【慰霊碑の向こうに】14 故・上野志乃さん(当時発達科学部2年)=父・政志さんの証言=<前編>

 
(写真:震災の2日前、成人式後に友人宅で。1995年1月15日撮影)
 
 1月15日の成人式の直後に撮影した写真が遺影となった。
上野志乃さん(当時20歳、兵庫県立龍野高校卒、人間行動表現学科/マンドリンクラブ)は、JR神戸線のすぐ南側の、神戸市灘区琵琶町3丁目のニュー六甲ビラ1階の101号室に下宿していた。
 16日は神戸の下宿アパートに戻り、夕方から同じ学科の村並麻紀子さん、川村陽子さんと3人がニュー六甲ビラの部屋に集まり美術の課題を始めた。途中、夜の11時には一緒に銭湯に行き、午前5時には課題を終えた。
 村並さんは近くのマンションの下宿に帰り、川村さんと志乃さんは部屋のこたつで眠りについた。そこまでは、普通の大学生の時間が流れていた。
その45分後に突然激震が襲い、大きな梁が落ちてきて、志乃さんと川村さんの命は失われた。
 父・政志さんによって崩れたアパートから出された志乃さんは、1月19日深夜に、兵庫県佐用郡南光町(現・佐用町)の実家に帰った。兄、妹、弟らとともに、鹿児島から駆けつけた祖母が出迎え、「こんなに早く逝ってしまって。代わってあげられるものなら…」と泣き崩れたという。
 志乃さんが成人式で残したメッセージは、「一歩一歩を大切に生きていきたい」だったという。


(写真:オンラインインタビューに答える上野政志さん。2021年11月21日、兵庫県佐用町の自宅で。)

実家ではブロック造りの焼却炉が崩れた程度 学校に出勤しました

聞きて)当日の朝、上野さんは、佐用郡南光町(現・佐用町)の自宅にいらしたのですね。
上野さん)2階で寝ていて、震度4ぐらいやったんで、かなり揺れたんですね。でみんなびっくりして飛び起きて外へも出てみたんですけどね。(自宅の敷地内にある)焼却炉が潰れていたんですよね。ブロックで積んであったんですけどね。倒れちゃったんです。そういう被害だけでしてね。
聞きて)そのあとは?
上野さん)どこで何が起こったかというのは分からなくて、分からないまま、(勤務先の)学校へ行ったわけですよ。
聞きて)神戸に住んでいる志乃さんと、連絡を取ろうとしたのは?
上野さん)テレビでね。発生地とか被災していることとかというのは、お昼頃に知って、それで、連れ(妻)に連絡を取るように言ってね。

昼ごろ、電話の呼び出し音は一応鳴るんですよ

上野さん)アパートは、一応は鳴るんですよ、電話が。
聞きて)呼び出し音は鳴ったんですね。
上野さん)はい、鳴るんです。それなら(志乃は)出かけてるんかな、というという話で…。当時は携帯電話を持ってなかったからね。

聞きて)お昼になるともう、神戸では高速道路が倒れたりという映像がテレビニュースには入ってきていましたね。
上野さん)詳しく見ていないですね。仕事していた関係で。小学校の教頭だったんで。外のことはあまりね、分からないままだったですね。通常見ないですからテレビを。

午後2時ごろ、妻が電話しても誰も出ない

聞きて)さらに志乃さんに連絡をとろうとされたんですね。
上野さん)神戸の様子がだんだん分かってきだして、長田の火事や、ってところでまあ、大変だということが分かりだしてね。あ、じゃあもう1回連絡取ってって、家の方へ連絡して、連れに、妻に言って。
聞きて)それは何時ごろですか。
上野さん)それは午後2時ごろやないかな。
上野さん)それでも、大学へ行っとるという感覚になりますからね。(アパートの)電話にだれも出ないというのは。いつも、中国人の方(編集部注:同じアパートに住んでいた留学生の呉婕=ゴ・ショウ=さん)が(電話を)受けてくれよってね。公衆電話みたいなものなんで。
聞きて)下宿アパートの「ニュー六甲ビラ」ですね。廊下に共同の電話が置いてあったんですね。それが志乃さんの連絡先だった。
上野さん)そうですね。

