【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 医師)=姉・鉄子さん、母・惠子さんの証言=<後編>

 中條聖子さん(ちゅうじょう・せいこ、当時29歳、兵庫県立神戸高校卒、島根医科大学卒/医学部付属病院 第三内科勤務医師)は、神戸市東灘区魚崎中町2−4の自宅で亡くなった。
 棺の手配もできず、遺体の火葬もできない神戸市内から、前の勤務先だった兵庫県加西市の病院に運ばれた聖子さん。遺体は、病院宿舎に安置され、多くの元同僚たちが悲しい対面をした。
 震災2か月後には、梅田の駅ビルにあるホテルで「追悼会」が開かれ、高校時代の友人や、病院の同僚たちが別れを惜しんだ。
 神職の父・秀信さん(故人)は、被災地の復興とともに、地鎮祭に追われる日々だった。
 取材班は、大阪府寝屋川市の現在のご自宅を訪ね、姉・鉄子さん(64)、母・惠子さん(87)にお話をうかがった。

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(写真7:勤務中の中條聖子さん。加西市民病院で 1993年か1994年撮影)

元の勤務先の病院 宿舎には祭壇も用意され、棺も届いた

母・惠子さん)その前に、出棺式してくれたよね。
ききて)どこでですか?
姉・鉄子さん)岡本さんのお宅で。
母・惠子さん)簡単ですけれども、ちゃんとしてくださって。
姉・鉄子さん)で、一緒に加西まで行ってくださって…
母・惠子さん)夕方に着いた。結構時間がかかりましたのよ。
ききて)夕方ということは1月17日が地震で、19日に出発された?
姉・鉄子さん)お昼出発ですね。宮司さんも一緒に来てくれて。で、午後1時か1時半ぐらいに出発して。
母・惠子さん)ご近所の方がね、見送ってくださって。
姉・鉄子さん)1月19日の夕方、もう暮れてたかも。加西について、そしたらその、院長とか病院の職員の方とか何人か待ってて下さってて。ここにいて下さったらいいですよっていって。
母・惠子さん)ちゃんと、もう準備して。
姉・鉄子さん)棺はこっち(阪神間)ではとても調達できなかったらしいですけど、とりあえずむこうでは、棺も用意して頂けたんで。
母・惠子さん)祭壇も作っていただけてたし、で、棺が届いたのが、夜の7時過ぎでしたか。
母・惠子さん)雨が、みぞれっていうんですか。冷たい雨でした。
ききて)病院の皆さんも、かつて一生懸命働いてた聖子さんがそんな形で帰ってくるとは思ってもいなかったでしょう。
姉・鉄子さん)そうなんですよ、妹が神戸大に戻ることになった時に、職員さんとか、患者さんが、「聖子先生いてください」っていう嘆願書を書いてくださったりとか(笑)。職員の方も、もうちょっといてとか、帰らないでいいやんっていうのを随分言ってくださって。院長が、「たくさんの研修医見たけど、聖子さんみたいな子は本当にいない」っていって。「どこに行っても、必ずまた加西に戻ってきてな」って、「加西で仕事しような」って言ってくださったって聞いてたんですけどね。

(写真8:インタビューを受ける母・惠子さん<左>と姉・鉄子さん<右> 2023年10月29日 寝屋川市の自宅で)

医師、病院スタッフ、夜勤明けの看護師も 次々にお別れに来てくれた

姉・鉄子さん)その晩、聖子を安置してもらったら、本当にたくさんの方が、聖子とお別れにって、次々来てくださるんですよ。職員の方とかお仕事終わったりしたら来てくださって。患者さんにまではもう、病院の方からはいいませんって、すごい大変なことになるのでっていって。でも、本当にスタッフの人たちが本当に、本当に次々いっぱい来てくださって…。
(涙をぬぐう鉄子さん)
姉・鉄子さん)あんなに綺麗だったのにねとか、あんなに優しかったにねとか、いっぱい教えてもらったんですとか。病院の…看護師さんたちの勉強会なんかも、いろいろテーマ決めてやってたみたいで。そういうのにすごく何かいろいろ教えてくださったり、自分たちが調子悪い時に相談にのったり、すごくすごく、優しくってもうほんっとにいい先生だったんですっていって。患者さんたちも、待ち時間が長くなっても、本当に聖子さんの外来は患者さんがみんな待ってて、聖子先生と話すためにみんな来てたんですよっていって。病院移るときも、患者さんの申し継ぎに、病気のことだけじゃなくって「この人は自分が湿布とか欲しくってもよういわないから、聞いてくださいね」とかメモが書いてあるそうなんです。外来してても本当に、患者さんのこと親身に聞いて、こんな先生見たことないですって…本当に口々にそう言ってくださるんで…。

