櫻井英二さん(当時22歳、愛媛県立八幡浜高校卒、法学部4年・阿部ゼミ/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町5丁目7番地の安田文化1階5号室に下宿していた。
四国・八幡浜に暮らす母・幸子さんにインタビューを申し込んだが、高齢でもあり、英二さんの姉の都築和子さん(神戸市兵庫区在住)に聞いてほしいという答えだった。
夫や子供とともに東灘区の集合住宅で被災し、加古川へ船で避難。さらに、故郷の愛媛での英二さんとの対面。
圧迫のせいか、「顔が真っ黒だったんですよ。だからすごい苦しかったんだろうな」と証言する。
取材班は、神戸・三宮のビルの会議室で和子さんにお話を伺った。
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f
《写真》櫻井英二さん(1994年4月撮影)
社宅マンションの1階がつぶれて… 自身も東灘区で被災した
きき手)櫻井英二さんとは、何歳違いでしたか?
都築さん)昭和39年生まれの私が、小学校2年の時に生まれた弟です。7つ、8つ違いになります。間に妹がいます。
きき手)はじめに震災当日はどこにいらっしゃったんですか?
都築さん)私は当時、神戸市の、東灘区の、阪神高速道路が倒れましたでしょう、あのすぐ近くの、10階建て社宅の8階に住んでいたんですよ。グラグラッと揺れて、すぐに飛び起きて、主人と、子供が2人いたので、お互いにかばうように、覆いかぶさったんです。2回目(の揺れ)が来たんですよね、地震が。今度はドンときたんです。
都築さん)しばらくたってから、とりあえず外に出ようということになって、冷蔵庫とか、全部倒れているんですけれど。そこをよけながら、必死で玄関をあけて、階段から下に降りたら、2階までしか行けないんですよ。ちょっと外を見ると、みなさん2階から飛び降りてるんですよね。
きき手)つまり1階がつぶれて、2階が1階になっていた。
都築さん)1階が、つぶれていると言っても、ぺちゃんこではなくて、2階から飛び降りられる高さまでつぶれていたんですよ。とりあえず私と子どもはそこから飛び降りて、道路脇に腰掛けて待ってたんです。2回目の揺れだと思っていた、ドーンと突き落とすような衝撃は、まさかの1階がつぶれる揺れだったんですよ。主人は、社宅内の仲間と一緒に、1階の人を助けに行こうということで、主人たちは行って。私たちは寒空で震えて待っていたって感じなんです。
都築さん)結局、誰も犠牲者はいなかったんです。あとから避難先で聞いたんですけれど、1階のお部屋の奥さん方は、もう死ぬかと思ったと。結構怖かったみたいですね。
きき手)住んでいた社宅の場所は?
都築さん)東灘区北青木なんですよ。今もうそこは取り壊して、新しい社宅、立派な社宅が建っていますけれど。
[地図]東灘区北青木 https://goo.gl/maps/cz2PeH7Q2fZZkH5x9
きき手)どういう会社の社宅だったんですか。
都築さん)神戸製鋼です。
きき手)神戸では有力な企業で、社宅があちこちにありますね。阪神電車の青木駅の近くでは火災もありました。
都築さん)そこはちょっと気が付かなかった。
きき手)ご自宅自体が大変でした。
都築さん)そうなんです。だから被災者というか。被災者でありながら遺族っていう感じで。はい。
夫の会社からの情報が頼りだった
きき手)東灘区の青木(おおぎ)は、芦屋から神戸市内に入ってすぐのところですね。
都築さん)ですから高速道路が倒れたすぐそばですよ。阪神電車の、北側に7分ほど行ったところですね。先ほどお話ししたように主人達が1階の人を助けに行っている間、つぶれた社宅前の道路脇に腰掛けていた時、その近くの人が(自分たちが)パジャマ姿で来たんで、洋服とか差し入れてくれて。捨てたもんじゃないですよね、いい人もいるんだなと思いました。これ着てねとか言って。つらかった震災ですけれど、あれはちょっと心にしみて、うれしかったですね。
都築さん)独身寮が近くにあるんですよね。とりあえず、そこにみんな避難しているから行こうということになって。行ったんですけど、とにかくひび割れているので、ちょっと怖くって独身寮もね。とりあえずその日の夜は、小学校に避難したんですよ。
きき手)小学校は何小学校でしたか。
都築さん)本山南小学校です。小学校に避難して夕方になって、それであくる日になったんですけれど、小学校に避難していたら会社の情報って入ってこないですよね。とりあえず独身寮に戻って、そこにいました。
《写真》インタビューに応じる都築和子さん(2022年11月3日、神戸市中央区で)
きき手)やっぱり情報というのは、大切でしたか?