夜、帰宅して神戸行きを決意 「これは大変とちゃうか」

聞きて)いよいよこれはおかしいな、と思い始めたのはいつごろからですか?
上野さん)その日は管理職の研修会があったんですね。管理職のね。
夜の7時ごろから会議があったんですけれど、その途中で1人ね、神戸に親戚の人がおるからといって「途中で抜けないかん」言うて1人抜けていったんですね。「神戸へ行くんや」と。ちょっと心配やからって言って。
私自身はその時点でも、まだあんまり心配してなかったんですよ。
それで、夜8時半ごろに(研修会が)終わって、家に帰って、じっくりテレビ見て、「いやこれは大変とちゃうか」っていうことで、これ神戸行こかと…。

午後10時ごろワゴン車で出発 渋滞には巻き込まれず行けたんですよ

上野さん)で、いろいろね。水とか、携帯コンロとかね車に積んで。屋根にキャリアをつけておったから自転車も積んで。途中で、渋滞に巻き込まれても自転車ででも行こうかと、いうことで…。夜の10時ごろ出かけたのかな。
聞きて)車で出発したんですね。
上野さん)はい。国道とかもう渋滞でほとんど動けんという情報だったんですけど、私が知っとる道を、三木(市)の方から入っていって。学園都市かな。
聞きて)神戸の西区ですよね。
上野さん)そう、そこから、山麓バイパスがあるじゃないですか。
聞きて)山を越えて入る、
上野さん)はい。そこを通っていったらね。ストレートで行けたんですよ。
空いとったんです。
聞きて)ええ。
上野さん)で、王子公園の方へ出てくるところがあるんですね。そこら辺はあまり家が倒れてなかったんですね。
聞きて)灘区の山に近いところですね。

JRの線路あたりに下りていくと家がみんな潰れてましたね

上野さん)そう。山手の方はね。で、大体の道筋知っていたんで。それから、まっすぐ下りていったんですね。ほんなら、だんだんと、家が倒れてきてるわけですよね。で、JRの線路辺りに行ったら、もう、周りはね。鉄筋のビルのほうはまだ残ってましたけど、モルタルのとか木造のね、おうちはみんな潰れてましたね。
あーこれは大変やろうということで、行ったんですけど…。

上野さん)通常まあ2時間弱で行けるところを、2時間弱でいけたんですよね。
聞きて)ということは、いつもと同じぐらいの時間でたどりつけた?
上野さん)はい。だから渋滞にもあわなくて、で、12時ごろでしたかね。
聞きて)17日の夜中の12時ですね。
上野さん)はいはい。灘区の琵琶町1丁目に着いて、そこで、見たらもう真っ暗ですからね、車のライト以外はね。
聞きて)停電している?
上野さん)はい、停電してますからね。で、そこ駐車場すぐ横に駐車場があったところへ停めて、どうしようかっていう話をしてね。


(写真:被災する前の灘区琵琶町のニュー六甲ビラ。1993年ごろ撮影)

ニュー六甲ビラは1階がなくて、2階が1階になっとったからね

聞きて)志乃さんのアパートはどういう状況でしたか?
上野さん)ニュー六甲ビラはもう、潰れてましたけどね。
2階建てだったんですけど、1階がなくて、2階が1階になっとったからね。聞きて)木造ですか?
上野さん)木造モルタルっていうやつでね。

上野さん)ただね、真っ暗で分からないんですよ。もう回り瓦礫(がれき)の山やから、動きようがなくてね。
その建物自体には行けなくって。まあ、それでも、娘は、避難しとるだろうと思って、そんなら、周りをちょっと、訪ねていこうかということで。
すぐ近くにある小学校行ったのと、六甲小学校にも行きましたね。それから病院があったんですよね、そこに。も行きましたね。六甲小学校に行ったのは、もう2時ごろだったんですよね。
聞きて)日付けが変わって、1月18日の午前2時ごろですね。
上野さん)はいそうです。小学校の部屋(教室)を回って…。起きとった人もおったんですけど、「志乃いますかー」と言って。
まあ、そんなに大きい声を出さなかったんですけどね。

深夜の六甲小学校で「志乃いますかー」

上野さん)もう遅いので、やめてくださいって…。
聞きて)つまり、声を出しての人探しはやめてくださいと?
上野さん)そうそう、言われたんで、もう今日は、やめとこうって言うて。それで、車に戻って…。ワゴン車やったから、座席を倒したら寝られる。
聞きて)仮眠が取れる状況ですね。
上野さん)まあ眠れはしませんけどね。
聞きて)なぜ眠れなかったんですか。
上野さん)それは心配やったいうのがありますね。