妹は、ここで頑張ってたんやなぁ

姉・鉄子さん)私たち家族にとったら妹って一番下だったので、まだまだ外へ行ってちゃんとできてるのかなとか思ってたら、もうすごいちゃんと立派に頑張ってたんやねっていうので…。ほんとに、聖ちゃんが、「私ちゃんとがんばってたよ」って。みんながそういってくださって、改めて…。
(涙をぬぐう鉄子さん)
新米だからいろいろあったんでしょうけど、それでもほんとにみなさん優しく接してくださって、ここでいられて幸せやったなって、すごくそれを思います。
(再び涙をぬぐう)
姉・鉄子さん)看護師さんなんかも、差し入れでおにぎりを作って来てくださって…。神戸大病院からも同僚の先生が、夜中、来てくださったり。本当にびっくりするような人たちがたくさんきてくれて。妹は、ここで私たちに知らせたかったんやねって。加西に戻ってきて、私こうやって頑張ってたよーっていうのを、ちゃんと見せたかったのかなって。加西の人たちいい人たちでしょっていうのも、自慢したかったのかなって思いました。
姉・鉄子さん)「ここで去年の冬は鍋をしたんですよみんなで」とか、「職員が集まってここの宿舎でいろいろやったんですよ」とか話を聞くと、本当にそこに妹がいるんやなと…思いましたけど。

ききて)でも病院のみなさんもショックだったでしょうね。
姉・鉄子さん)そうですね…ほんとうね…、まあでも加西にきっと戻りたかったんだなって。
(涙をぬぐう)

(写真9:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)

なきがらにお化粧もした

母・惠子さん)たくさんね、130人ぐらい。聖ちゃんが棺に入った時間からみなさんが来てくださった。夜遅くまで来てくれはったね。夜勤だったんで遅くなったいうて、看護師さんなんか。
姉・鉄子さん)私…なきがらにお化粧することなんて全然、思いもつかなかったんですよ、自分自身(笑)。そしたら、皆さん亡くなった方、看護婦さんとか処置されますよね。「お化粧品ありますか?」って言って。「あったら少しお化粧してあげたらいいですよ」って言ってくださって。その時にああそうなんだって…。本当に、妹に、最後に、お化粧して…。
ききて)お姉様がお化粧してあげたんですね。
(うなずく鉄子さん)
姉・鉄子さん)本当にね、目が大きい子で、ちゃんとまぶたがきれいに、下がっててもね、閉じないような感じで(笑)。本当に今にも、目開けてパサパサって、まつ毛揺れそうな感じだったんですけど…。本当に、傷がなかったんで…お顔も。足にちょっとだけ、すり傷みたいなのがあったのかな。
母・惠子さん)そうそうお布団をこう引っ張り上げてたから、足の先のところがちょっと、あれ机がこうひっくり返って、机で、傷がついたんだろうと思ったんですけどね…。
姉・鉄子さん)まさかって、本当に、こんな事があるんやなって。
姉・鉄子さん)次の日に、加西の市長さんも火葬場にきてくださって。
ききて)1月20日が火葬だったんですね。
姉・鉄子さん)その時も宮司さんいてくれたんかな。越木岩の宮司さん…。
母・惠子さん)うん。
姉・鉄子さん)葬儀の儀をしてくださって…。一部、ほんとに親しかった患者さんが2人ぐらい、朝来られたんかな。

震災前、大学病院を辞めたいと打ち明けていた

母・惠子さん)震災のちょっと前に、大学病院を辞めたいって…泣いたの。
ききて)どうしてですか。
姉・鉄子さん)お仕事がすごいやっぱり忙しかったんでしょうね。
母・惠子さん)忙しかったんでしょうね。
姉・鉄子さん)でまあ、いろいろやりたいことがあったんですよやっぱり。絵を描いたりとか、エッセイとか童話作ったりとか、そういうことも多分、すごくやりたかったんです。だから、いろいろ、時間があったら何かイラストを描いてみたりとか、ちょっとしたエッセイ書いたり。『ロマンス三国志』っていう、自分が作った「清濂(せいれん)※」っていうヒロインと孔明さんのロマンスなんかも、なんかの、応募のために書いてたらしくて。そういうことをしてみたりとか。あと、ちょっとこんなエッセイ書いたよとかこんな短編書いたよとかいうのもいってたんで、多分、そういうこともしたかったんでしょうね。学会とか、後進の指導とか、レポートとか、外来とかもあって…。