都築さん)会社の情報は大切ですよね。頼るところがそこしかないんで。(四国の)実家に頼ろうにも遠すぎるでしょ。(神戸市内に)親戚もいるんですけれども、もうすごいことになっていて、行く手だてがないんで。ここはもう会社にすがるしかないっていう感じで。子供も小さかったので。
愛媛の実家に電話 「英二からまだ連絡がない」
きき手)震災のとき、お子さんはおいくつでしたか。
都築さん)そのころが、3歳と、6歳かな。(幼稚園に)行ってたら年少で、上の子が小学1年生だったんですよ。
きき手)まだ小さいから、お母さんがそばにいないと。
都築さん)そうなんですよね。そこはやっぱりね、私がそばにいないと駄目やなと思って。その独身寮に行くところで、実家に電話したんですよ。
きき手)どこから?
都築さん)独身寮に行くまでの道路沿いに公衆電話があったんで、実家に電話したら母が出て。無事でよかったわ、と。高い所に住んでいるので8階だから、もうすごく心配したみたいで、「よかったー」とは言ったんですが。その後、「英二から電話がない」と言って。
男の子だし、1階に住んでるんで逃げて大丈夫なんちがうかなと、母は言っていたんですよね。で、私もそうやな、と思ったんで、まさかね。つぶれているなんて、死んでいるなんて思わないでしょ。1回目(に実家に電話)かけたのはそこなんですよ。
きき手)何時ごろになりますか?
都築さん)何時ごろか覚えてないですけど、1月17日の午前中でした。
きき手)公衆電話はすんなりかけられましたか。
都築さん)かけられたんですよ。並んでなかったんですよ。
都築さん)家から脱出するときは、電話とかまで気が回らず、とりあえず下まで行かなきゃという感じでした。電話が(実家に)つながったのは、よかったんですけどね。でもその段階でまだ弟からは電話がなかったんで。
都築さん)会社のほうから、「加古川に社宅があるので、そこに避難できる」という話があって。行くんだったら今しかないと思いました。会社の船で行くんですが、ルートが(他に)ないんでね。行かなかったら、そのあと会社からの情報がないでしょう、やっぱり。避難してた人が、全員行ったんじゃないですかね。私の近くに避難してた人はみんな行ったんですよね。もちろんそこまで歩いて行ったんですよ。
都築さん)会社は、灘区の南にあるんですよ。
きき手)当時は灘浜、脇浜一帯に工場がありましたね。
都築さん)はい、今もあります。そこから船に乗って、会社の敷地から船が出たんですが。
きき手)当日ですか翌日?
都築さん)そこが、主人と話したんですが、当日ではないんですよ。次の日か、その次の日。神戸で2泊したと思うんですが、加古川で2泊したのか、どっちで2泊したのか分からないんですよね。私の記憶では次の日かなと思うんですけれど。
きき手)加古川に船で避難できたのは、神戸製鋼の会社の力があるからですね。
都築さん)そうですね。英くん(えいくん=弟の櫻井英二さん)のことも気になったんですけれど、そこはやっぱり、交通も動いてない、周りはみんな家など潰れているし、見た感じもすごい景色だったんですよ。(会社に)すがっておかないと無理と違うかなと思って。
きき手)すごい景色とは?
