【震災の日の神戸大は…】 ? 研究室から神戸の街を見ると何本も煙が立ち上っていた 里田明美さん(当時自然科学研究科修士)

 多くの命が奪われ、家々が崩れた阪神・淡路大震災。その直後の神戸大学周辺は、どのような事態に見舞われたのだろうか。当時自然科学研究科修士1年だったニュースネット委員会・初代編集長の里田明美さん(現・中国新聞記者)は、灘区高羽町の下宿アパートから、六甲道駅近くに降りて行くと高層マンションのガラスがことごとく割れ、駅は鉄道の高架が落ちて、六甲道周辺の風景は一変していた。そして、大学の研究室にいったん避難。窓から神戸の街を見ると、いくつもの煙が立ち上っていた。

<2019年11月10日に行われた神戸大学六甲祭でのトークセッションの内容を掲載します。このイベントは、写真パネル展「震災25年 あの日、何があったのか」の会場の六甲台本館の206号教室で行われました。聞き手は、震災のときに神戸市灘区鶴甲の実家に帰省していた、元NHKアナウンサーの住田功一さんです。>


(写真:六甲祭のトークセッションで語る里田明美さん=右=。2019年11月10日。経営学部206号教室で。)

住田)後ろの写真パネルにもありますが母校の神戸大学がこんなことになるとは、私も思ってもいませんでした。国際文化学部(現・国際人間科学部)の武道場が避難所になっていますし、六甲台グラウンドと鶴甲第2キャンパスグラウンドには自衛隊が野営し、救助活動の拠点になりました。神戸大生は39人が亡くなりました、学生だけで39人です。教職員、生協の職員、名誉教授も合わせて44人が亡くなりました。私は、学生たちは若くて元気なので、生き埋めになってもはい出せると勝手に思い込んでいたんですが、特に木造のアパートで梁の直撃を受けたり、出られなくなったところに火が迫ってきたりということで31大学の112人の学生が亡くなりました(文部省1995年3月16日まとめ)。

学生の犠牲者で一番多かったのが神戸大学の39人。甲南大学18人、関西学院大学15人、神戸商船大学は学生と研究員合わせると6人。そのほか阪大、京大、大阪教育大、大阪工大、関西大、龍谷大、武庫川女子大など多くの大学の若い命が失われた。


(写真:避難所になった神戸大学。国際文化学部<現・国際人間科学部 鶴甲第1キャンパス>の武道場。1995年1月27日撮影)

住田)同じ教室で行われているパネル展に、昨日は約400人の市民が来場しました。今日も100人以上がお見えになっていまして、幼いお子さんを連れた方もたくさんパネルをご覧になっています。阪神・淡路大震災当時10歳だった人が今35歳、だいたいそれくらいの年齢の方がお子さんと一緒にご覧になっています。そういった世代にも、これからの子供たちや孫たちにどうやって阪神・淡路大震災を伝えていくのか。あの直後に何があったのかをひも解くことから始めていこうと思います。
里田さん、よろしくお願いします。
里田)お願いします。
住田)生まれは広島ですよね。
里田)はい、瀬戸内海に江田島という島がありまして、そこで生まれ育ちました。

突き上げる揺れ ベッドから落ちないよう片手でつかんだ

住田)そして、広島の女子大で4年間学び、そのあと神戸大学の大学院、自然科学研究科の修士課程に進んで、1995年1月の阪神・淡路大震災を経験しました。1月17日午前5時46分過ぎ。地震が発生した時はどこにいたんですか。
里田)灘区高羽町(たかはちょう)の軽量鉄骨2階建てのアパートの一階の部屋で寝ていました。
住田)高羽町は、山すその町なんですけれど、六甲登山口と高羽交差点との間のエリアにあります。一か所だけ、高羽小学校のそばに小さな谷があって、幅3メートルほどの静かなせせらぎのような高羽川が流れています。住んでおられたのはこの緑色に塗られているアパートですね。「高羽ハイムN」と書いてあります。どんな揺れだったんですか。
里田)ベッドで寝ていたんですが、下から突き上げられて目が覚めました。そのあと左右に大きく揺さぶられて…。ベッドから落ちないよう片手でベッドをつかみ、もう片方で布団をかぶり、揺れが収まるまで待っていました。