※「濂」の字は、原作では「さんずい」ではなく「にすい」。

母・惠子さん)しんどかったんだと思う。泣いてね。辞めたいって、自宅の、リビングのとこで泣いたの。
姉・鉄子さん)仕事辞めたいというよりも、とりあえず大学病院じゃないところに、行きたいっていう話で。でもそれだったら、どっかで、探してみるけど、今すぐにね、辞めるわけにはいかないよねって話はしてたんですけどね。
母・惠子さん)あの時、「じゃあ辞める?」って辞めさしたらよかったと思う。
姉・鉄子さん)まあ分かんないですやっぱり、何かいろいろ焦りみたいなのがあったのかもしれないですね…。
母・惠子さん)私ねあの時、「じゃあね、鉄ちゃんお姉ちゃんのところでね、ちょっとねゆっくりしたら」って。いろいろ気をつかう子だったから…思ったんだけど、しばらく泣いたあと、「もうちょっと頑張ってみるわ」っていったの。

おしゃれより、本が大好きだった

母・惠子さん)あんまり、おしゃれとかそんなものは興味がなかったみたいね。
姉・鉄子さん)時間があったらすぐ本屋さん行く人で(笑)。本をいっぱい買ってて。
ききて)だからお部屋に本がいっぱいあったんですね。
姉・鉄子さん)そうですね。
ききて)(聖子さんを)引っ張り出せないと、本に埋まってると分かった後、お父様は、あるいはお母様はどういう行動をされたんですか。
母・惠子さん)そうお向かいの方がね、旦那さんと息子さんが出してくださった。前田さんっておっしゃる、測量事務所をなさってる方だった。それでいろいろ、坊ちゃんも一緒に来て下さって、それで、外れかけた階段を、おふたり、前田さんとこ、もう1人お坊ちゃんが来てくれはって3人で来てくれはって。そして、前田さんの車で病院に。
姉・鉄子さん)六甲アイランド病院ね。

ご近所に甘えた、助けてもらった、うれしかった

母・惠子さん)聖ちゃんが亡くなったいうの、ご近所の方はやっぱり、知りますでしょ。そしたら「何かお手伝いしたいから」って来てくれはって。で、(いっしょにいた)孫がまだ4歳でしたからね。ほっとくわけにいかないの。
ききて)ご近所の岡本さんがうちに来なさいといってくださったんですか。
母・惠子さん)そうそう。ずっともう古くから、私らも昭和32年から住んでましたからね。みなさんご近所で、いい方たちばっかりだったんで。浜田さんも岡本さんも、建て替えはったから(地震で壊れなかった)。他のところはみんな潰れたんですよ、古いおうちは。建て直したおうちだけが残ってて。でそこへ、声かけてくださったんでね、甘えました。助かった。うれしかったです。

(写真10:神職だった父・秀信さん。震災の19年後の2014年に88歳で他界した)

自転車で西宮と行き来していた父

ききて)その時、お父様のご様子はどうでしたか。
姉・鉄子さん)父は、いろいろ役所へ行ったりしてましたよね。このあと、遺体とかどうしたらいいんだとか、結構動いてたよね、お父さんね。
(うなずく惠子さん)
母・惠子さん)車が出せなかったから、西宮の越木岩神社まで自転車で行って。
姉・鉄子さん)越木岩まで自転車で行ったの?
母・惠子さん)車なんか通れませんかったからね…。もう私はみっちゃん…孫がね(気がかりで)。
姉・鉄子さん)あのとき4歳ぐらいやったと思う。3年保育に行きはじめてた。
ききて)目を離せないですよね。
姉・鉄子さん)岡本さん家に娘と同い年の子がいたので、普段から結構よく遊んでたね。だから娘はお友達のところ行って遊んでたから(笑)。でもしばらく、やっぱり音とかはすごい怖かったみたいで、トイレを流す音とか、いろいろすごい怖がってましたけど…。

