辛くても、忘れない 震災経験した呉美英さん

阪神・淡路大震災で犠牲となった呉ショウさん(当時=経営・2年)の友人で、同じアパートに住んでいた呉美英さんが2月13日、震災後初めて下宿跡を訪れた。14日には百年記念館で行われた被災地留学生サミットに参加。当時の様子やその後の人生について語った。【2月15日 神戸大NEWS NET=UNN】?

 韓国人の美英さんと中国人のショウさんが出会ったのは、大学に入学する前の日本語学校時代。同じ名字ということもあって当時から仲が良かった2人は、神戸大に入学し同じアパートに住むように。1階にショウさん、2階に美英さん。料理を分けあったり、CDの貸し借りをしたり、一緒に勉強をしたりするうち、2人はますます親密になった。「会わなくてもテレビの音やお皿を洗う音が聞こえる。国籍は違うけれど、そばにいるだけで安心した」。?

 15年前のあの日、美英さんらが住んでいたアパートは1階が倒壊。ショウさんはガレキの下敷きになった。美英さんは遺体だけでも出そうとしたが、周りの人に助けを求めても「応答のある人が先」と言われ返す言葉がなかった。遺体がガレキから出されたのは、美英さんが韓国に一時帰国してからだった。?

 友人のために何もしてやれなかった自分を責め、ふさぎこむ日々が続いた。だが、震災から1年後、上海にあるショウさんの実家を訪れたことが転機となった。そこには、両親によって大切にされているショウさんの遺骨があった。「また会えてよかった。ご両親のそばにいるからもう安心だね」。肩の重荷が取れ、ショウさんの分まで頑張って生きる決意をした。?

        ◇         ◇          ◇?

 震災から15年がたち、美英さんの中では記憶が薄れていたはずだった。サミットの主催者である工学研究科の近藤民代教授から、「15年前の話をしてくれないか」と誘われたときも「語ることなんてない」と思ったという。?

 だが、下宿跡で「箱」と呼ばれる慰霊碑と向き合うと、「タイムマシーンに乗って当時に戻った」ような感覚に襲われた。火事の様子、町に立ちこめていたにおい、道路に並べられた遺体。生々しい記憶が一気に押し寄せ、涙があふれた。?

 「箱」には、同じアパートで亡くなった3人の学生の名が刻まれた竹灯ろうと花が添えてあった。「私は神戸のことは好きだけど、そこに住む日本人とは違うんだと思っていた。でも、こうやって(友人のことを)覚えてて、(慰霊碑を)きれいに大事にしてくれてるのを見ると、『私たちも神戸市民だったんだ』と思えてうれしかった」。?

 震災によって負った傷は、消えることもなければ薄れることもない。思い出したくない辛い記憶を、心の奥に閉じ込めていただけだった。「辛いことも悲しいことも、全部私の人生のうち。だから、忘れないで頑張っていこうと思う」。旧歴の大みそかと正月だった13、14日は、美英さんにとって忘れられない2日間となった。

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