(写真:里田さんの住んでいた下宿アパートはいまもある。一番奥の青いアパートが「高羽ハイムN」。右側に高羽川が流れている。2019年10月撮影)

住田)音は?
里田)よく覚えていませんが、ゴオーっという感じだったと思います。新幹線に乗った時、トンネルを通過するときにゴオーって聞こえるあの音がしばらくは怖くて仕方なかったので、たぶんあれに似た音だったのだと思います。
住田)命が危ないとか、思われましたか?
里田)大きな地震だというのは分かったんですが、そんなことを考える余裕はありませんでした。とにかく揺れが収まるのを待った。揺れが収まってテレビを付けようとしたんですが、電源が入りませんでした。
住田)停電だったわけですね。
里田)電気もつかなかった。電話をかけようと思って受話器を取り上げたけど無音でした。
住田)電源が必要な電話だったのですか。
里田)ファクスと一緒になっている加入電話でした。当時は携帯をまだ持ってなかったので…。
住田)そうでしたね。みんな下宿生も加入電話に入っていた時代でしたね。
里田)とりあえず、その後は「逃げなきゃ」と思い、外に出ました。コートを羽織って家を飛び出しました。近所の人の「避難所は高羽小学校」だという声が聞こえたので、そちらに向かいました。そしたら毛布やコートをひっかけた人たちが続々と集まり始めていました。
住田)みんな家から飛び出して?
里田)そうですね。集まっている人の話を聞いていると、みんな似たようなことを思っていたようです。「(地震の少ない)神戸がこれだけ揺れたのだから、東京はもう壊滅したんじゃないか」と。そのときはどこが震源なのかしばらく分からなかったんです。
住田)NHKテレビの録画を後でみたんですけど、最初は神戸と洲本の震度が入らないんですよ、気象庁から。豊岡や彦根、京都が震度5というのは入ったんですね。午前6時ちょっと過ぎたくらいに神戸で震度6っていうのが入ってきて。それで神戸が震源の近くなのかと分かった。
おそらく、テレビを見ることができた人やラジオを聞くことができた人はそこで分かったということなんです。テレビは外では見られないし、ラジオも携帯のラジオを持ってないと聴けない。だからそれをキャッチした人から、口伝えで伝わってくる。そんな感じだったかもしれないですね。
里田)高羽小学校の下の道路で夜が明けるのを待っているときには、情報が何も入って来ませんでした。ただ「JR六甲道の方の南側がひどい」という声は聞きました。でも神戸全体がどうなっているのかは全く分かりませんでした。


(写真:六甲祭のトークセッションで語る里田明美さん=手前=と、聞き手の住田功一さん。 2019年11月10日。経営学部206号教室で。)

住田)私は、地震の瞬間は、実家のある鶴甲団地にいたんですが、相当強い縦揺れだけだったんです。近所の人はみんな、車のドア開けて頭をつっこんでカーラジオを聞いていましたね。お向かいの柴藤さんという方が車を持っていて、灘区内の様子を見に行ったんです。鶴甲から神戸大学越しに写真を撮っておられます。六甲道あたりから煙が上がっています。徐々にどこが(被害が)ひどいかということが分かってくるんですね。高羽小学校にはいつまでいたんですか?
里田)30~40分はいたでしょうか。辺りが少しずつ明るくなりはじめると、道路に点々と血の痕がついていました。けがをした人がいたのだと思います。私は周囲がどうなっているのか気になり、歩き始めました。

道路には血の痕、一帯は酒の匂い…六甲道方向に歩き始めた

住田)どんなルートを?
里田)六甲道から大学に上がってくる坂道を逆に下るルートです。最初はブロック塀が崩れている家を見かけました。高羽温泉の近くにあった酒屋さんでは、瓶がたくさん割れたんだと思うんですが、一帯はお酒のにおいがしていました。六甲道駅近くでは、高層マンションのガラスがことごとく割れていました。付近には毛布をかぶった人たちが座り込んでいました。