都築さん)もう何かね、潰れてる家が多かったですね。ほとんど1階がつぶれているけれど、4階とか、5階が潰れているビルもあるんですよ。これは、もう自力では無理だなと思って。避難所に行けば、何か支援があるかもしれませんけれど、さっきの小学校は、ほかの方もたくさんいらっしゃったので。
きき手)混乱の中で、まずお子さんをまず守らなければ。
都築さん)そうですね。
船で加古川に脱出 弟は絶対生きてると信じて
都築さん)船で加古川に着いたのは、夜だったんですけれど、そこでまた(愛媛の実家に)電話した時に、「駄目らしい」と聞いたんです。親戚が神戸市北区の鈴蘭台にあるんですよ。そこに(両親は)行ったっていうのを、留守番してくれている親戚から聞いて。まだ(英二は)見つかってはなかったですけれどもね。
きき手)じゃあお父様とお母様は、愛媛から神戸市北区のご親戚の家に向かっていたのですね。
都築さん)そうです。
きき手)鈴蘭台は神戸市北区で、比較的被害は少なかったですね。
都築さん)はい。でも、あとで母から聞いた話では、ルートがなかった。四国から姫路まではいつもどおり行けたんです。そこから先に進めなかったんですね。だから親戚のおじさんに、車で姫路まで迎えに来てもらった。
きき手)そこからは?
都築さん)迂回して、鈴蘭台にやっと着いたみたいなんですけれどもね。
きき手)お父様、お母様はとりあえず鈴蘭台でスタンバイする。一方、都築さんご一家は、加古川に行かれた。
都築さん)そうなんですよ。(両親が)鈴蘭台へ行くっていうのが(最初から)分かっていたら…。弟が亡くなっている可能性がわかっていたら、私たちも鈴蘭台のほうに行ったかもしれない。でも「絶対生きてる」って思ってたんですよ。信じて疑わなかったから。
再び愛媛の実家に電話 「ダメだった」
都築さん)で、次の日の昼ごろだったかな、と思うんですけれど、どこかで、たぶん電話して、やっぱり(英二は)駄目だったと。
きき手)加古川に着いて愛媛のご実家に電話をしたら、英二さんが駄目だったらしいという情報だったんですね。
都築さん)親戚のおばさんが電話に出て、「ダメだった」っていう。
都築さん)鈴蘭台に行かなきゃと言ったら、動かない方がいいんじゃないかということだった。
きき手)それで、そのあとは。
都築さん)しばらくして電話したんです。で、その時に、「(遺体は)自宅に帰ってくるから。かえっておいで」といわれて、愛媛に帰りました。
遺体は愛媛へ 和子さんも実家に帰ることに
きき手)あの、震災後1年目にですね。ニュースネットが、お母様に聞き書きをした記録があるので、それをちょっと読ませていただきます。
やさしい子でした。一人っ子(編集部注:男の子は一人)でした。残念で残念でならんのです。
お正月に帰って来て、今度就職したら、地元に帰るから、ゆうてね。伊予銀行に内定していました。両親が弱ったら、近くの(八幡浜の)伊予銀に配属してもらう、言うてました。
あの日、大家さんから『息子さんから連絡あったか』と電話がありました。十七日に出発して十八日朝に(六甲町に)つきました。
消防署に頼んでも、音沙汰のないところは放ってあって。二階が一階になっとりました。二階の畳はがして、木を切って。それでも見つかりませんでした。本なんかをかき分けたら、その中におりました。
友人や私の兄や七、八人が出してくれました。十九日の朝でした。二十一日に車で連れて帰って、お葬式をしました。
百人超える友達がお参りにきてくれました。ありがたいことやなぁと思います。うちに財産はないから、学校やるのが財産やけんな、とあの子に言っとりました。卒業証書ももらったけど。残念でなりません。
<「特集 震災から一年〜あなたのことを忘れない 神戸大学四十四人への追悼手記」1996年1月17日発行『神戸大学NEWS NET』紙面より>
このように書いていらっしゃいます。
都築さん)そうですか。そのへんが、忘れているみたいで。21日にお葬式だったと記録が残っているんですね。
きき手)お母様は1月17日に愛媛・八幡浜を出発したけれど、神戸に着いたのは18日の朝だと書いてらっしゃいます。夜が明けたんだと思いますね。
