緊急連載「大学から震災の灯は消えたか」第10回。毎年、UNN加盟の神戸地区3大学(神戸大、関学、神女院大)を中心に続けていた震災特集だが、2003年は関学が掲載を見送った。関学編集部に大きな影響を与えたのは、学生ボランティアが震災の日前後に白いリボンや花を配っていた「白いリボン運動」の終了。7年間続いていた活動を、02年を最後にやめた。この運動を取材した当時の金澤浩平編集長(関学・4年)は惰性で続けることの限界を感じたが、翌03年に同運動の代表者が個人で白いリボンを配っていたことを知る。「継続していくことの大切さ」をもう一度見直した。現在の震災特集班も継続することの難しさを感じながら、自問自答の活動を続けている。【8月2日 UNN】
8月2日の関学上ヶ原キャンパス。前日の関学生による広島の「原爆の子の像」折り鶴焼失事件を受けて、UNN関西学生報道連盟に加盟する関学新月トリビューン紙の記者たちがキャンパス各所を取材で駆け回っていた。 そのうちの1人、金澤浩平さん(関学・4年)は、応援で、広報課での談話とりに駆り出された。昨年末で現役を引退してから、約半年ぶりの取材は新鮮だった。
今年1月17日の読売新聞の記事を見て、金澤さんは驚いた。
前年2002年1月の取材で、7年間続いた「白いリボン運動」にピリオドを打つ、と言っていた山本有紀さん(当時=関学3年)が、ひとりでリボンを配る姿の写真が出ていたからだ。
「白いリボン運動」とは、毎年1月17日前後に白いリボンや白い花を身につけ、ひとりひとりの震災への思いを表現しようという活動だ。
学生ボランティア団体の「関学ヒューマンサービスセンター」によって行われていたが、議論の末2002年で終了することを決めた。
「変わっていかなければならない。もうそろそろ誰かが区切りをつけなければ。10年という大きな節目に向かってやるような延命的な処置は取りたくない」と当時代表の山本有紀さんは金澤さんの取材にこう話していた。
続けるかどうかの葛藤の末、「白いリボン運動」を終えることを決断した山本さんを見て、金澤さんは「惰性で震災報道を続けるくらいなら、やめたほうがいいのではないか」と思うようになった。
それからほぼ1年が過ぎた。金澤編集長は、2003年1月の神戸大、神女院大との共同編集の震災特集から降りて、発行を12月に前倒しすることに決めた。ビッグイベント「甲子園ボウル」をかけた関学-立命の結果を早く掲載したかった。
「震災特集の編集メンバーでも、震災を実際に体験した者が少なくなり、興味を持って進んで取材をしようとする人は少ない」。特集の掲載見送りに踏み切った。?
1997年1月号の震災特集以来、「関学新月トリビューン」は、UNN関西学生報道連盟に加盟する他紙、「神戸女学院大学K.C.Press」、「神戸大ニュースネット」とともに、毎年1月、震災特集の共同編集を続けてきた。
その震災報道の土台を支えた一角が崩れた瞬間だった。
しかし、関学が特集の掲載見送りの方針を打ち出したことに、神戸大からも神女院大からも、異論はなかった。
「反発を覚悟していたけど、拍子抜けだった」と金澤さんはいう。
震災特集キャップで神戸大の岩崎昂志編集長(3年)は言う。「UNN内で、話し合う場が持たれなかったのは事実。関学の紙面は関学の編集部が決めることだ」思っていた。
リボン運動をやめたはずの山本さんが、ひとりででもリボンを配ると記事にあった。
この1年、関学の編集部は、ヒューマンサービスセンターのメンバーの動向はフォローをしていなかった。結果的に読売新聞に抜かれた。
そして2003年1月の震災特集「体験者として伝えること」は、関学の学生に配られる紙面に、掲載されることはなかった。
広島の事件の取材。広報課のコメントを後輩と整理しながら、「現役部員はよくがんばっているな」と思った。
金澤編集長は「継続していくことが、大切なことだ」と思い知った。「(他大学の編集部員と)もう少し話し合っていれば、(震災特集を見送るという)結果は変わっていたかもしれない」。
「時間がどんどん過ぎていく中で、伝え続けていくことは難しい」と岩崎編集長。「震災当時のように、内から湧き上がる感情的なものによって、震災を報道することは、僕らにはできないかもしれません。『なぜやっているのか』と、伝える意味を考えて、報道していくことしかできないと思う」。
続けている意味を自問自答しながら「震災報道」は、続く。
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