里田)いつも見ていた六甲道周辺の風景は一変していました。駅は鉄道の高架が落ちていました。もっと南に進もうとしましたが、建物が崩れて道をふさぎ、行けなかったので同じ道を引き返しました。すると高羽温泉の横にあった公衆電話に人がかなり長い行列ができていたんです。


(写真:六甲道周辺はビルも傾くほどの激震が襲った。灘区森後町3丁目、六甲本通のアーケード南端付近。神戸市提供)

駅は鉄道の高架が落ち、六甲道周辺の風景は一変していた

里田)家の電話は使えないけど、公衆電話は使えるんだと分かりました。「神戸がこんな状況だから実家に電話しておいた方がいいかも」と思い、急いで家に戻り、10円玉と100円玉を握りしめて、その行列に加わりました。
住田)それが何時ごろですか。
里田)朝7時20分ごろでしょうか。実家に電話できたのが7時50分くらい。話せたのが30秒くらいでした。
住田)30秒? みんな並んでいるからですか?
里田)そうです。農作業に出かけようとする父親が電話に出ました。「神戸で大きな地震があってね…」と言うと「広島もよく揺れた」と。それで「とりあえず生きてるから」と伝えたら、「生きとることぐらい知っとる」と、父親は何も心配していませんでした。神戸は広島と同じくらいの揺れだと思ってたんですよ。
住田)生き死になんて、何を大げさなことを言ってるんだ、みたいな普通の親子の会話ですね。

心配した広島の友人が次々に実家に電話をくれた

里田)でも昼ごろのニュースではかなり詳しく神戸のことが報道されていたようです。そのころから広島の友人たちがどんどん神戸の私の下宿に電話をかけてくれたらしいのですが、もちろんかかるわけもなく…。かからないから私の実家に電話をかけ直してくれたようです。それで両親が「朝、電話がありました」と私の無事を伝えたそうです。
住田)「里田さんは大丈夫だろうか?」「元気なの?」っていう電話が実家にみんなかかってきたんですね。
里田)20~30人くらいかけてくれたようです。ありがたかった。
住田)みんな心配したでしょ? だって高速道路がひっくり返ってるし、炎が上がっているという街の中に里田さんがいるっていう認識ですもんね。

大学生協でカップ麺を1個買って

住田)公衆電話からご実家に連絡を入れたのが午前7時50分頃。そのあとは?
里田)下宿は電気もガスも水道も止まっていて、暖房も付けられないので、大学に行こうと思いました。いつものように寺口町の工学部に出る道を上っていると、大きな音でラジオをかけている家がありました。そのときに「けが人200人」というのが聞こえてきました。8時半くらいだったと記憶しています。
住田)どの坂道を登ったんでしょう。
里田)高羽小学校と公園のある辺りから道路を渡ったところにある坂道です。
住田)じゃあ、かなりの坂ですね。工学部のある台地にあがったんですね。
里田)当時は工学部の横にグラウンドがあって、そこを横切って研究室がある自然科学研究棟に向かいました。でも「何か食べ物を買っておいた方がいいかな」と思い、理学部近くにある生協のランスの売店に寄りました。
住田)売店は開いてた?
里田)開いてたんですよ。9時くらいですね。
住田)で、何買ったんですか?
里田)パンなどすぐに食べられるものは売り切れていたので、カップラーメンを1個買いました。それをポリ袋に入れて歩いていたら、ご近所の方だと思うんですが「どこに行ったらお店が開いているんですか」と聞かれました。
住田)ちょっと不思議な光景ですよね。カップ麺一つ持って…。食料たくさん仕入れておこうと思わなかったんですか。
里田)思わなかったです。よく考えたらお湯はどこで調達すればいいのかも考えてなかったですね。


(写真:自然科学研究科棟1号館=中央の建物=のある六甲台第2キャンパスからは神戸市街地がよく見える。2018年3月撮影)

