今年三月に富山県立山連峰大日岳で遭難した溝上国秀さん(文・当時二年)が七月十一日に遺体で発見されてから一ヶ月。中学・高校時代の友人と共に溝上さんの想い出を振り返ってみた。【8月11日 神戸大学NEWS NET=UNN】
厳しく、そして楽しく登る 4人の仲間と歩いた6年間 明星中学・高校時代
一九九二年四月、溝上国秀さんは中学に進学する。TVゲームや読書が好きだった少年を待っていたのは、究極のアウトドアスポーツ「ワンダーフォーゲル」と、その面白さに惹かれて集まった四人の仲間だった。中辻弘和さん(現在大府大二年)、吉野大輔さん(神戸大二年)、中山耕太郎さん(北海道医療大一年)、そして南佑亮さん(阪大三年)。溝上さんを加えた五人の少年たちは、その後六年間の多くの時間を共に過ごすことになった。
中学受験の難関を突破した溝上さんは、地元尼崎市から大阪市内の私立明星中学に入学。最初のクラスで、席が前後だった南さんと親しくなった。先にワンゲル部で楽しく活動していた南さんの話を聞き、入部を決意。溝上さんとワンゲルの出会いだった。中辻さん、吉野さん、中山さんも一年目から入部し、五人のワンゲル生活が始まった。
中・高一貫教育の明星学園では、クラブ活動も中高合同がほとんど。高校生が中心となって行う練習は、体が特に小さかった溝上さんにはきついものだった。「ランニングでも、集団からいつも一緒に遅れて走ってましたね」と吉野さんは苦笑する。しかしそれは、「自分にも、他人にも厳しく」がモットーだった溝上さんのプライドが許さなかった。自主練習を人よりも多くこなし、次第に周囲に負けない体力と技術を身に付けていった。その努力は、次第に先輩にも認められていった。溝上さんが使っていた登山道具は、ほとんどが先輩からのお下がり。溝上さんがいかに可愛がられていたかを表している。
部内での溝上さんは、「嫌われ役」だった。クラブの厳しい規律を維持するために、どんな嫌な事でも口に出した。同学年のリーダーだった南さんにもよく注文をつけた。「彼はよく私にも怒りました。後輩に対しての態度がなっていない、もっと厳しくしろ、と」。他の同級生も、「正論ばかり吐きやがって」と憎たらしく思ったこともあったという。しかしそんな「嫌われ役」も、時々ポツリと本音をもらすこともあった。「俺だって本当はこんなこと言いたくない。でも誰かが言わないと」。責任感は人一倍だった。
アウトドア派に転向した溝上さんだったが、一方では読書やマンガといった趣味も持ちつづけていた。特に読書には強く興味を持ち、クラブの先輩と毎日のように文学談義に花を咲かせていた。周りがそれを見て「よくそんなに話すことがあるな」とあきれるほどだった。ジャーナリストに憧れ、本多勝一の著作を特に好んだ。そんな彼が大学進学で文学部を選んだのも、当然の流れだったといえる。
高校を卒業して散り散りになった五人は、たまに集まってはワンゲルの話で盛り上がった。溝上さん以外の四人は、大学のワンゲル部には所属していない。その理由を中辻さんは「大学のクラブにはちょっと負けないという自信、プライドがあった」と話す。一方で大学でも迷わずワンゲル部を選んだ溝上さんは、集まる度に「本格的で楽しい」と大学クラブの魅力を語った。ほとんど山に本格的に登らなくなっていた四人は、うらやましそうに耳を傾けた。
「今度こそみんなで、大雪山黒岳に登ろう」。昨年の春に溝上さんらが交わした約束だ。中学二年の夏にチャレンジしたものの体力面で及ばず、高山病にもかかって失敗に終わっていた。北海道の最高峰への憧れと悔しさは、その後ずっと溝上さんの心に残っていたのだろう。しかしその約束は、果たされないままに終わった。
四人は今も信じているに違いない。「連絡してこないけど、溝上はまた山に登っているんだろうな」。
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