都築さん)朝早く行ったみたいですね。あっ、それで謎が解けました。
きき手)整理すると、お母様、お父様は地震のあった1月17日には出発して、18日の朝に神戸市に着いた。一方、姉の都築さん一家は神戸を船で脱出して、18日には加古川市に着いていたということになります。
きき手)都築さんは、英二さんの住んでいた灘区六甲町5丁目の安田文化住宅の現場にはいつ行かれたのですか。
都築さん)当日、(現場に行こうとして)周りに一緒に避難していた人たちに、子どもたちを見ていてもらえないか頼んだんですよ。でもこの状況でしょ。何かあったときに責任持てないからそれは無理ですって言われて。
都築さん)(東灘区から灘区の六甲町の英二さんのアパートまでの)距離を考えたら、歩いて行くだったら行けるかもしれないけれど、帰ってこないといけないでしょう。それを考えると無理だなと思って。
で、主人には(現場のアパートに)行ってもらったんですけれども、1月17日の当日、昼間に行って、夕方暗くなって帰ってきたんですけれども…。呼びかけたけど返事がなかったという話は聞いたんですけれど。
おじ2人と大学の友人たちが引っ張り出してくれた
きき手)お母様の談話によると、「友人や私の兄が出してくれました」と書いてありますが。
都築さん)あの、母の妹もいたんですけど。母の弟と兄が水道工事してるんですよね。
聞き手)都築さんからすると、おじさんやおばさんにあたりますね
都築さん)おじ2人と、大学生の友人たちが助け出してくれた。
都築さん)消防署のかただったって、母が言ってたんですけど。そばで救助活動をしていた人に、「ここにいるはずです」って頼んだと母は言うんです。けれど、やっぱり声がするとか、生存反応がある人が優先なんで、「呼びかけに応じない人は後になる」「1週間先になるか10日先になるか」と言われたので、2人のおじが、「僕たちは、水道工事しているから、全責任私たちが見ますから、引っ張り出すのを許可してください」と言ったというんです。それで、2階から、穴を開けるというか…。
聞き手)床をはがす訳ですね
都築さん)そう、はがして。おじ2人と、来てくれたたくさんの大学生の方が…、
きき手)大学生というのは?
都築さん)多分友人、英くんの友人だと思いますね。
きき手)大学のある灘区内ですからね。
都築さん)大学生の人たちとおじたちが、助け出して。母は倒れたらいけないんで、周りから、「行ったらいかん」と言われて、家(つぶれた下宿)のそばで見てた。母を見守るために、母の妹が付きっきりでいたそうです。
文化住宅の1階 斜めに倒れてペチャンコだった
都築さん)だから、助け出すときには、立ち会えなかったんです。
きき手)ご主人もそのときは立ち会えなかった?
都築さん)立ち会ってないです。その時わたしたち2人は加古川にいましたんでね。
都築さん)私が潰れたアパートに行ったのは、お葬式も終わってしばらくたった時が最初ですね。1か月ぐらいたってからです。はい。
きき手)でも、ちょっとしんどかったのではないですか。
都築さん)うーん…でもやっぱり、どんな感じだったのか見ておきたかったので、はい。
都築さん)こう、斜めに倒れて、ペチャンコだったんですよ。建っているものがこうなるわけですね西側に(手を斜めに上から下に動かす)、弟の、部屋に向けて斜めに倒れた。逆だったらもしかしたら助かっていたかもしれない。
きき手)弟さんの部屋は、(ニュースネット委員会の記録)では六甲町の安田文化1階5号室と、ありますけれども、5号室は、1番西側ですか。
都築さん)はい西の端です。
布団の中で圧死 1階じゃなかったら…
都築さん)母の話ですと、(大学の)寮に入る予定だったんですよ。手続きに行ったんですけれど、担当者に言ったら、「そこは留年してる人が毎年数名出るから」っていうことで。で、勧められたところが、この下宿(安田文化)だったんですけれどもね。
そこは、お年寄りがたくさんいて少々騒いでも大丈夫だし、1階だから、すぐ何かあったときに逃げられるからいいですよと言われて、そこに決めたっていう話を聞いて、ね。「寮に入ってたらなぁ」と…。
きき手)最初は寮に入るつもりだった?
