【慰霊碑の向こうに】13 故・加藤貴光さん(当時法学部2年)=母・りつこさんの証言=<後編>

 加藤貴光さん(当時21歳、広島県立安古市高校卒、I.S.A.国際学生協会)は、西宮市安井町5丁目のマンションNの207号室で暮らしていた。メーカー勤務の父親が先に大阪で単身赴任していたが、神戸大進学とともに一緒に暮らすことになった。大阪と神戸の中間でみつけたのが、西宮市の閑静な夙川沿い、桜並木のすぐそばにある築25年ほどの賃貸マンションだった。
 広島に住む貴光さんの母親の加藤りつこさんは、1995年1月17日の朝、ラジオで阪神・淡路大震災の発生を知った。加藤さんは貴光さんの下宿先に電話をかけるもつながらなかった。奇跡的に取れたチケットで広島から西宮の下宿先に向かうと、2階にあった貴光さんの部屋は潰れていた。対面した貴光さんの遺体はのけぞるほどの冷たさだったという。加藤さんは、遺体安置所となった小学校の教室の寒さや床の冷たさは今でも忘れられないと語る。

大学入学で西宮へ ポケットに入っていた手紙

加藤さん)そうやって初めて私が、(大学に入学する息子と)西宮へ行った時の帰りにね、新大阪の駅まで送ってくれて。一人息子ですから、私がこの子に依存しちゃいけないとすごく思ってたんですよ。この子が羽ばたかなければいけないんだから、この子に依存したらいけないって、
きょうからこの子の母親をやめようって決心したんですよ。
そしたら別れの時の新大阪のホームで私は号泣してしまって。これで終わりだっていうのを、心に決めて…。
そうしたら、あの子が、こうして、自分のコートのポケットを指さしたんです。私が上着のポケットに手を入れたら、手紙が入っていたんですね。これね。現物持ってきたんですよ。


(写真:「もうね、28年前になるので」と言って手紙を見せる加藤さん)

加藤さん)「親愛なる母上様」って、いう書き出しで書いてくれてるんですけどね。
これをきれいに折り畳んで、ポケットに入れてくれてたんです。折り畳んだ裏側にはこういうふうに書いてたんですね。「デァ・マイ・マザー、リツコ」。

「親愛なる母上様」 この手紙が形見になった

加藤さん)入学式の前に私は広島に帰ったんですけれど、この手紙を読みながら、「これでよかった」って。「この子はこれからしっかり生きていけるだろう」っていうのをすごく強く感じた手紙でしたので、新幹線の中で広島駅まで、何度も何度も読み返し涙をボロボロこぼしながら広島に帰ったんですね。
でもこれをもらって、1年9か月後に本当に飛び立ってしまったんで…。
これは本当に最後の最後の、あの子の形見ですね。

聞き手)手紙には「翼の生えたうし」とあります。
加藤さん)あの子は丑年生まれだったんです。そうそう、ちょっとふざけた時にね、電話なんかで、「あ、うし?」っていったら、「うーんうし」といって返事してましたけど。誰も知らないニックネームなんです。
私と貴光の間でしか知らないニックネームなんです。


(大学入学の折、西宮まで来てくれた母・りつこさんに新大阪駅で渡した手紙。27年を経て茶色くなっているが、渡された時の折り目はそのまま残っている。裏面(写真右)には、「To my dear mother, Ritsuko」「from your sincere son, Takamitsu」とある。)

亡くなって13年 陶板になった手紙

加藤さん)手紙は劣化しますよね、紙も茶色になった。乾燥してパリパリになったりとか。破れたら大変だなと思いながら保管しているんですけれど、

加藤さん)ちょうど、亡くなって13年目に、徳島県鳴門市にある、世界の名画を陶板にして展示してある大塚国際美術館。
そこの企画で、素人さんの絵とか写真とかを陶板にして差し上げますって企画があって、そこに応募しなさいと言われて、知り合いから。でもこの手紙は絵でもないし写真でもないし、こういうものが、陶板にできるんですかねって言ったら、「大丈夫だから」って。それで応募したら受かったんですよ。
3人選ばれたんです、その年は。