患者さんを助けて来た妹が、何ら医療を受けられず亡くなった

姉・鉄子さん)救急で来られたら、心臓が止まってますみたいな患者さんとか、いろいろ危ない患者さんを助けてきたり、そういうのに関わってきた本人が、何ら医療を受けられずに亡くなるんだなと思うと、なんかすごい、ちょっと、ねぇ…。こんなものなのかなって思いましたけど…。
ききて)大混乱の中で、いつもならできる医療ができなくなっていたんですね。
姉・鉄子さん)これがほんとに、同じ…日本の中でこんな事が起こるんだと。

(写真11:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)

ききて)お姉様は寝屋川の医院をまた開けなきゃいけなかったんですね。
姉・鉄子さん)そうですね。だから加西で葬儀していただいて。その翌日にはもう私、寝屋川に帰って来たのかな。
母・惠子さん)うん、その晩ね、もうお葬式終わって、結構早い時間に出たんですけども、渋滞でね、住吉川のあたりからものすごく、もう進まないんですよ車が。で帰ってきたのが夕方だった。で、岡本さん家へ帰ってきて、それで前田さんとか、みなさんご近所が寄ってくださってお葬式から帰って。そして、そこでね、いつまでも、岡本さんとこで、ご迷惑かけるわけにいかないし。私たち、ちっちゃい子どもも連れてましたしね。でどこか、すぐにでも住めるところがないかなと思って、聖ちゃんを出すのを手伝ってくれた測量事務所の前田さんにお話ししたら、すぐいろいろ手配してくださって。甲南山手ってございますでしょ。あの近くに、お部屋が1つ、結婚するために予約してた方が、震災で少し延期するから言うので。
ききて)空いた部屋が?
母・惠子さん)あるから、そこを世話してくださって。とりあえずそこへ、お布団と、とにかく何とかできるそれだけを持って、移って。それで、甲南山手のところから鉄ちゃんは、リュックしょって、寝屋川と行ったり来たりして。
ききて)あの時はみんなリュックとマスクで移動してましたよね。
姉・鉄子さん)そうですね、ほんとリュックでしたね。ですから、神戸ではみんなそうなのに、電車乗ってて大阪に近づいてくると何か全然違うんですよね。すごいギャップが大きかったんですけど(笑)。
ききて)あの時は「震災ルック」とかいって、神戸の人みんなはリュックを背負って歩かなきゃいけない。しかも時間もかかるし。
(相槌を打つ鉄子さん)

東灘の甲南山手から、一家で寝屋川に移る

姉・鉄子さん)お父さんは結構、片づけをしに行ったりとかしてましたね、家のね。
母・惠子さん)3月の追悼会までは、その甲南山手にいました。で、こちら(寝屋川)におうちが見つかったから、引っ越そうかといって。そこから、こっち(寝屋川)へ(移りました)。孫がまだ小さかったです。アスベストで、いろいろね被害が出てると困るからいうんで、思い切ってこっちに来たんですよ。
姉・鉄子さん)でも父はその後もずっと甲南山手に残って。
母・惠子さん)ちょっとマンションを作ってね、神戸の跡地のところに。
姉・鉄子さん)自宅跡を潰して、しばらく自分もそこに住んで、賃貸で人に…。
母・惠子さん)主人もそこで、管理を兼ねて住んでたんですけども。だんだん年がいって、やっぱり心配でね、1人置いておくのが。年いってくるとね。で、震災後11年か12年たって、寝屋川の医院の近くの神社の宮司を頼まれて、こちらに移りました。

(写真12:大阪・梅田のホテルで行われた追悼会には多くの友人や同僚が参列した 1995年3月21日撮影)