ラジオから「上野志乃さん、南光町のお母さんが探しておられます」

上野さん)ラジオ関西だったかに、尋ね人情報があって。
聞きて)つまり人を探す、「○○さん、無事なら次のところに連絡ください」というような。
上野さん)そこへ電話して名前を言うて、教えてもらうということで。
聞きて)尋ね人の情報を放送しているというのは、どこから情報を得たんですか?
上野さん)それは、(神戸に向かう)車の中でラジオ聞いとって知ったんです。
聞きて)何時ごろ、ラジオ関西に電話をしたんですか?
上野さん)夜の12時半ごろに、公衆電話でラジオ関西に連絡をして、「上野志乃さん、南光町のお母さんが探しておられますよ」という情報を流してもらったんですね。それが、流れたのが、2時ごろ。2時半ごろと記録してますね。
聞きて)そのラジオ関西に電話が通じたんですね?
上野さん)通じましたね。
聞きて)神戸に到着したときに?
上野さん)そうですね。で、そのあとずっと捜し回って、車に帰ってきてラジオを聞いとったら、放送されたという。


(写真:倒壊したニュー六甲ビラ。1階が潰れて、その上に2階がのしかかっている。1995年1月21日撮影)

瓦礫の中から、顔が見えて… 志乃じゃない、誰やろう

聞きて)18日の未明になっても、まだ志乃さんの安否は分からないままですね。
上野さん)そうですね。そのときでも、まだ避難しとうとばっかり思ってましたからね。(揺れに)気付いて、逃げ出してね。どこか着の身着のままで、逃げ出してるんちゃうかな、という意識ばっかり続いてたからね。

上野さん)朝、18日の午前6時すぎかな、6時半ごろか。まあ、ちょっと時間は分かりませんけどね。夜が、空がしらじらと明けてきだした。
聞きて)ずっと眠れなかったんですね。
上野さん)それじゃあちょっと見に行こうかっていって。もうアパート自体もぺしゃんこになっていて、足元は悪いですけどね。で、大体の位置が分かってたから…。入り口の一番左側が、志乃の部屋でしたからね。
聞きて)101号室でしたね。
上野さん)そうそう。で、瓦礫をのけて見つけたのが、最初、頭だったんです。頭だったんですけど、あれ、これは、(娘の)志乃じゃない。誰やろうということでね。

上野さん)お友達と(徹夜して)一緒にいてたというのを知らなかったしね。で、(その頭は)知らない人だったんですね。
聞きて)なぜ、知らない人と分かったんですか?
上野さん)もう、顔、顔が見えたから。あの、いわゆる2人とも、損傷はそうなかったんですよ。圧死とか即死でね、体が変形した人もいてたそうですけれども。まあこたつに両方差し向かいで入っていて、布団もかぶっていたというのもあったんでしょうね。
まあ顔も、本当は傷ついていてもおかしくないんでしょうけど、そんなのもなかって。


(写真:救出活動の跡が見える。1995年1月21日撮影)

次に足が見えて…、これは娘やっちゅのが分かって

上野さん)あれ、これ(志乃と)違うけど、お友達やろうかとは思いつつ、それでずっと探しよったら足が見えて。足を見ただけで、これは娘やっちゅうのが分かって。
聞きて)どうして分かったんですか?
上野さん)いやもう(笑)娘の足、ちょっと太めだったから。
聞きて)見覚えのある特徴?
上野さん)そうそうそう、あーこれはそうちゃうかなということです。
ずっと、調べよったけど、足しか…。
聞きて)足だけ出ていたということですか?
上野さん)そうそう。ホームこたつの真ん中に、2階の梁が落ちてきとったから…。

ジャッキで梁を上げようとしても、びくともしなかったんです

上野さん)なんとかして、これは、出したいなと。
まあ、無力感しかなかったけども、何かできることはないかなと思って。ああそうや、屋根の瓦をはがすことでもしようかと言うて。屋根に上がって、瓦をはがしていって。それで、周り捜し回って、置いある車の横に、2トンを上げるジャッキがあったんでそれを借りてきてね。
それを、まあ黙って借りてきて、梁を上げようとしたんですけど…。もうびくともしなかったんですね。