加藤さん)美術館では(これらの陶板は)展示はされないのだけれど、この手紙の陶板を、2008年12月20日貴光の誕生日から翌年3月まで展示してくださったんですよ。そこの広報部長さんだったかな女性の方で、その方が神戸大出身だったんですよ。こんな、後輩がいたなんてと言って、もう是非やりましょうと言ってくださって。

加藤さん)陶板になったら、2000年はそのままの状態で保存できるんですって。でも、私が死んだあと、(この陶板の手紙は)どうなるんだろうと思ってたんです。
そしたら、西宮市の職員の方が、これを、震災のメモリアルとしてぜひ市に寄贈してもらえないですかと言って下さって。それで、私はあー助かったなと思いました。自分の所に置いておいても、これは私が死んでしまったらもう、何にもならない。どうしようと思ってた矢先に、そういう申し出があって。それで2009年から阪急西宮北口の「アクタ西宮」東館ってありますよね。その6階に展示してあります。額縁もかえて、キャプションもつけて、展示して下さってるんです。ここに、残ると思って、私も安心したんですけどね。

取材の申し込み この子の思い、私が代弁してやらねば

加藤さん)1月22日のお葬式が終わって、1週間もたたないうちに、読売新聞社広島総局から電話があったんですよ。神戸大学生の追悼特集を企画しているので「お話聞きたいんですが」って言われたんですけど、私は、そのころは誰にも会いたくないから、みなさんお断りしてたような状態だったんです。
でも、「息子さんが、どのような生き方をされて、これからどのようなことをされたかったかということも含めて、お話伺いたい」と言われた時に、はっとしたんですよね。
もうこの子は、2度と自分の口から話をすることはできない。
自分で行動することもできないんだったら、その思いを私が代弁してやらなければいけないと思って、取材をお受けしたんです。

記者に見せた息子からの“手紙”が新聞に掲載されて

加藤さん)私は、免許証のケースの中に、いつも、この手紙を折り畳んで入れて持ち歩いてたんですよ。2時間ぐらいの取材のあとで、「お母さんと貴光さんの間で何かエピソードはありませんか」と言われた時に、ふとそれを思い出して、「生涯ただ1通だけもらった手紙があるんですよ」と言ったら、「是非見せてください」と言われて、それを見てもらった。
そしたら、若い女性の記者だったんですけど、涙ボロボロボロボロ流されて。「加藤さん、この手紙、大事なことは重々承知の上で、1晩だけ、会社のほうに持ち帰らせて頂けませんでしょうか」と言われたので、持ち帰ってもらって、2月1日の全国版の朝刊に掲載してくださったんです。

加藤さん)神戸大学の学生さんたちの追悼特集の中に、貴光の手紙のことを入れてくださって。そしたら、全国の購読者の方から、すごい電話があったんですって。
全文が掲載されたのが、関西地区と広島県版ぐらいだったらしくて。全文を読みたいという、購読者の方が多かった。
新聞社を通して、お花が届いたりとか…。

【親愛なる母上様<全文>】
親愛なる母上様
 あなたが私に生命を与えてくださってから、早いものでもう20年になります。これまでに、ほんのひとときとして、あなたの優しく、温かく大きく、そして強い愛を感じなかったことはありませんでした。
 私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること……。この20年で、私の翼には立派な羽根がそろってゆきました。
そして今、私はこの翼で大空へ翔び立とうとしています。誰よりも高く、強く、自在に飛べるこの翼で。
 これからの私は、行き先も明確でなく、とても苦しい“旅”をすることになるでしょう。疲れて休むこともあり、間違った方向へ行くことも多々あることと思います。しかし、私は精一杯やってみるつもりです。あなたの、そしてみんなの希望と期待を無にしないためにも、力の続く限り翔び続けます。
 こんな私ですが、これからもしっかり見守っていてください。住むところは、遠く離れていても、心は互いのもとにあるのです。決してあなたはひとりではないのですから……。
 それでは、くれぐれもおからだに気をつけて、また逢える日を心待ちにしております。
最後に、あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて。
翼のはえた“うし”より