震災2か月後に「追悼会」 手作りの冊子を配る

姉・鉄子さん)3月に、追悼会をしましょうという話になって。大阪・梅田のホテルグランヴィアで。
母・惠子さん)電車が、JRが動くようになって、みなさんがちょっと集まれるようになって。3月の20日。
姉・鉄子さん)地下鉄サリンのあの日。
母・惠子さん)帰り、大阪からここに帰ってくるときに、(事件を大きく報じる)夕刊を見ました。だからあの日だと思う。そこまではもう、本当に何をしたか覚えていない…(笑)。
ききて)追悼会はどんな方が来られましたか。
姉・鉄子さん)これが追悼会の時にお配りした、これをもとに『夢半ば』とかいろいろ作ったんですけどね。
(追悼会で配布した冊子を開く鉄子さん)
母・惠子さん)追悼会に間に合うように、作ったよね。
姉・鉄子さん)うん、間に合うように、これはみんなで、ワープロ打ってくださったり、コピーをしてくださり、コピーしたものをまた医院でコピーして。で、綴じて。それとこのメモリアルアルバムと、このポートレートみたいなのをお配りして。
(封筒からポートレートを取り出す鉄子さん)
ききて)(追悼会で配布された冊子に載っている)この絵は聖子さんが描かれたものですか。
姉・鉄子さん)聖子の絵です。この辺に吊ってるものは全部聖子の絵です。
(室内の壁に飾られている絵を指さす鉄子さん)
姉・鉄子さん)聖子の神戸高校時代からのお友達だった、古林さんっていう方がいて、その方とそのお母様とが、追悼でいただいたお手紙なんかをできるものはワープロ打ちしたり。で、その原稿作ってくださって、それをコピーして、うちの医院で、みんな手伝いに来てくださって、綴じて作ったんですよ。

(写真13:追悼会で配布された冊子)

あのとき、どうして助け出せなかったんかなぁ

ききて)何人ぐらい集まられましたか。
姉・鉄子さん)追悼会何人来た?
姉・鉄子さん)たっくさんやったね。
母・惠子さん)グランヴィアさんで追悼会するのは初めてっておっしゃって。やから、これからの参考に、いろいろとしますのでって、協力してくださいました。
ききて)みなさん混乱の中でお別れがなかなかできなかったから、そういう会があるとみなさんやって来られたでしょうね。
母・惠子さん)…本当に。
姉・鉄子さん)この『夢半ば』(追悼の本)を作ったのはいつ?
母・惠子さん)1周忌。1年祭のときに。
姉・鉄子さん)1年祭か。
母・惠子さん)あのとき、聖ちゃんはどうして助け出せなかったんかなって、そればっかり思いますね…。
ききて)でもこの(冊子に載っている)お手紙の中に、お母さんに宛てたお手紙もお姉様に宛てたお手紙もたくさんあって、聖子さんはすごく家族思いですね。
母・惠子さん)聖ちゃんもわりかし、家族やからいうてあんまりわがままもいいませんし、案外…気遣いを、お互いが気遣いしすぎて…聖ちゃんもあんまり心配かけまいと思ってるとこがあって…。
(惠子さんにアルバムを差し出す鉄子さん)
母・惠子さん)あっ、これ追悼会の時のです。3月、グランヴィアでした時の。
姉・鉄子さん)こっちが1年祭。妹の『森のかんづめ』(絵本)とかを、みんなにお配りしたので。これは翌年だわ多分。結構このときも人に来てもらってたと思うんですよね。

(写真14:聖子さんの原作を元に制作された『森のかんづめ』)

お誕生日に、1月17日に 届く花やメッセージカード

姉・鉄子さん)聖子のお友達っていうのは、みなさんこう、長く、わりと深くというか。だから今でも、10月13日のお誕生日にメッセージカードをくれたりとか。
母・惠子さん)毎年送ってくれはる。お手紙下さる、聖ちゃんに。
姉・鉄子さん)震災の日にも必ず、フラワーアレンジを習ってらっしゃって、手作りのそれを送ってくださったり。今でも1月17日は神戸大病院の同僚の先生とか、神戸高校の時のお友達からお花が届いたり。

ききて)今度は震災29年。次は30年ですよね。
姉・鉄子さん)追悼会の時もすごいたくさん来てくださったし。一年祭の時は川本喜八郎先生(聖子さんが好きだったNHKテレビの人形劇『人形歴史スペクタクル平家物語』の人形作家)が来てくださって。
ききて)多くの人に愛されたんですね。聖子さんは。
姉・鉄子さん)聖子の書いてた童話で、この『森のかんづめ』っていう絵本も出版することになったり(初版1997年1月19日)。『森のかんづめ』を広めたいねって、お友達が神戸市の小学校中学校に配ってくださったりして。
母・惠子さん)人形劇も、してくれはったね。
姉・鉄子さん)山口県の人形劇団が人形劇をして好評だったので。東北の震災の後そちらの方にも公演に行ったりとか。被災地の小学校と全国の福祉施設、養護施設に1冊ずつ送らせてもらいましょうということで、送らせてもらって。