都築さん)でもね、地震とかきてまさかぺたんこになるとは思わないんでね。助け出したときに、おじたちが、こたつの高さしかないって言ってたみたいですけれどもね。でも、私がしばらくしてみた時は、もっとぺったんこよねっていうぐらい、すごい潰れようでしたね。この椅子の高さもないんじゃないですかね。天井が落ちたみたいで。もう息をするすき間がないん違うかな、これじゃ駄目よねっていう感じで、苦しかったやろうなと思って。
きき手)布団に、寝ていらしたんですか。
都築さん)寝てました。布団の中で、はい。圧死と聞きましたけどね、圧迫されて。
都築さん)1階じゃなかったら、もしくは、もうちょっと時間がずれて昼間だったら、ねえ、大丈夫だったろうなと。それかもう2か月ぐらいあと、そしたらもう(アパートを)出る予定だったんで。だからちょっと(地震の)時期があとにずれてたらなと。
きき手)地元の伊予銀行に内定されていました
都築さん)母にしては、ちゃんとしたところに、(下宿を)用意しとったらなっていうのがあるみたいですね。
きき手)もっと別の所に住まわせていたらということですね。
都築さん)そうですね。でも、神戸に地震がきて、家がつぶれるなんて、だれも思わないですよね。もし、タイムマシーンがあったら、地震前に時間をもどして、「この下宿はダメよ」と伝えたいですね。
顔が真っ黒だった すごい苦しかったんだろうな
きき手)避難した加古川から、急きょ愛媛・八幡浜の実家に向かわれたんですね。
都築さん)私が帰った時はもう、弟は運ばれてきていました。私たちのほうがあとだったんですよちょっとだけ。
きき手)ご実家に、和子さん戻られたのはいつだったですか。1月21日がお葬式だったのではないかという記録ですよね。
都築さん)(震災後実家に帰り着いたのが)20日だと思うんですけれど。だから帰った日はお通夜をしたんですよ。でその次の日がお葬式なんで。
きき手)お葬式にはたくさんの方が見えたと、記録がありますね。
都築さん)そうですね。初めはね。神戸の鈴蘭台でお葬式したらって言われたんですよね。でもね。やっぱり父と母は、生まれたところでどうしてもということで、連れて帰ったみたいなんですけれど。でもそれにもかかわらず、たくさんの方や、たくさんの大学生のお友だちが来てくださいましたね。
きき手)当時、神戸周辺では交通期間も止まっている中で、よく四国まで。
都築さん)どうやって来られたのか分からないですけれど、来てくださいました。ありがたいことです。
きき手)愛媛で、実際にご遺体と対面されたのですね。
都築さん)顔が真っ黒だったんですよ。だからすごい苦しかったんだろうなと思って。傷とかはなかったんですよね。多分圧死というか、圧迫されて亡くなったらそうなるのかしらね。その姿が、目に焼き付いて、いまだに忘れられない。
何かすごい本当に苦しかったんやろうなと思って。真っ黒というのは汚れてるとかそんなんじゃないんですね。うっ血かなんかだと思うんですけれど。
きき手)お葬式の場所はどこだったんですか。
都築さん)自宅です。どうしても自宅でって言って。
都築さん)実家の一番奥というか、一番広い部屋ですね。畳敷きのところの、いちばん北側に寝かせました。お棺に入れて。
きき手)英二さんはどんな体格でしたか?