上野さん)それもあきらめて、いつごろかな、18日の2時ごろかな、もう一人の方のね。
聞きて)午後2時ごろ?
上野さん)はい。(顔が見えていた)お友だちの方の、お父さんと息子さんが来られて、それで、確認されたんですけど…。もう、その時、ずっと、もう、しょぼっと、うなだれたままでね。

大工の兄と瓦をはがしていったら、梁がふっと浮いた

上野さん)私はもう屋根の瓦を落としたりなんかしながら、(瓦礫をどけたり)しよったんですけど。それで午後3時ごろかに、灘区に、兄がおるんですね。
聞きて)上野さんご自身のお兄さん?
上野さん)はい。その兄が、連絡を取ったら来てくれて。大工をしとったもんで、こうせいああせい、いうてね。いろんなものをはがしていって、しよったら、午後5時ごろですけど、やっと、梁がふっと浮いたんです。それで、引き出したんですけどね。2人ともね。(梁の下に)挟まっておったんでね。
聞きて)その時間もまだ、お友達の川村さんのお父様とご兄弟がまだそばにいらしたんですね。。
上野さん)はい。それで、2人を引っ張り出して、

上野さん)戸板(=ドア)を見つけて、2人を載せて。ワゴン車だから載せられるんですよ、(シートを)倒して。
聞きて)上野さんの車ですね。
上野さん)そうそう。連れて帰ろうかということで。向こう(川村さん)は車だけど乗せられへんのでね。一緒に行きましょうということだったんですけど…。そのときに限って警察が(現場に)来て、検視をするから、王子スポーツセンターに連れていってくれって言って。
聞きて)直接ご自宅に連れて帰るのは、だめだということですか。
上野さん)そうそうそう。検視をせにゃということで、
聞きて)たまたまおまわりさんが回ってきたんですね?
上野さん)そうです。昼間の作業の途中には消防署にも行って、警察にも行きました。警察に行ったら、いやもう、誰もが言うのが、「生存者優先やから」っちゅうことで…。亡くなっとるんやったら、2日後になるか3日後になるか分からんけど、という。消防署のほうは3日後ぐらいになるかも分からんて言われたんで、いやそんなもん待っとられへんと。
でも、まあ、結局、王子スポーツセンターへ連れていくことになりました。


(写真:アパートの前には、2人の名前を記した小さな祭壇がつくられた。1995年1月21日撮影)

2人を遺体安置所になっていた王子スポーツセンターに運んだ

聞きて)王子スポーツセンターは、どういう状況でしたか?
上野さん)もう体育館は避難している方でいっぱいで、3階の武道場へ連れて上がってくれっていうことで、
聞きて)運んでくださいということですね。
上野さん)はい。そこが(遺体)安置所にしてあって、私らは183番ぐらいだったんでね。もうほとんどみんな埋まってたんですね。私らの後で来た人はみんな、別の所へ行かされてましたわ、はい。入り口だから、もう寒い寒いなんていう思いが、まだ今も残ってますけどね。
聞きて)そのときも、川村さんのお父様やご兄弟も一緒ですか。
上野さん)一緒だったんですけど、途中で帰られました。
上野さん)その夜は、ずっと(順番に)検視はしてもらえてたんですけど、1人15分ぐらいかかってたんで、人数的に見てもね。
とうてい今日中にははできへんという。それで、お医者さんも、自分の体が駄目になってまうから、今日はもう打ち切りや言うて、途中で帰られたんで…。

底冷えの武道場 遺体の傍らで検視を待った

聞きて)上野さんは、その時ずっと、志乃さんのご遺体の傍らにいたんですか。
上野さん)うんうん、ずっと…。遺族の方は(安置所になった武道場のフロアには)1000人ぐらいおったかも分からんね。
聞きて)ああ、みなさん付き添いの方もおられて…。
上野さん)1人について5人ぐらいいましたから。
読売新聞は、こんな写真を撮っていいんかっていう写真を撮って。
王子スポーツセンターのね、遺体安置している様子の写真を撮っていました。