(写真15:人形作家の川本喜八郎さんから贈られた人形。聖子さんの創作『ロマンス三国志』の孔明とヒロイン 2023年10月29日寝屋川市で)

地鎮祭で走り回った父 バタバタしてたから生きてられたんやと思う

母・惠子さん)お父さんも地鎮祭で忙しかったよね。
ききて)被災地でさら地になって、何か建物を建てる時には、お父様はお仕事というか地鎮祭をやらなきゃいけないわけですね。
姉・鉄子さん)越木岩神社さんのお手伝いで、地鎮祭に走り回ってましたね。
母・惠子さん)お父さんの神社は地震で壊れてしまって。日吉神社っていう神社。その再建もしないといけませんしね。
(新聞記事を出す)
姉・鉄子さん)神社を再建した時の。
母・惠子さん)みんなバタバタしてたね。
姉・鉄子さん)バタバタしてたから、生きてられたんやと思う。
母・惠子さん)そう。そう。
姉・鉄子さん)目の前にやらないといけない事がすごくあったので。でなかったら本当に止まってしまったかもしれない。
母・惠子さん)ほんとにうつ状態になってたかもわかりません。

(写真16:聖子さんの遺品や資料が、段ボール箱に入ったまま保管されている 2023年10月29日寝屋川市で)

妹のマツダ「ルーチェ」に乗りつづけた父

ききて)新聞記事で紹介されたマツダのルーチェ。これはどういう自動車なんですか。
母・惠子さん)今も置いてます。
姉・鉄子さん)そう。父と妹と同じ車だったんですよ。父もルーチェに乗ってたんですけれど、震災の後、寝屋川から神戸に帰る時かな、事故をして、車が結構駄目になって。ちょうど妹も同じルーチェだったので、色が違ったんですけど、妹のルーチェにそのまま父が乗ることになる。
ききて)あー。そうだったんですか。
姉・鉄子さん)それでずっと地鎮祭も行ったし、ずっとそれに乗っていました。
母・惠子さん)いつも聖子と一緒だって。
姉・鉄子さん)20万キロ以上乗ったんじゃない。
母・惠子さん)今も1ヶ月に1回は動かしてます。
ききて)とりあえず動かさないと機械が。
姉・鉄子さん)動かなくなっちゃうんでね。

(写真17:マンションの駐車場には聖子さんのルーチェが停められていた。震災後は父・秀信さんが乗っていた 2023年10月29日寝屋川市で)

絵を教えていた父 信仰を深めた父

ききて)絵も上手いですね。聖子さんね。
姉・鉄子さん)父がもともと神戸市の小学校の美術の教諭なんです。定年退職までずっと学校の先生をしていました。やりながら、父も神官の、神職の資格を勉強してとって。
母・惠子さん)鉄子が生まれたときから。
姉・鉄子さん)私が生まれた時に先天性の心疾患で、あんまりもう長くないっていわれて。父にしてみれば、なんとかそれを助けてほしいということで。それで信仰するようになって。で、私がとりあえず元気になって神様へのお礼というかちゃんとご奉仕するということで、父はちゃんと神職を取って、で、神社に奉務することになった。
ききて)聖子さんは医師として働かれる中で、患者さんにも絵付きのお手紙を書かれている。
姉・鉄子さん)そうですね。便箋とか封筒とかいつも持ち歩いていて、お手紙をくださる方には必ずお手紙を返してました。
姉・鉄子さん)すごい気を遣う子です。自分がこれをこうしたいとかこっちをやりたいと思ってても、でもこっちの方が相手はしたいんだろうなと思ってたら自分の方を一応あきらめるというか。
母・惠子さん)相手を立てたね。
姉・鉄子さん)もうめっちゃ真面目でしたね。何に対しても。

(写真18:聖子さんのイラストや絵。震災後に一家が引っ越した寝屋川の自宅に飾られている)