大学には学生たちが次々に集まってきていた

住田)それで、だんだん自然科学研究科の方にも近づいて行った。
里田)着いたら研究室にはどんどん学生が集まってきていて。文化住宅の2階に住んでいた先輩は一階がつぶれてしまい、しばらく柱か何かにぶら下がっていたと話していました。
住田)それは建物が倒壊したっていうことですね。みんな危ない目に遭い、命からがら逃げてきた学生もいたわけですね。研究室は電気ついてたんですか?
里田)ついてないです。地震で揺れた時、夜通し研究していた先輩が研究室にいました。揺れた瞬間、すぐに机の下に潜ったらコンピューターが全部落ちてきたそうです。使えるかどうか分からないけど一応(机の上に)置き直したと言っていました。
住田)電気がついてみないと分からないわけですね、壊れたかどうか。

研究室でつくった雑炊を分けあって食べる

里田)そのあとは、雑炊を作ってみんなで分けあったのを覚えています。理系の研究室って夜中に研究している人が多くて、ベッドやコンロや鍋や食器があった。食料も少しあったんです。
住田)ガスが来た?
里田)ガスじゃなくて、カセットコンロ。雑炊はみんなで分けたからお茶碗に少ししかなかったです。午前11時くらいでしょうか。
住田)昼前。でもその時間に温かいものを食べられたのは、ほんとにラッキーでしたね。
里田)地震直後は、わけがわからない状態でしたけど、だんだんと大変なことが起きていることに気付き、怖くなりました。「次にご飯が食べられるのはいつだろう」って。そう思ったら無性におなかがすいてきたんです。なので、あのとき食べた雑炊は本当においしかった。感動しながら食べました。
住田)おいしい肉が入っていたとか、そんなんじゃないでしょ?
里田)卵が入っていただけ。
住田)何人くらい研究室にいました?
里田)10人ぐらいですね。修士課程と博士課程。

住田)たしかに、次に自分の命が危ないかもしれないっていう恐怖はずっとありましたよね。緊張で全身の毛穴が閉じるような。
里田)私のいた自然科学研究所棟の7階は当時すごく眺めがよかった。でもその日の光景はいつもと違っていました。研究室から神戸の街を見ると、いくつか煙が立ち上っていた。だけどサイレンの音は聞こえない。


(写真:鶴甲から市街地を撮影した写真。画面右端に神戸大学の学生会館や本部棟が見える。六甲道あたりから上がる煙も見える。 1995年1月17日午前7時過ぎ。柴藤哲也さん撮影)

住田)たしかに私の記憶でも、最初は町はしーんとして、煙だけは静かに上がっているという感じでしたね。そして昼から夕方ということになってきますよね。

先輩たちのマンションに分散して避難

里田)研究室にいても生活はできない。だけど研究室のメンバーの中には下宿が無事だった人もいて、住める家に分かれて避難しようということになりました。私は篠原中町か本町の女性の先輩のマンションに避難しました。そこは、電気は止まっておらず、貯水タンクがあったので、しばらく生活できるかもしれないということで行きました。
住田)何人ぐらいで?
里田)4人ですね。女性2人、男性2人。修士と博士の先輩です。
住田)とりあえず、身を置くところをそこにしようと。何時ごろ決断してそこに行ったんですか。
里田)何時だったかは覚えていません。でも午後にはグループに分かれていました。食料がないと何日も過ごせないので、とりあえず家に戻り、ニンジンと玉ねぎと、パスタ・乾麺をバッグに詰めて持って行きました。
住田)余震は感じましたか。
里田)もう何十回、何百回と感じました。部屋の中にいても神戸の街のことは分からないので、テレビを見ながら、神戸の状況を知ろうとしていました。
住田)どんなことがテレビに映っていましたか。
里田)どんどん死者の数が増え、行方不明者とけが人も増えていった。にわかには信じられない状況でした。テレビ中継で救急車や消防車のサイレンの音が響いていましたが、マンションの外からも道路を走る消防車や救急車のサイレンが直接聞こえていました。
住田)つまり朝は静かに煙が上がっていたけど、午後になるとひっきりなしにサイレンが聞こえてくる。その先輩のマンションで、いよいよ夜が更けていくわけですが…。
里田)でも揺れるし、サイレンの音はするし、神経が高ぶっているし、眠れませんでした。

