- Home
- コラム, ニュース, 文化・社会ニュース, 阪神・淡路大震災
- 【慰霊碑の向こうに】? 故・森 渉さん(当時法学部4年) =母・尚江さんの証言=
森渉さん(当時22歳、大阪府立泉陽高校卒、五百旗頭(いおきべ)ゼミ/軽音楽部)は、神戸市東灘区本山中町4丁目9のイーストハイム1階西に下宿していた。
1995年1月17日午前5時46分の地震発生時、当時の堺市の泉北ニュータウンの実家でも大きな揺れ(大阪市中央区で震度4)を感じた。母・尚江(ひさえ)さんも、揺れで目が覚めたという。翌18日、父・茂隆さん(故人、2016年没)が電車で神戸に向かい、JR摂津本山駅近くの下宿にたどり着いた。
そこで見たのは、1階がつぶれ、2階がその上に乗っている状態の渉さんのアパートだった。
今は京都市東山区に住む、母・尚江さん(82)を訪ね、2016年に亡くなった茂隆さんから聞いた話も合わせて、震災直後の状況を教えていただいた。
(写真:地震の3ヶ月前の森渉さん。1994年10月22日、姉のリサイタル会場の神戸・風月堂ホールで撮影。)
何十回も電話をかけました。すでに死んでることを知らないから…
きき手:地震があった1月17日当日、お母さんはどちらで揺れを経験されましたか?
母:泉北ニュータウンの高倉台(現在の堺市南区)というところにおりました。すっごく大きな揺れがあったというわけではないんですが、それでもかなり感じました。主人と2人で目が覚めましたよね。すぐテレビつけたら、はじめはあんまりたいした放送しなかったんです。渉はスポーツマンだし、体格もいいし、めったなことがあるなんて夢にも思ってないもん。
きき手:電話をかけられたそうですね、下宿に。
母:渉の下宿の部屋の電話は通じてるんですよ。なぜか知らないけど。ちゃんと切れずにね。だからコールがなるんですよ。何十回もね、私電話をかけました。その時はすでに死んでることを知らないから…。
(写真:渉さんの写真のある部屋で、震災直後の様子を語る森尚江さん。2019年12月1日、京都市東山区の自宅で。)
アパートは2階が1階になっていた
母:私達クリスチャンなんですね、その日は午前10時ごろにキリスト教の集会がありましてね、教会に行っておりましたら、そこに神戸大学の学生の親がうちともう一人いて。「まだ帰ってこないわ」と言うてるところに、そのお母様が、「子どもがおかげさまで帰ってきました」と言いはってね。渉ももうすぐ帰ってくるわといいながら、待てど暮らせど帰ってこなくて。それで父親が電車で神戸に向かいました。
姉・祐理さんが父・茂隆さんから聞いた話によると、茂隆さんは18日朝、神戸に向け出発。動いていた阪急電車で西宮北口まで行き、そこから先は東灘区本山中町まで徒歩だったという。(「現代ビジネス」西岡研介 2015年2月11日 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/42057 )
母:渉はJRの芦屋の次の駅、摂津本山駅の近くに下宿してたんです。Sさんいう立派な資産家のおうちがありまして、そこのところに簡単な下宿を、8人が住めるような細長い、今はもうガレージになってますけど、そういう下宿屋さんをやってたんですよね。渉が一番端に住んでたんですよね。
きき手:2階建て。1階に4軒。2階に4軒。渉さんは一階の西端に住んでいらしたという記録があります。
母:完全に2階が1階になってましたからね。主人の話ではあんまりその体に傷はなかったみたいですけれどね。(周りの人に)手伝ってもらったり自衛隊の人とかにね、助けてもらって、足が見えて、手が見えてという感じで。それでなんとかあの、持ち上げて引き出してくださって…。商船大学が遺体安置場所やったらしいんです。自衛隊の車で運んでもらって。ずらーっと遺体が並んでる状況やったらしいんです。
(写真:アパートは、渉さんの部屋のあった1階が潰れて、2階がその上に乗った状態だった。地震翌日、1995年1月18日、神戸市東灘区本山中町で撮影。)
「落ち着いて聞けよ。渉はだめだった」
母:近くで火事が起こるし、大変だったみたいです。それで主人は(公衆電話の列に)並んでね、私に電話かけてきまして…。
きき手:何時頃ですか?