外に出たくなかった、人に会いたくなかった私が…

加藤さん)この手紙をメディアに載せてもらった。そこからですね。
私は外に出たくないし、人にも会いたくないしって言ってたのに、出なきゃいけないような状況になっていったんです。
聞きて)私たちは、積極的な加藤さんしか知らないので、そんな閉じこもってらっしゃったなんて知らなかったですね。
加藤さん)用事があるからとデパートに行っても、用事もしないで帰ったこともあります。目に入るもの聞くもの、全てが悲しいんですよ。
五月人形が、いっぱい展示されてたんですよ。それを見た途端に、もう立ってられなくなって、何にもしないで帰ったことがあります。
それでクリスマス近くなると、街が華やぐじゃないですか。だから、もう絶対街に出ないって。

息子の未来は私の未来だった

加藤さん)人にも会わないし、過去を「断ち」ました。
未来がなくなったわけですよね、息子の未来が。息子の未来は私の未来でもあったわけですよ。
未来を見ることができなくなったら、過去はもう見ることができないです。本当につらいんですよ。
だから、昔の友達が会おうといっても、会えないって断わったりとか。それまでと180度変わった人生になりましたよね。


(更地になったマンションNの跡地。1997年3月27日撮影。)

高校生たちとの出会い 心が解けていった

聞きて)だんだん元の加藤さんに戻ってきたな、って思ったのは、震災から何年ぐらいたってからでしたか?
加藤さん)17年ぐらいですね。それは、広島県福山市の盈進(えいしん)学園という学校があるんですけど、その学校の生徒たちとの出会いからですね。
ヒューマンライツクラブという人権クラブなんですけど、その、生徒たちが、ものすごく慕ってくれて。貴光の生き方にものすごく共感してくれて…。
そういう学校に出入りさせてもらって、なんとか気持ちがね、母性がまた戻ってきたっていうのか。

聞きて)ヒューマンライツクラブと加藤さんは、どういった関わりをされているんですか?
加藤さん)福島もそうですけど、被災地の支援活動を一緒にしたりとか。
彼女たちはハンセン病問題を研究していますので、ハンセン病の国立療養所へも一緒に行きましょうって誘ってくださる。
合宿も一緒に参加させてもらって、活動したりとか。

加藤さん)彼女たち、彼らは、なんて言うのかな、悲しみを抱えた人に心から寄り添ってくれる、そういう学びをしてるんですね。
だから、私のことも、ものすごく大事にしてくれるし、学園祭のときも必ず呼んでくれるし。毎年必ず1月17日前後に私の講演をお願いしますって言ってくださるので、毎年、行ってるんですけど。学校全体が、両腕広げて迎えて下さる。そういう温かい場所ができたことで、私の心がどんどん解けていったんですね。

新聞記事から生まれたつながり

加藤さん)それまではね。幸せそうな学生さんとか、親子さんとかを見るとすごい嫉妬してたんです。
その嫉妬する気持ちっていうのが、すごくつらかったんですけど、盈進中高の子たちとの交流の中で、それが解けていったんですよ。
聞き手)盈進の生徒さんとの出会いのきっかけは、やはり新聞ですか?
加藤さん)そうです。それは毎日新聞でした。
聞き手)つまり、いろいろな新聞に加藤さんのことが掲載されて、お付き合いがつながっていったんですね。
加藤さん)そうです。新聞を読んで、生徒さんがぜひ加藤さんと会いたいと先生に頼んでくれて。それで私が呼ばれて行ってお話ししたのが最初だったんですね。それが、2012年だったんです。ちょうど震災から17年目でした。

“あの年”に生まれた子たち

加藤さん)最初に出会った子に、あなた何歳ですかって聞いたら、17歳って言ったんですよ。震災からちょうど17年目に。
聞きて)震災の時に生まれた生徒さんですね。
加藤さん)そうなんです。
貴光が亡くなって17年だけど、この17年という期間って長いと感じたことないんですね。いつもきのうのことのようで…。だけど、こんなに立派な子どもが成長する、その尊い時間が17年間にはあったんだということに初めて気がついて、そこで目が覚めたんですよ。