水も出なくなり、先輩のマンションで過ごすのは難しくなって

住田)白々と夜が明けて1月18日になります。記録を見ますと、翌日には阪急電車が西宮北口まで開通しましたね。
里田)私、そのニュースをテレビで知ったと思うんです。1日半たち、ちょうど貯水タンクの水も切れたので、もうこれ以上先輩の家で過ごすことは難しいという判断もあり、みんなで西宮北口に向かうことになりました。各自がリュックやかばんに荷物を詰めて西宮北口まで歩きました。19日の朝だったと記憶しています。

住田)当面危険な神戸にいる意味はないわけですね。いずれにしても神戸を脱出しようっていう行動になっていくわけですね。
里田)阪急六甲から西宮北口まで、電車で20分ですが、迂回しながら歩いて5時間かかりました。午前8時くらいには出発したんですが、西宮に着いたのは昼を過ぎていました。
住田)家や電柱が倒れていたので、迂回して…。5時間も歩いたらへとへとですよね?
里田)緊張のせいか、へとへとっていう記憶はないです。電車が大阪に近づくにつれ日常の風景が広がっていました。電車で20分ほどの距離なのに、梅田では阪急デパートが開いていて、びっくりしました。

西宮北口まで5時間歩いて、大阪に脱出

住田)堺市の中百舌鳥(なかもず)へ向かわれたのは、どういう縁のある場所だったんですか。
里田)高校時代の親友が大阪府立大学に通っていて、彼女を頼りました。梅田から御堂筋線で行きました。
住田)そこでは何を?
里田)しっかり眠らせてもらいました。でも起きると鳴ってもいないサイレンがずっと聞こえ続けていました。この状況は1週間くらい続きました。
住田)きっと極限の恐怖の中で、耳に焼き付く音っていうのはあるのでしょうね。中百舌鳥の友達のマンションにはどれくらいいたんですか。
里田)1週間ですね。それ以上いると迷惑かなと思って。

神戸の小学校にボランティアに行く

住田)里田さんは、そのあとボランティアで神戸に行っていますよね。
里田)大学は通える状況ではなかったけれど、何かしなきゃいけないという思いはありました。私が神戸にいるときに食べ物が不安だったので、少しだけですが、梅田あたりでいなりずしとか、おにぎりを買って持っていきました。JRの摂津本山駅まで行き、避難所となっている小学校などへ持って行くのです。

里田)ボランティアはたくさんいて、梅田だったか摂津本山だったかでグループに分けられて、行き先を決められました。1時間ほど歩いて物資を届けたら帰るというものでしたが、果たしてあの食べ物が必要だったのかどうか…。もっと違うものが必要だったのではないかと思ったりします。
住田)いやいや。でもあの中でいなりずしはきっとありがたかったと思います。みんなそれぞれ持ち寄りですもんね。でもやっぱり何かしようっていうっていう気持ちがあったんですね。

地震から10日後、神戸大の学内に取材に入る

住田)私の手帳を確かめると、私が里田さんと一緒に行動したのは1月27日から29日の間なんです。「神戸大リサーチ」って書いてあり、神戸大を取材しています。27日の金曜日、28日の土曜日、29日は日曜日。東京から有働由美子アナウンサーも取材に来て、彼女とも行動しています。
里田)私が覚えているのは、東灘区の阪神電車青木(おおぎ)駅から有働さんのタクシーに同乗させてもらい、神戸大に向かったことです。
住田)青木は1月26日、初めて神戸市内まで復旧・開通した鉄道駅でしたからね。その周辺も火事で焼けたりしました。神戸大に久しぶりに上がってきたんですね。
里田)そうですね。
住田)私は地震のあった17日に阪神高速の倒れたところで中継して、その翌日18日も朝中継を出して、その夕方、神戸大本部で少し取材したんです。本部には段ボールがいっぱい積んであった。岡山大、大阪大など近隣の国立大から救援物資がたくさん届き始めていた。神戸大を取材しないといけないと心の中で思っていて、そのあとは、ずっと市内で「救援物資はなぜ行き渡らない」とか、「被災ゴミ、街にあふれる」、「放送・発行を続ける被災メディア」などのVリポートの取材をしていました。ようやくちょっと落ち着いたところがこの27日あたりだった。