母:私そのころパニックだったから、あんまりしっかり覚えてないわ。
きき手:どんな内容でしたか?
母:第一声がね「落ち着いて聞けよ」と言って、それだけが頭に残ってるんです。落ち着いて聞けよって言ったんですわ。私それでもう、ふぅっとなったみたい。
きき手:じゃあそこから先は覚えてない?
母:渉はだめだった、という意味だったと思いますけど。だいたい言葉数の多い人じゃないから簡単に言ったはずですけれど。「渉はだめだった」いう意味のことは耳に残ってますね。
きき手:電話は一応最後までお聞きになった?
母:しっかりしてなさいということを主人に言われて。主人の妹が泉北ニュータウンの竹城台というところに住んでまして、すぐに来てくれました。祐理は、なかなか東京からも交通事情が大変だったんですね。やっとのことで帰ってきて。
姉・祐理さんは、18日の夕刻に叔母から知らせを受け、19日の朝一番の関空発の飛行機で堺市の自宅に戻ったという。
きき手:父・茂隆さんは電車で神戸に向かったので、渉さんを堺市に連れて帰るためには自動車が必要でしたね。
母:泉北キリスト教会に所属していたので、教会のメンバーの人たちも大変だということで駆けつけてくれて、自動車で行ってくれてたんです。男の人達が大きいワゴンみたいな車で、神戸に向かってくれたんです。
(写真:堺市南区の泉北キリスト教会)
きき手:お母さんは一緒に行かれなかったんですか。
母:私はもうとてもそんな状態ではなかったです。私なんかまだ若かったんやけども、あきませんでした、もう私は。結局、主人は18日の晩を商船大学ですごして…。
きき手:ワゴンに乗って渉さんが帰ってきたのは何日でしたか。
母:結局、翌19日でしょうか。記憶があるから。まだ明るかった。大きな車だったし、神戸の国道43号線が通れなかったとかで、それでもう時間がすごくかかったと聞きました。
パジャマ姿で帰ってきて… 座敷に寝させた
きき手:お宅に帰ってこられたときは出迎えたんですか?
母:お座敷にね、寝させて。それでもうね、ありがたいことに体がつぶれたりだとかそんなことは全然ありませんでした。パジャマ着てましたけどね。まだ朝起きてないから。パジャマ姿でしたね。娘の祐理は渉の顔が…とかちょっと言ってたけど、私はその記憶がない。渉がそんな汚くなったような記憶が本当にないです。
きき手:渉さんのご遺体を前に、どんなお気持ちでしたか。
母:しっかりと受け止めなあかんとおもいましたけれどね、突然のそういうことにあいますとね…。人間というものは、そんなになかなかしっかりとはできません。もう。ましてやね、親が子供を失くすということはすごく大きなことです。
きき手:目の前のできごとを受け止められない…。
母:それは、クリスチャンとしてね、そういうことはいつも聖書から学んではいるんですけれどね。もうどなたもそうだったと思うけれど、呆然としてしまうということにつきますね。
ゼミ、軽音楽部… 500人以上が葬儀に
きき手:家に帰ってこられてから、お葬式ですね。
母:うちのお葬式、1月21日だったかしら。(ゼミの担当教官の)五百旗頭先生がものすごくいい追悼の言葉を書いてくださって、立派な文章だったんです。それがお葬式で。光明池の泉北メモリアルホールです。
姉・祐理さんの記録には、1月22日の日曜日に告別式が行われたとある。
きき手:どれくらいの方がこられたんですか
母:すごい方がこられて。もう500人以上やったって聞いてます。ゼミとか、その軽音楽部の人達とかね。(被災地に)下宿してるお友達なんか、もうこれしかない言うてね、着の身着のままで、そんな感じだったみたいでねえ。
きき手:友人のみなさんのお話を聞かれていかがでしたか。