<新聞社の写真集の写真を手元で見せながら>

次の日の夜やっと検視の順番が

聞きて)神戸大の亡くなった39人も、灘区に住んでいた学生が多かったので、王子スポーツセンターに安置されたとおっしゃる方多いですね。
上野さん)そうですね。
聞きて)検視の順番を待つことになったんですね。
上野さん)183番、184番やったかな。もう一番最後のほうだったからね。
聞きて)いつごろ順番回ってきたんですか。
上野さん)次の日の夜、1月19日の夜ですね。昼ごろまでは1人が見よったんですけど、(検視の医師が)2人になったんで、夜の6時か7時ごろにやっとその番が回ってきて、検視をしてもらった。

裸にしての検視 妻らと毛布で囲って…

上野さん)服も脱がせてスッポンポンで(検視)されるから、毛布を持って、周りをみんなで囲って、見られんようにしたりとかね。私と、連れ(妻)と、何人かで(囲みました)。
ピンセットで、こないして(検視を)やってね。まあ要するに、殺されていないという(ことを確認する)、検視だったと思います。
聞きて)事件性のある遺体が紛れ込んでいないかどうかを確認するんですね。
上野さん)はい。
聞きて)奥様は、ずっと一緒だったんですか。
上野さん)ええ一緒でした。ずっと泣いてましたけどね。
聞きて)何時ころまでかかりましたか?
上野さん)19日の夜9時ぐらいに終わったかな、

1月19日の夜10時ごろ ようやくワゴン車に乗せる

上野さん)1月19日の午後10時ごろに、やっと自宅に連れて帰ってもいいという話になったんで、帰ったんです。最初に、川村さんを西区のお宅へ送ったあと、娘を連れて帰りましたね。川村さん宅へは、30分ぐらいで行けたんじゃなかったかなと思いますね。
聞きて)車を運転されるのは上野さん?
上野さん)そうでした。
聞きて)奥様は?
上野さん)助手席に。ずっと連れ(妻)は泣いたままでした。
後ろ2列のシートが倒れるようになっていたので、ワゴン車やったからね。
聞きて)そこに志乃さんを載せて帰ったんですね。
上野さん)戸板の上に、毛布を敷いたりしてね。

20日午前1時ごろ 実家で兄・妹・弟らが出迎える

上野さん)もう、情報は伝わってたんでね。鹿児島の方からも、連れ(妻)のお母さんなんかも来てくれて。
聞きて)志乃さんのおばあ様ですね。
上野さん)そうですね。「代わってあげたい」とかね、そういうことを言ってましたね。
聞きて)ご自宅に着いたのは何時ごろでしたか。
上野さん)川村さんのとこへ寄ったりしたから、20日の午前1時ごろですね。

鹿児島から駆けつけた祖母は「代わってあげたい…」と

聞きて)どういう状況で出迎えられましたか。
上野さん)それは娘や息子(志乃さんの妹や弟)がね。娘は高校1年生ぐらい、2年かな。いちばん下の息子が中3ぐらいやったと、思います。
聞きて)志乃さんのごきょうだいですね。
上野さん)よう我慢してね、耐えておったなと思いましたね。下の娘は、大学生になってから症状が出てきたりしましたけどね。

3、4年たって、妹は過呼吸の症状が突然出るようになった

上野さん)下の娘はその後、琉球大学にいってね。理学部の海洋自然学科だったかな、そこへ入って。推薦で入った。
そこからですね、何回か過呼吸症候群を発症するようになってね。
実家へ帰ってくるとき、空港で倒れたりとかね。ここの風呂場でもやって、もうちょっとで危ないところだったですけどね。
聞きて)日常で、突然、過呼吸になるということですか?
上野さん)そうやね。どんな関連性があるか分からないですけどね。
聞きて)3年、4年もたってそういう状況になるんですね。
上野さん)まあ、仲良かったからね。
聞きて)で、一番上のお兄さんもその時は?
上野さん)早稲田(大学)行っとったね。
聞きて)東京からこちらへ戻ってきた?
上野さん)はい。何かぐりっと回ってね。
聞きて)山陽方面の鉄道や道路が、震災で全部通行止でしたからね。
上野さん)ええ、上のほう(日本海側)を通って帰ってきた言うてました。


(写真:実家には、志乃さんの大学時代の作品や思い出の品が残されている部屋がある。)