多くの学生が亡くなったことを知る

住田)とにかく(地震のあと)僕が東京のデスクに言われたのは、いくらお金がかかってもいいから携帯を一つ用意しろと。
里田)大きなトランシーバーみたいな携帯でしたね。
住田)当時ですからね。
里田)住田さんと2日間ずっと学内の各学部と本部もまわって取材していきました。
住田)私の実家が鶴甲なので、うちに泊まったんですよね。
里田)そうですね。一泊させていただいた。だから2日間取材できた。学内取材では、NHKの名刺があったほうが良い所では住田さんが前を歩き、学生として入っていった方が良さそうな所は私が先に行く。そういう使い分けをして、お互い共通の取材をしていましたね。
住田)神戸大はどういう状況だったか覚えていますか。
里田)取材する中で、亡くなった学生がすごくたくさんいることが分かってきた。最初は応援団長の高見さんが亡くなったという情報でした。こんなにもたくさん亡くなっているとは想像できなかった。学部によっては個人情報の関係で名前は出せないと言われることもあり難しい取材でした。
住田)私が覚えているのは各学部とも、出てこられる教官が大学に出てきて学生に電話をかけまくるんだけど、アパートも倒壊している状況なので電話がつながらないと言われた。それで、先生方が手分けして実家に電話したら「ちょうどお葬式の最中です」と言われたという話が一番ショックだったと。だから先生方もかなり憔悴しきっていた。まさか教え子がこんなにたくさん亡くなるとは思ってなかっただろうし。状況がだんだん分かってきても全貌は分からないっていう感じでしたね。

亡くなった学生の名簿の中にあった、今英人さんの名前…

住田)少なくとも神戸大の学生がかなり亡くなっているという大変な状況だと分かってきた。その中で里田さんはある仲間が亡くなったということが分かったんですね。
里田)工学部に今英人(いま・ひでと)さんという男性がいました。実際には会ったことはないんですが、数学者の広中平祐さんという方が始めた「数理の翼セミナー」に参加をしていた仲間なんです。そのセミナーは毎年夏に開かれていて、もう40年以上続いています。その参加者の同窓会組織が「湧源クラブ」。神戸大学のメンバーは当時、今さんと理学部の女性と私の3人しかいなかった。だからいつか挨拶に行こうと思っていたのですが…。
住田)亡くなった人の名簿の中にあったのですね。今英人さんは亡くなったときは23歳でした。石川県立泉丘高校出身で、工学部機械工学科から自然科学研究科博士前期課程の吉田研究室に進んだ。サークルは軟式庭球同好会、スキー同好会、そして湧源クラブに入っていたという記録があります。東灘区西平野字平野8番地の下宿が倒壊して、そこの一階で亡くなった。


(写真:震災1年の学内紙『NEWS NET』1996年1月号に掲載された、今英人さんの追悼手記。)

神戸大学ニュースネット委員会発行の学内紙『NEWS NET』の震災1年の追悼号に、今英人さんの父・英男さんの手記が掲載されている。「あのとき、息子を探して手がつけられなかった時間帯は、私達は何をしていたのでしょうか。また、レスキュー隊の一名の方が発見してくださり、救出できずに待っていたあの一昼夜近くは、何をしていたのでしょうか?生きているほうが先だとはわかっていても、自分の息子を出すことができなく、姿も見ることができなかったあの時間は……。息子が救出されたとき、一瞬だったらしく何のキズも受けず、二階の建物の下敷きでした。フトンに入って手も出さず、寝たままの姿でした。本人はきっとこの事態を気づかなかったのかもしれません。美しい姿のままで…。いまや私共の心の故郷になった、神戸そして阪神など、一日も早い復興を心から祈ってやみません」。