母:お友達の中でこうやって皆さんに受け入れてもらってる子やったんやなということがわかって。22歳でもこれだけ充実して人生を送ったんだというそういう気持ちも、私にはありましたね。
きき手:すごく凛々しい、いい写真ですよね。
母:イソップ物語だったかな、ヨーロッパのおとぎ話だったかしら。猟師が鳩たちを撃とうとしたら、鳩のお母さんがね、「どの鳩を撃っても構わないけど、この鳩の中で一番美しい鳩だけ撃たないでね。それは私の息子だから」と言うんですよ。わかったわかった一番きれいな鳩は撃たないからと、猟師が鳩を撃つんです。お母さんに見せたらね、お母さんが「それは私の息子よ」って言ったというそういう話があるのね。母親から見ると自分の息子は最高に美しい、ただし猟師から見るとそうではない、という寓話なんですよね。私だってそういうだろうなと。母親の切なさというものはそういうものなんだなとね。
(写真:就職活動のために撮影した写真。)
新聞社に内定して 今は天国で取材してる
きき手:渉さんは、読売新聞社大阪本社に内定されていましたね。
母:(前の年の)3年生のとき、一番最初に決まったの。
きき手:もともと渉さん新聞に興味があったのですか?
母:なんかね、ピューリッツァー賞かなんかねとるいうて。まだ夢大きい時代だったんですよ、あの子はね。政治を語るっていうのにものすごい興味がある子でしたね。神戸大学新聞にも、そのころエッセイか小説かをずっと書いていたらしいけど、そんなの何も(手元に)ないもん、ねえ。(下宿が)潰れてしまってるから。
きき手:新聞社の研修のお写真もありますね。
母:おなじ神戸大学の法学部から、中川君という方も入られて。今、海外特派員で新聞に名前が時々載っているんですけど。毎年1月にはメッセージカードをつけて、お花をくださるの。「お母さん。僕は渉のためにも頑張ります」とそういってくれるからね、もう息子みたいに思ってね。
主人は、「渉は天国で取材してるんやから、もう嘆くな」と時々言ってましたけどね。中川君がこの世で取材して、渉が天国で取材して、とそう言っていましたけどね。
週に1回帰宅して、私の料理を食べながら話してくれました
きき手:アルバイトは何をされてましたか?
母:神戸にいましたけれど一週間に一度、土曜日に泉北の家に帰ってきて中学生の家庭教師をしておりましたの。帰ってきたら、私の料理を食べながら、いろんなもうそれこそ時事的なこととかもね話してくれました。
きき手:やっぱり一年生の最初から下宿生活だったんですか?
母:いや、しばらく、ほんのしばらくは通ってたけど、常識的に考えて泉北から通うのはちょっとね…。一年生の夏ごろから下宿生活を始めました。
きき手:下宿は、東灘区本山中町でしたね。下宿を決めた時は一緒に行かれました?
母:確かに行きましたね。摂津本山いうとこにね。
母:大家さんのSさんがねぇ、「私どものアパートにいたばっかりに」とおっしゃるんやけど、絶対そんなことはない。それは渉の持って生まれた運命やから、といつも言ってるんです。
きき手:Sさんとは今でもおつきあいがあるんですか。
母:はい。いいおつきあいさせていただいています。もう90歳を過ぎておられます。
母:素敵なガールフレンドがいてね、経済学部の人で。長いこと独身でいましたけどね、とうとう結婚しましてね。ものすごく優秀な子で、今ね英語の翻訳して暮らしているそうです。
きき手:渉さんが亡くなったということは彼女は知っておられた?
母:知ってるどころか、それこそ下宿の引き出しの荷物なんかを整理してくれてました。どろどろになったのかなんかをね。たくさんのお友達が渉のためにしてくれてましたね。
(写真:堺市泉北高倉台の実家の前で、母、姉と仲良く写真に収まる 1994年10月22日撮影)
中学・高校とバスケ 文学青年でした
きき手:小学校はどちらに…?