貴光の命がなくなった時間を彼らは生きてる

加藤さん)忘れられないですね。人の年齢って忘れるじゃないですか。
だけど、彼女たちの年齢は忘れない。いま26歳です。
聞きて)「震災から何年」と同じ。
加藤さん)同じなんです。だから貴光が亡くなって、命がなくなった時間を、彼らは生きてるわけです。
だからこれからもずっと、27年、28年、あの子たちは、貴光の死、死の年齢と共に生きてくれるんだというのが分かった時、いとおしくなって。

加藤さん)本当にありがたいことに、その子たちが私のことを「お母さん」って呼んでくれる。もう2度と「お母さん」って言葉は私にはない、もう誰も呼んでくれる人はいないと絶望していたのに、あの子たちが「お母さん」、「お母さん」って呼んでくれる。
孫の年齢なんですよ、私から見たら。だけど、「あなたたち、私はおばあちゃんよ」って言ったら「いいえ、りつこさんはお母さんです」って、「私たちのお母さんですから」って、「いつまでたってもお母さんですから」って言って、今でも寄り添ってくれてます。

もうちょっと貴光の人生を見たかった

聞きて)お話を聞いていて、会ったことがないのに、貴光さんが生きてる姿が思い浮かぶような気がしました。
加藤さん)うれしい。ありがとうございます。
聞きて)貴光さんは震災にあわなければ、どういうことをしてらっしゃったと思いますか。
加藤さん)まあ想像でしかないですけれど、あのころの貴光の真剣さ、そして努力する様子を見てた私にとっては、何らかの形で、世界平和に貢献する仕事をしてるんじゃないかなと思います。
やっぱり、何て言うのかな、もうちょっと、見たかったなって思いますね。


(写真:幼い頃の貴光さんと母・りつこさん。加藤りつこさん提供)

人のためだったら、立ち上がれる

聞きて)震災前と震災後で、加藤さんの考え方や価値観に変化はありますか。
加藤さん)ありますね。今はやっぱり、自分のことではなくて、
周りの人が、喜んでくれること、幸せになってくれること。
そういう、何か、自分の役割を担っていきたいなと思うようになりました。
それはやっぱり、貴光の生き方をずっと見てきてたからだと思うんですけど、私はもう絶望のどん底にいたんですけれど、人のためだったら、立ち上がれるということを知ったんですね。
だから、これからも、誰かの役に立ちたいって、そういう思いで、生きていけたらいいなと思ってます。そういうところの価値観は変わりましたね。

悲しみを受け入れるには時間がかかった

聞きて)貴光さんが亡くなったという事実を受け入れるのには、時間がかかりましたか?
加藤さん)かかりますね。
うん、うん、亡くなったことは分かってるんですよね。
お葬式もしたし、火葬もしたわけですから。でも、やっぱり、どこかでは生きていると思ってしまう。
うん。だから、亡くなったということを認められたのは、やはり、17年、18年、20年ぐらい経ってからですかね。
聞きて)いろいろな人と関わり合っていく中で、受け入れることができたのでしょうか。
加藤さん)自分に自信がついてきた。生きる自信がついてきた。そういうふうにならないと、やはり、受け入れることができなかったんだろうなって…。
この悲しみは悲しみとして、私の中で消えることはないんだけど、その悲しみをベースに、何か人のために生きられるんじゃないかなっていう、そういう気持ちになれたのは、もう20年ぐらい経ってからですかね。

歌になった母への手紙

聞きて)貴光さんからのお手紙が、歌になったんですよね。
加藤さん)はい、2008年に奥野勝利さんが歌にしてくれました。同い年だったんですけれどもね、出会ってみたら。
聞きて)貴光さんと?
加藤さん)はい。東京で。彼はシンガポールで大きくなって、大学はアメリカの音楽大学で勉強して、30代になってから日本に初めて帰ってきたんですよ。単身で日本に帰って、音楽活動をしてたんですね。すごくいいCM作ったりしてるんですよ。日産とか大きな会社の。
お金は入るようになったけど、心が伴わないということで、スタジオも全部閉じて、旅に出たんですよ。
旅に出る前に、貴光の手紙がブログにアップされてたんですって。I.S.A.の仲間がアップした記事をたまたま見たんですよ。
こんな手紙を書いた、この若者が亡くなったんだということで、おもわず曲をつけた。