21日は友引だったので告別式は22日に

聞きて)ご親戚も兄弟も集まられて。
上野さん)そうですね。実際に葬儀ができたのは1月23日やったかな、2日ぐらい間があったんで。
聞きて)どうして間があったんですか。
上野さん)いやもう、いっぱいなんで。焼くところがいっぱいだったから、斎場がね。
聞きて)斎場が順番待ちだったんですか。
上野さん)地元の佐用で、荼毘に付したんですけど。
聞きて)そこもいっぱいだったんですか
上野さん)ええ、ここもいっぱい。
聞きて)それはやはり震災の影響で?
上野さん)そうじゃないかな、詳しくは分からないですけど。順番待ちということでね。(編集部注:政志さんの震災翌年3月にまとめた手記には「21日は友引で告別式はできないので、通夜を21日にして告別式は22日になった」とある)

2日間ほど仏間に安置され、自宅で葬儀

聞きて)お通夜は?
上野さん)その前にしているかな、あまり記憶がないですね。
上野さん)2日ぐらい間があって、ずっとそこ(仏間)に置いてたから…。まあそれは逆によかったかなと思ったりしてね。
聞きて)よかったというのは?
上野さん)それはもう、灰になってしまうよりはね。
聞きて)葬儀の会場はどちらだったんですか?
上野さん)ここでした。
聞きて)ご自宅で?
上野さん)はいはい。

廊下に出して、みんなに顔をみてもらった

上野さん)まあ普通はみんなもう、いっぺん通りで終わるんですよね。父が亡くなった時はね、私がみんなにね、死に顔ですけど見てもらおういうて、わざわざ、仏壇の所からね、廊下へ(なきがらを)出してね。そこで(顔を)見てもらって帰ってもらったことがあるんですね。娘もそういうふうにしようと言って、見てもらって、
聞きて)お顔を見てもらって?
上野さん)そうそうそう。
聞きて)こちらの廊下に?
上野さん)ここへ出してね。

上野さん)神奈川県のある町の習慣で、額に手を当ててお別れするという習慣があるそうなんです。その経験をした人の言葉を借りたら、遺体に手を当てたら氷より冷たかったと書いている。
「氷より冷たいな」と、私も(志乃の)足に触れた時にそう感じていたんですけどね。

神戸大学の友人も、震災の混乱の中、参列してくれた

聞きて)お葬式には、志乃さんのお友達も参列されたんですね。
上野さん)上津(うわづ)中学校のときの友達が、なんかみんな来てくれたみたいやね。挨拶はさしてもらったですけど、余裕がなくてね。個別には対応できなかったですけどね。はい。
大学の友達とかもね、来ていただいた。
聞きて)神戸は震災の混乱で、交通機関も止まってますし。参列するのは大変だったでしょう。


(写真:震災直前まで3人で取り組んだ課題。追悼手記「忘れないで 志乃」から。)

徹夜で課題をしていた同じ学科の3人

聞きて)お友達の話では、震災の前の晩は3人の学生が志乃さんの部屋にいたと?
上野さん)はい。午前5時ごろまで同じ学科の3人で、美術の宿題をしとった。
食べながらね。飲みながら宿題して、お風呂も行ったりして、
聞きて)銭湯ですか?
上野さん)銭湯ですね。行って帰ってきてまだ続けてね。5時ごろまで宿題しとったいう。生きてる方が、ちゃんと知ってるんでね。いろいろな話は教えてもらったですけど。

1人は発災45分前に帰宅し無事だった

上野さん)「はよ終わったな」と言うて、一人は「私は帰るわ」って自分のマンションに帰った。村並さんという名前やけど、その方は。
西区の川村さんは、帰らずに一緒に寝ようかっていって、こたつで志乃と一緒に寝た。
聞きて)そのあと、地震が起きた。
上野さん)午前5時、だからその46分後ですね。寝入ったところで、被災したということで。何にも分からんままだったんだろうなと。

聞きて)午前5時に自宅マンションに帰って生き残った方が、村並さんという方なんですね。その方もご葬儀に見えたんですか。
上野さん)その人が読んでくれたんじゃなかったかな。追悼文(弔辞)を読んでもらった。

<後編> https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3be06ac403d6e571902f2f2070982606 に続く

<2021年11月21日取材/2022年1月12日 アップロード>

(写真下:兵庫県佐用町の実家横にある志乃さんのお墓の前で。2021年11月21日)

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