母:泉北ニュータウンの高倉台小学校というところに行きました。私たちが結婚してしばらくは、(大阪府北部の)枚方におりましてね。(大阪府南部の)堺市の泉北ニュータウンが売り出されたので、そこでくじ引きが当たりまして、高倉台に。小学校2つできましたわ。東と西とでね。そんななか、渉たちは高倉台の小学校に入りました。
きき手:中学校はどちらに?
母:三原台中学いうところ出たんです。中学はバスケやってた。
きき手:高校では?
母:高校は府立泉陽高校でバスケを続けたいって言いましてね。震災の後もね、高校時代の友達なんか、涙が出るくらい、もう集ってくれました。
母:ちょっとだけ、死んだ子ですから自慢させてください。あの子は、文学青年なんですよ。模擬試験の国語の試験の時にね、夏目漱石が試験に出たんですって。そしたらその問題を読んでるだけで何にも試験ができなかったって。もう夢中になってしまって。まあそういうような文学的な知的好奇心のある子でした。
棺のなかで新しく買ったスーツを着せて、天国に行きました
母:で、大学では軽音ですね。テナーサックスいうの…やってました。
きき手:神戸大学に行きたいって言われだしたのは、いつごろだったんですか?
母:神戸大学には、まず五百旗頭先生に憧れたのと、それから神戸って「かっこいいな」っていうので。私立いっぱい受けたらすごくお金がかかるから、それ受けんかったから「いい時計買ってくれ」言うてね、高い時計を買ってやりましたね。
きき手:お祝いの品として時計を。
母:それから読売新聞に決まったとき、スーツを1着買わなきゃいうことでスーツを買ったわ。高いスーツだった。で、お棺の中でそれを着せて、天国に行きました。
(写真:卒業式のあと、五百旗頭眞教授と父・茂隆さん。ゼミ生に囲まれて撮影した。1995年3月24日)
五百旗頭先生はほんとうに可愛がってくださいました
きき手:追悼手記に、五百旗頭先生の弔辞の内容が一文だけ載っています。「志を持って生きるもの、愛を知るものの目の輝きを持っていた森くんこそ、短いが充実した生を楽しみに、充実の最中で、輝きを持って飛び去ることができた幸せ者かもしれません」と。
母:思い出します。先生はほんとうに可愛がってくださいました。
きき手:ご主人は言葉数の多い方ではなかったけれども、震災後はさらに無口になったとも書かれています。
母:それは多分、娘の祐理が言ったことばじゃないかと思うんですけど、「お父さんは感情を外に表さないから、もっともっと泣かないとダメよ」って祐理は言ってましたけどね。
(写真:風月堂ホールで行われた姉のリサイタルでは撮影係を任された。1994年10月22日)
風月堂の前で立ったまま泣いていた。なんかもう涙が溢れて溢れて…
祐理さんが、神戸元町の風月堂ホールでリサイタルをされた時の写真がある。渉さんが、撮影係として記録写真を撮っていた。
母:あれ震災から何年目やったか…私、神戸元町の風月堂、あそこの前で立って泣いてたんです。なんかもう涙が溢れて溢れて…。そしたら道を歩いてた方が慰めてくださったということがありましたね。
渉は幸せです。愛されているから
母:主人は、学生時代は京都の下鴨あたりで下宿してたんですよね。京大生なんてみんな貧乏学生なんですよ。聖公会いうキリスト教の一つの派の平安女学院の大学の先生のお宅で、主人は息子さんの家庭教師させてもらって。そこで、クリスチャンにはなりませんでしたけど聖書を学ぶいう機会を持ったみたいなんですね。もう祐理は先にクリスチャンになりましたけど。おかげさまで、悲しみの涙に朝から晩までくれるというんじゃなくて、悲しみの中にも希望の光を見出すような感じでね…しばらくしたあとですよ、そりゃあすぐ後にはやっぱりね、もう泣いてばっかりいたけど、そういう風にしてきました。
きき手:祐理さんは歌手として活動していらっしゃいますね。
母:お姉ちゃんはね、福音歌手っていう仕事してるから、そういう意味では渉はいっつも話題の中ではいわゆる主人公になってるから、そういう意味で渉も幸せですね、そういう意味では…。祐理は毎年自分が主催でね、渉を含めて、震災で亡くなった方へのお祈りを、(神戸市東灘区の)御影の教会で毎年してます。
きき手:渉さんと、姉の祐理さんとはどうだったんですか?