加藤さん)それで自分で歌って自分のブログにアップしてたのを、こんどは私が10か月後ぐらいに、見つけたんですよ。それで、彼と会うことになって、2008年の1月2日に、広島に来てくれたんですけど。そこからのお付き合いなんですけどね。やっぱり、ちょうど震災から13年目なんですけど。

加藤さん)その彼と出会ったおかげで、歌手の谷村新司さんとも出会ったんですよ。谷村さんの「サライ」って曲が、貴光と聞いてた曲なんですよね。
大学に出ていくあの子の意思を全くその通り歌っている歌詞なんですよ。亡くなってから私はずっとその曲を聴きながら、泣いてたんですね。

加藤さん)13年目にどんどんいろんなことが起こって、陶板になったのも13年目だし、奥野勝利君と出会ったのも13年目、谷村さんとも13年目。もう、13年目にいろんなことが起こって…。

大学の慰霊碑に行けば、あの子の輝いた姿が浮かんでくる

聞きて)加藤さんにとって神戸大学の慰霊碑は、どういう存在ですか。
加藤さん)息子は、神戸大学に、高校の時から憧れていて入学できたけど、卒業はできなかった。何も残らないわけですよね。
だから、慰霊碑を建立していただいたおかげで、ここにいたっていう、証しができた。それがとてもうれしいです。
神戸大のあの慰霊碑に行けば、あの当時の、あの子の輝いた姿が浮かんでくる。あの子に会えるっていう気持ちで、本当にありがたい存在ですね。


(写真:2019年の献花式で慰霊碑に白菊を手向ける加藤りつこさん<右>。交流のある高校生とともに参列した。2019年1月17日午後)

神戸大学と東遊園地には、毎年行っています

聞きて)震災の日1月17日、毎年、加藤さんはどのように過ごされていますか。
加藤さん)2003年ぐらいから毎年、神戸市中央区の東遊園地に行ってます。2000年にそこに慰霊碑(編集部注:「慰霊と復興のモニュメント」)が出来たんですよね。当初は神戸で亡くなった方だけのお名前だけが刻まれていたんですよ。
2003年に、市外の人たちも希望があればここに刻みましょうということになって、即、(貴光の名前を)刻んでいただいて。それから毎年行ってます。
それまでは、西宮の慰霊碑のほうに行ったり、マンションのあった跡地に行ったりしていました。

加藤さん)跡地も今、住宅が建ってまして、そこに花束を置くこともできないし。何か、ちょっと足が遠のいてしまったんですけど。でも、神戸の東遊園地に名前刻んでもらってるっていうことで、すごく行きやすいっていうか。
神戸に行っても、行く所がある。神戸大学と東遊園地には、毎年行っています。
前の晩に泊って、朝、東遊園地に行く。お昼に神戸大学に行って、それで広島に帰るんです。

現役の学生が慰霊碑に来てくれるのは本当にうれしい

聞きて)大学の慰霊碑には毎年行かれているのですね。
加藤さん)毎年行ってます。(献花式が)12時半、お昼休みにあるということで、ちらほらと学生さんたちが来てくださることも本当にうれしいし。あれ20年目でしたっけ、グリークラブがうたってくれた。
聞きて)5年ごとに音楽系のサークルが歌うんです
加藤さん)あれも感動でした。本当に、感動でしたね。
やはり後輩たちがそうやって参加して、追悼してくださるということは本当にうれしいことです。

聞きて)慰霊碑に参列する現役の学生があまりいない。今の学生たちが、震災を知らないことについて、どうお考えですか。
加藤さん)それも無理もないなっていう気持ちもありますね。
もう随分昔のことだしね。26年前と言ったら本当に昔だなって思います。
分からないことがいっぱいだから。だけど、少しは分かってほしいなっていう気持ちもありますよね。

