明け方の静寂は、ごう音と共に打ち崩された。1995年1月17日午前5時46分、最大震度7の激しい揺れが兵庫県南部を襲い、6434人がほぼ1日で死亡した。神戸大のメインキャンパスが位置する神戸市灘区の死者は933人、40%の住宅が全半壊となった(都市住宅学会調査)。そして39人の神戸大生と5人の教職員、神戸商船大(現海事科学部)の6人を合わせ、50人の学生と教職員の命が奪われた。神戸大にとって戦後最大の災禍となった阪神・淡路大震災。学生街やキャンパスが被災地と化した「あの時」を振り返る。
ニュースネット委員会初代編集長だった里田明美さん(当時=自然科学研究科修士課程)は、国際文化学部キャンパスに近い灘区高羽町の下宿で被災。突き上げられるような縦揺れでベッドから振り落とされた。暗闇の中亀裂が入った道を歩き向かった付近の小学校で、「南の地区がひどい」と聞いた。農学部の保田茂教授(当時)は徹夜明けの研究室で激しい揺れに襲われた。本やガラスの破片が散乱する中、机の下に潜り「九死に一生を得た」。ふと窓の外から街を見ると、JR六甲道駅付近から赤い炎が上がっていた。
里田さんはJR六甲道駅前に歩みを進める。駅舎の1階はつぶれ、高架橋も落ちかかっていた。高架の南は倒壊した住宅が道をふさいでいた。里田さんはそこで「ただならぬことが起こった」と感じ、引き返した。発達科学部の澤宗則講師(当時)は、JR線の南に住む両親の安否を確認するため、灘駅まで遠回りしようと歩いた。途中、自宅が全壊した人々が皆無言で周囲をさまよったり、時折叫びだすのを見た。JR六甲道駅から桜口交差点にかけての区域一帯は、倒壊と火災ですっかり廃虚群と化していた。
午前9時ごろ、下宿で被災した学生が大学に集まり始める。里田さんも研究室の仲間と無事を喜び合った。大学にいた教職員は学舎の安全確認を急いだ。社会科学図書館では書架が転倒し、書籍が散乱。研究棟ではガス漏れ、実験器具の破損、薬品の流出などが起こり危険な状態だった。夕方までに学生や一般市民が200人以上大学に避難。一方、大学生協の食料は売り切れ、行政からの差し入れはリンゴ2ケースのみ。水も給水車の到着を待つ状態だった。余震が続き、不安な夜が過ぎていった。
18日から他大学からの救援物資が続々と到着。避難者は2000人にのぼり、国際文化学部体育館や工、農学部会議室などが避難所となった。グラウンドには復旧支援のため自衛隊が駐屯した。20日以降徐々に避難者全員に食糧が行きわたるようになっていった。
一方、学生の安否確認作業は難航した。当時は安否確認のシステムも無く、教職員が学生名簿に記載された連絡先に1件ずつ電話をかけた。しかし電話がつながらなかったり応答がない事例が多発し、サークルの同級生に安否を確認してもらうことも。そして学生に多数の死者が出ていることが次第に明らかになった。21日時点で判明した死者は学生だけで約20人。学生課の新見博三課長(当時)が「死亡学生の名前が分かっても本人だという最終確認が取れない」と話すなど、錯綜した様子がうかがえる。39人の学生が亡くなったことが分かったのは28日だった。
30日は発災後初めての登校日となり、学生たちは仲間と無事を喜び合う一方、住まいや友人を失い途方に暮れる姿も。全ての科目の試験はレポートに切り替えられ、混沌とした状態のまま春休みを迎えた。
●復興プロセス 学生がけん引
被災地となった神戸大では学生ボランティアの活躍が目立った。1月22日には神戸大生ら有志が「学生震災救援隊」を結成。学内外の避難所やテントで物資支援を行ったほか、フリースクールで子どもたちを教えた。医学部では緊急医療活動に学生と教員が尽力。学内避難所の運営に当たる学生や、研究室の教員と被災調査を行う学生も多かった。他大学からも3月8日までにおよそ200人の学生ボランティアが駆けつけた。
大学は4月から通常通り授業を再開し、学内の避難所も11月中にすべて解消された。被災者には仮設住宅での生活など課題がつきまとう一方、キャンパスは元の日常に戻っていった。
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