母:ものっすご仲良しでした。だから、祐理はどうしてもこれをせずにはいられない。そういう意味でも渉は幸せです。愛されてるんですもん。
(写真:机上には福音歌手として活躍する祐理さんの写真がある。)
関心を持って欲しい 語り継いでいってくださいね。
きき手:僕たちの活動は、今年(2019年)1月17日の大学の慰霊献花式に現役の学生が誰もいなかったことから始まったんですけれど、今の学生へのメッセージはありますか?
母:ものすごくたくさんの方が亡くなってるわけでしょ?だから震災があったということに関心を持って欲しいなとは思います。渉みたいなこともありえるんですからね。災害はだれにでも突然襲ってくるんですよね。だから生きてきてきたことをね、大切にして、さらに人生を楽しむ。そういうように過ごしてもらえたらねぇ…。25年も前のことなのに興味持たれるってのはありがたいことだと思いますので、何かの形でね、また語り継いでいってくださいね。
母:やっぱり、取材されていると、年が経ってくるにしたがって遺族たちのコメントも変わってきません?傷が癒えてくるというのも確かだから…。でも、私たちの場合は子供でしょ?癒えない傷なんですよ。だらだらと血が滲むような傷はたしかに癒されてくるけど、絶対に癒されない。それはどの親御さんも一緒だと思うんですけど、絶対に癒されないのね。お若いみなさんのお顔をこうして見てるとね、(息子も)こんなんだったなぁと、思いますね。
こわれた家から 持ち帰りきた Tシャツパンツ
洗ってたたみおり もう着ない子に
逝きてすぐに 23歳になりし子の
写真も少し おとなびて見ゆ
天国(みくに)とは どこですか どこですか
この母に 新しい住所 電話 教えて
一九九五年一月
(2019年12月1日インタビュー きき手:森岡聖陽、長谷川雅也、前田万亜矢、渡邊志保)
了
<2020年1月5日アップロード>
《連載記事》
【慰霊碑の向こうに】? 一枚の写真から
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/b81d5f93f24d4db312586b32da0838da
【慰霊碑の向こうに】? 故・戸梶道夫さん(当時経営学部2年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/023b839a782ed062de6f26d1d5f0919b
【慰霊碑の向こうに】? 故・高橋幹弥さん(当時理学部2年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/7165089761eef41f45c9d3eae84c1870
【慰霊碑の向こうに】? 故・高見秀樹さん(当時経済学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/eb2e066042bfb01d561385907b64f44a
【慰霊碑の向こうに】? 故・坂本竜一さん(当時工学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5c9a8898fafde156a8091d6fac45d615
【慰霊碑の向こうに】? 故・中村公治さん(当時経営学部3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/a65c964c3ba5baa556ab126cf22dc1f1
【慰霊碑の向こうに】? 故・森 渉さん(当時法学部4年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/51f49f1abe823bdfa978ca6c6addd922
【慰霊碑の向こうに】? 故・竸基弘さん(当時自然科学研究科博士前期課程1年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/bbbdb927d2917cdde7834b73e8dfd2b4
【慰霊碑の向こうに】? 故・白木健介さん(当時経済学部?課程3年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/5cf5033cc4e75acb06952295dad255aa
【慰霊碑の向こうに】? 故・工藤純さん(当時法学部修士課程1年)
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3f0215cb9c0ff23b43149a3076ccb645
【慰霊碑の向こうに】番外 亡くなった学生の家族からのメッセージ
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/c6a974c72827bb82f3339b2381077f8b
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。