震災から1年 特集号で44人の追悼手記を掲載

住田)里田さんたちは阪神・淡路大震災のあとに、神戸大学ニュースネット委員会を設立しました。大学内の新聞と、インターネットを使って情報を出すという団体です。6月には神京戦(硬式野球の京大との定期戦)の号外を発行。これが最初の紙面だったんですね。9月に第1号を発行し、11月の第2号これは六甲祭の時。そして1996年1月、第3号が震災1年の追悼特集号となりました。14面建てという分厚さです。
里田)コピーを持ってきました。2面から4面がドキュメント神戸大学の歩み。5ページ目から「神戸大学の44人への追悼手記」です。学部ごとに、亡くなられた学生のご家族に手記を寄せていただいたり、電話でお話をうかがったりしたものをまとめて掲載しています。これは住田さんにたくさん手伝っていただき、引っ張ってもらいました。
住田)1月17日に発行を間に合わせないといけないし、(1人でも)欠けるわけにもいかないから。
里田)同じキャンパスの仲間が39人。名誉教授、教職員、生協職員を含めると44人。その人たちの生きた証しと、どういう人だったのかを残したいという思いで部員全員で取り組みました。


(画像:震災から1年して発行された学内紙『神戸大学NEWS NET』の1面。)

多くの仲間を失ったことを忘れたくない

住田)ご家族には「手記を寄せてください」とお願いしたんですよね。でも、多くの人が「書けない」と。一年たつかたたないかだから、そう言われたんです。じゃあ「電話でお話されることをまとめます」って言ったら、結構話してくださる方がいらした。電話越しに泣きながらずっと「こんな息子だった」「こんな娘だった」って皆さんおっしゃる。こちらも泣きながら一生懸命メモを取った。「お写真も提供いただけますか」って無理なお願いをしてね。

住田)大学は公式に一人一人のことについて残さなかったんですよ。一応報告文をつくってはいるんだけど、いわゆる記録。建物や被害の記録は残すけども、亡くなった学生のことは大学側は公式の文書としては発行しなかったわけです。
それでなおさら、ニュースネットがやるんだということになったんですけど、もうほんとにつらかったですね。39人の学生はまだこれから先に研究とか就職とか、いろいろあったわけですし…。
里田)10代、20代で命を落とすということは普通想像しません。でもこういう自然災害で命を落としてしまう仲間がたくさんいたということは、同じキャンパスの仲間として忘れたくないという思いでした。


(写真:六甲台本館東の渡り廊下にある掲示板に張り出された特報。「神大生20人以上が死亡」の見出し。右に立つのは里田編集長。1995年1月27日)

住田)この会場の写真パネルの中に、里田さんが写っている写真があります。六甲台に貼り出された特報の横に里田さんが立っています。「被害色濃く兵庫県南部地震。神大生20人以上が死亡」と、まだ数字が確定してない段階だから。このあと全員の名前が掲載された特報も出たんですよ。大学としてはほんとうに今まで経験したこともないような出来事でした。

住田)最後に会場から質問はないでしょうか。
森岡)メディア研の森岡です。今日はありがとうございました。震災1年の追悼特集が出来上がったものを見てどのような気持ちになったのでしょうか。実際にそれを学内に配布して、どのような反響があったのでしょうか。
里田)追悼手記を作ったとき、いくつかの新聞社の取材もありました。掲載された記事を読んで追悼手記を希望する方には紙面をお送りしました。私自身これを作り終えたとき、達成感はなかったです。1年間取材をしてきて、残さなければという気持ちが大きかった。遺族の方から手記を寄せていただき、電話でお話をうかがい、やっと完成できたという、安堵のようなものだったのかもしれません。

住田)今日は広島からわざわざお越しくださいました。ニュースネット委員会の初代編集長の里田明美さんでした。どうもありがとうございました。
里田)ありがとうございました。

第40回六甲祭 阪神・淡路大震災25年トークセッション「あの日、何があったのか」
2019年11月10日(土)神戸大学経営学部206教室
主催=
 神戸大メディア研
後援=
 神戸大学学生震災救援隊
 神戸大学ニュースネット委員会
 神戸大学東北ボランティアバスプロジェクト
 神戸大学持続可能災害支援プロジェクト Konti
 灘地域活動センター(N.A.C.)

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