写真パネル展「#知らなかった震災25年」 ?困難に直面した神戸大

 1995年1月17日午前5時46分に発生した「阪神・淡路大震災」。直後から、下宿が倒壊したり、ライフラインが止まって下宿に住めなくなった学生らが大学にやってきた。さらに、体育館や会議室に市民らも避難してきた。混乱の中で、本部には対策本部が設けられ、各学部では学生の安否確認が進められた。阪神・淡路大震災25年を前に写真パネル展「#知らなかった震災25年」では、困難に立ち向かった神戸大学の貴重な写真も公開する。12月16日(月)、17日(火)、1月9日(木)の3日間、神戸大学鶴甲第1キャンパス 1階ラーニングコモンズ 「パフォーミングスペース」で開催(主催=神戸大メディア研)。10:00?17:00。


↑市民の避難所になった国際文化学部の武道場。フロアは暖房がきいていないためか、避難者は厚着をしている。手前の、「大阪府」と書かれたダンボールの箱の上には、無料で届けられた新聞各紙が置いてある。右側の人が覗き込んでいるのは、配給の食料と思われる。地震発生10日後の、1995年1月27日撮影。
<写真=神戸大メディア研/ニュースネット>


↑災害対策本部が置かれた、本部庶務部のフロア。 1995年1月28日撮影。
<写真=神戸大メディア研/ニュースネット>


↑発達科学部グラウンドや六甲台グラウンドは、救援の自衛隊が駐留する拠点になった。写真は発達科学部グラウンド。1995年1月27日撮影。
<写真=神戸大メディア研/ニュースネット>


↑学内の掲示板に張り出された、放送委員会の「特報」(関西学生報道連盟配信)には「神大生、20人以上が死亡」の見出しが見える。 六甲台本館東の渡り廊下で 。1995年1月27日撮影。
<写真=神戸大メディア研/ニュースネット>

 当時の鈴木正裕学長は、多くの教え子を亡くし次のようなコメントを残している。
 「大震災でもっとも辛かったこと、と問われたら、躊躇なく39人もの学生たちの尊い命を散らしたこと、2000人を超える被災者を受け入れたが、その救済にあたる教職員自身が被災者であったことの二つをあげたい」。
 「学生諸君に犠牲者がでたのではないかと案じていたが、大学本部にも3日目ぐらいから、時に具体的な名前を伴って死者の数が入りだし、しかもその数は聞くたびに増える一方であった。教師としてはいてもたってもおれない断腸の思いであった」。
↓本部対策本部の鈴木学長。1995年1月27日撮影。
<写真=神戸大メディア研/ニュースネット>

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

月別アーカイブ

サークル・部活総覧

  1. 神戸大のサークル・部活のツイッター・アカウントを探せるぞっ!クリックすると、『神大PORT…
  2.  神戸大学の文化系のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随…
  3. 神戸大学のスポーツ系のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随…
  4. 神戸大学の医学部のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随時更…
ページ上部へ戻る