラしてたんですよ。もう気力をなくしましてね。どうなることかと思ってたんだけど、3年生でいい先生との出会いがあって、それから、勉強に身が入るようになったんです。中学時代ってものすごく難しいって、自分をコントロールできないんだって…。だから勉強したくないっていう生徒を、勉強って面白いなっていうふうに育てたいといって。
これから、世界の平和、その活動に一番大事なのは後継者だって。だから後継の人材育成をしたいって。だからまず、難しい中学生を、勉学の方に向けてみたいって、面白い授業をやりたいって。それで、勉強が好きじゃないという子たちのクラスを持って、もう一生懸命だったんですよね。
聞き手)全部計画づくですね。
加藤さん)そうなんですよ。もう、自分の目標とするところに向かうためには今何をすべきか…。
<後編>へ続く
<2021年11月3日取材/2022年1月10日 アップロード>
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/20f92b58edd77c2d11f81ef0f19ad892
了
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