若い命を目いっぱい使ってほしい

聞きて)今、コロナ禍で、昨年から学生は大学に行けなかったり、一人で過ごしたり、友達がいないという状況なんですけど、そういう状況の学生に対して、加藤さんはどういうメッセージを送りたいですか。
加藤さん)そうですね、本当にね、かわいそうだと思うんですよ。
伸び伸びとね、一番大事なこの学生時代のキャンパスでの生活っていうのは本当にかけがえのないものなんですけれど、それが今まで通りできない学生さんたちのことを思うと本当につらいですね。
だけど、その中でも、繋がっていける方法って、たくさんあると思うんですよ。
だから、そういうものを利用しながらも、お友達っていうか、そういう関係は紡げると私は思うんですね。
「できないから駄目だ」、「私はできない」っていうんじゃなくて、その中で何ができるかということを考えて、生きてほしいなって。せっかく命があるんですから、命をやっぱり目いっぱい使ってほしいなって。若い命を使ってほしいなと思います。

年に1回、遺族が慰霊碑で再会する

聞きて)震災で亡くなられた学生の他のご遺族の方との交流はありますか。
加藤さん)年に1回だけ、1・17で大学の慰霊碑で再会するんです。
聞きて)そこでつながっているという…。
加藤さん)はい。そうですね。
元気でしたかって言って。でもだんだんね、年々(参列する遺族も)少なくなっているんですよ。すごく寂しいですね。
私もいつまで行けるかなって思ったりしているんですけど、できるかぎり、大学だけは行きたいと思ってるんです。
朝5時46分の東遊園地はね、ちょっと年々しんどくなってくるんですよ。
だから、それはちょっと、1人でお祈りだけしておいて、大学へ行きたいと、いう気持ちはあります。

今年(2021年)は広島で黙とうした

聞きて)県外移動が難しかったコロナ禍の今年(2021年)は、どんなふうに震災の日を過ごされてましたか。
加藤さん)広島で、(原爆ドーム前の)親水テラスで、朝の5時46分には黙とうして、それから家に帰って、神戸の情報を見ながら、偲んでいました。

加藤さん)安藤忠雄さんも、追悼の記念植樹をしてくださった。ハクモクレンは今、大きく育ってて、毎年3月には花を咲かせるんだけど、知らない人が多いですよね。
聞きて)農学部のバス道沿いのモクレンですね。
加藤さん)そうです。小さな立て札があって、説明がしてあるんですけど…。広島でハクモクレンが開花したという情報を得たら、あぁ行きたいって思いますね。ハクモクレンに会うのもまた楽しみだし、元気でいなきゃいけないなって思っています。

一日一日を大事に生きてほしい

聞きて)今の神戸大生に伝えたいことっていうのはありますか。
加藤さん)そうね。まあ、一日一日を大事にしてほしいなと思いますね。
あの、(1995年の)1月17日の午前11時ぐらいかな。(貴光は)三ノ宮で会おうと言って、サークルの先輩と会う約束をしてたんですよ。
それを前夜の1時ぐらいに電話で話してたんだって。
「きっと僕が、加藤君と話した最後の人間だと思います」と言って来てくれたんですけど。
聞きて)それはI.S.A.の先輩ですか。
加藤さん)そうです。今後のこととか、いろいろ相談しようって、話をしようって言って会う約束をしてたらしいんですけどね。
でも、貴光はその時を迎えられなかったわけですよ。
いつ何が起こるか分からないんですよね。
だから、「明日がある」、「明後日がある」と思わないで、やっぱり一日、その時間、すごく大事に生きてほしいなぁって。
一寸先、一歩先には何が起こるか分からないんだってことを、時々思い出して、いつもじゃなくていいから、「あぁ自分はこれではいけない」、「この時間に何かしなきゃ」って、そういう気持ちを持って、2度とない学生生活を送ってほしいなと思います。

<前編>https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/f6a2712d855b59a66cdeaf0bcd6bc6ad

<2021年11月3日取材/2022年1月11日 アップロード>


(写真:オンラインインタビュー画面に答える加藤さん)

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

月別アーカイブ

サークル・部活総覧

  1. 神戸大のサークル・部活のツイッター・アカウントを探せるぞっ!クリックすると、『神大PORT…
  2.  神戸大学の文化系のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随…
  3. 神戸大学のスポーツ系のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随…
  4. 神戸大学の医学部のサークル・部活(順不同)をジャンル別にリストアップしました。情報は随時更…
ページ上部へ戻る