それぞれが頑張って生きていたこと 覚えていてほしい

ききて)震災が神戸で起こったということを、大学でどのように語り継いでいけばいいと思いますか。
姉・鉄子さん)次々震災があったり、いろんな災害もあったり、戦争もそうですし。時代とともに、みなさん覚えてらっしゃる方、関わった方が亡くなっていかれて…。そういう中で、みんなそれぞれ、ちゃんと生きてましたよって、精いっぱい頑張ってましたよって、だからそれを、覚えてていただきたい。やっぱり忘れないで、今みんなの礎のもとに私たちいるんだよっていう気持ちで、やっぱり毎日を大切にしていってほしいなっていうのをすごく思います。
ききて)お母様はいかがですか。
惠子さん)私はもう、逃げたい気持ちがいっぱいありましたけど、こういうところから逃げたい、逃げたいと思ってすごく苦しみましたけど。やっぱり、孫が、少しずつ大きくなってくるんですよね。やっぱりここで、逃げるわけにはいかないなと。この孫がやっぱり一人前になるまでは、もうちょっと少しでも世の中の役に立つと言ったら大げさですけれど、ちょっとでもこう自分のやりたいこと、それがこうできるように手伝ってやりたいなとは思ってます。

(写真19:インタビューを受ける姉・鉄子さん<右>と母・惠子さん<左>)

ききて)姪の満子さんは覚えてらっしゃいますよね聖子さんのこと。
姉・鉄子さん)そうですね。ちっちゃい時にね、よく遊んでもらって。それこそリカちゃん人形で遊んでもらったりとか。セーラームーンごっこをしてもらったりとか。そういうのでは結構覚えてるみたいですけどね。
姉・鉄子さん)聖ちゃんが亡くなっているっていうことで父も母もみんなすごいしんどいんだな、というところとか、娘は娘でずっとそれを感じながら生きてきてるんですよね。なのでやっぱりどこかこう、私は聖子ちゃんの代わりでなくちゃいけないんだっていう、そういうプレッシャーは結構大きいとは思いますけどね。
母・惠子さん)それはやっぱり、私としたら、しんどいです。思わせるのがね。でもやっぱり。
姉・鉄子さん)みんながそれを望んでしまうというか。そこは。みんなに応えたいというか、やっぱり自分は家族の一員なんだからっていうのは、ずっとあの人は思って頑張ってきてると思うんですけど。
姉・鉄子さん)やっぱりおじいちゃんともすごい仲よかったですし、神社を手伝いに行ったりとか。私も神職を取って、娘も神職の資格を取って。
ききて)そうなんですか。
姉・鉄子さん)そういうこともやりたいねっていうのもずっと思ってますし。やっぱり娘は娘なりにこの家族のもとに生まれてきたんだということで、ちゃんと、つないでいかなくちゃいけないというか。その思いを、みんなが頑張ってきたんだよっていうのは、よく分かってると思います。

(写真20:姉・鉄子さんの医院のデスクには聖子さんの写真が 2023年10月29日 寝屋川市香里本通町で)

治すことだけが医療じゃない

ききて)神戸大の医学部付属病院は震災の時に大変な状況になりました。若い医療関係者に、何かメッセージはありますか?

姉・鉄子さん)生きたくても生きられなかった人いるって。傷を治すとか病気を治すってことだけが決して医療じゃない。その背景にあるもの、相手の立場とか相手の状況とかいろんなものを分かって一緒にこれ治そうねとか、この病気を治すために頑張りましょうねとかっていうふうな先生になって頂けたらいいなと思います。
ききて)震災からまもなく30年ですよね。患者さんを大切にした聖子さんですから、多くの被災者に寄り添う医療をしたかったでしょうね。
姉・鉄子さん)やっぱり忘れないでほしいですよね。一括りで何百人っていうことではないですもんね。一人一人にちゃんと大事にしてた人生があり、家族がありですもん。
母・惠子さん)聖ちゃんの事を覚えておいてほしい…。
ききて)お休みのところ、つらいことを思い出させてしまい申しわけありませんでした。ありがとうございます。しっかり記録にとどめるようにします。

(写真21:神戸大医学部研修医のころの中條聖子さん。1990年12月9日、神戸港で。姉・鉄子さんが撮影)

<2023年10月29日取材/2024年1月10日 アップロード>
(取材:笠本菜々美、川﨑成真、蔦旺太朗/奥田百合子、村上愛純)

【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 第三内科勤務医師)=<前編> 【慰霊碑の向こうに】17 故・中條聖子さん(当時 医学部付属病院 医師)=姉・鉄子さん、母・惠子さんの証言=<前編> | 神戸大学NEWSNET委員会 (kobe-u-newsnet.com)

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(写真22:聖子さんの追悼作品集『夢なかば』)

【慰霊碑の向こうに】連載フロントページ= https://bit.ly/4aODyT2

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