都築さん)大きいですね。私より大きくて体格もよかったですね。顔も真ん丸で。
きき手)何かスポーツなどはなさってたんですか。
都築さん)どうなんでしょう聞いたことないですけどね。中高は何かやってた思うんですけれど、弟が中学の時に、私は結婚して神戸に来たんですよ。
で、帰ってきた時に会うぐらいで。
7つ違いのかわいい弟 私が面倒をみていた
きき手)弟の英二さんとは、7つ違いだったんですね。
都築さん)だから親代わりです。父と母が兼業農家なんで、すごい忙しかったんで、学校に行ってる時は別ですが、ほかは、私が弟や妹の面倒をみてたんです。
お姉ちゃん子ですね。かわいくてしょうがない。保育所の参観日も、母の代わりに行ったことがあります。
きき手)どんな弟さんでしたか。
都築さん)物知りで、優しい、自慢の弟でした。だから、大学生になって、近くに住むようになって、日帰りなんですけれど、しょっちゅううちに来て、私の娘2人をかわいがってくれました。
きき手)英二さんにとって、姪っ子さんになるんですよね。
都築さん)そうです。で、お兄ちゃん、お兄ちゃんって娘たちもなついてて。2人もうちに来るのを楽しみにしてたんですね。
きき手)お姉さんが嫁がれた町の大学に来たんですもんね。
都築さん)そう。灘区のアパートから東灘区北青木だから、歩いたら遠いんですけれども、バイクだとすぐなんで。泊まりはしないですけど、よく来て遊んでくれて。ごはん食べて帰るという感じですね。
きき手)どんなバイクですか。
都築さん)ちょっと大きなバイク。それも、震災後乗ってくれるんならといって、友人に譲ったみたいですね。
きき手)都築さんの2人の娘さんたちにとっても、よく来てくれるお兄ちゃんが亡くなって、ショックだったでしょうね。
都築さん)ショックですね。神戸の大学を選んだのも、私が嫁いでる土地だし、親戚もいっぱいいるし。で、皮肉にも、東京みたいに地震なんか来ると思ってなかったでしょ。安全な場所というのが(意識が)あったみたいなんですよ。
きき手)それは、ほかの方もおっしゃってますね。東京の方が地震が多く危険だと思っていたと。
都築さん)そうなんですよ。まさかこうなるとは思わないですよね。だったらもっと丈夫なマンションか何かにね…。1階は選ばないですよね。
地震の数日前も遊びに来て 娘たちと遊んでくれた
きき手)震災前、弟の英二さんに最後に会ったのはいつですか。
都築さん)震災の数日前に、日帰りで、うちの娘たちと遊んでくれたんです。震災があった日にうちに泊まっていたら大丈夫だったのに。
きき手)じゃあお正月明けてからですね。
都築さん)そうです。私はお正月は神戸にいたんですけれど、弟は実家(の愛媛・八幡浜)に帰っていたみたいですよ。実家に4、5日いたんですよね。そのあと。
きき手)10日ほどの間ですね。
都築さん)その間に日帰りで来てたんですよね。
きき手)その時どんなご様子でしたか。
都築さん)いや普通どおり、うちの子どもたちと遊んで、公園に行って。その間、私はごはん作って、みんなで食べるという。もう、娘たちが、気にいってて、お兄ちゃんお兄ちゃんって言って、私がしゃべる間もないっていう感じで。
きき手)お姉さんが会話に入るすきがないと。
都築さん)だから、弟としゃべった記憶があんまりないんですよね。
きき手)英二さんと姪っ子さんたちの様子は、ほほえましいですね。
都築さん)来るの楽しみにしてたから。写真もあるんですけれど、すごくなついてたんですよ。
《写真》姉・都築和子さんの2人のお嬢さんと(1994年4月22日、神戸・布引で)
将来は父母や妹の面倒を見たい 地元の銀行に内定
都築さん)はい。(写真を取り出す和子さん)こんな感じなんですけれどもね。
きき手)優しそうなお兄ちゃん。
都築さん)肩車してもらったり、こうやって遊んだりとか。かわいがってくれるんですよね。
きき手)子どもさんが好きだったんですね。
都築さん)ちっちゃい子と遊ぶのが得意だったみたいで、やっぱり優しいから余計ですよね。
きき手)神戸大学の法学部を選ばれたのは、神戸という土地もあって選ばれたんでしょうか。
都築さん)そうですそうです。神戸大学だったら、法学部と決めていたみたいです。合格発表の時、私が大学の掲示板まで見に行って、すぐに、校内から合格の電話をした時、すごく喜んでいました。掲示板で確認するのが、一番早かったので…。あこがれの大学で学べて、幸せだったと思います。
きき手)伊予銀行に内定というのも、これもご希望だったんですね。
都築さん)これは私、いつ聞いたのか覚えてないですけれど、在学中、就職内定したあとに聞いたんです。「伊予銀にしたよ」って言ったんですけれどもね。伊予銀も悪くはない。でもメガバンクとかに挑戦しなかったのって言ったら、やっぱり、父母の面倒とか妹の面倒を見ないといけないからって言って。母も言ってましたけれど、弱ってきたら、実家近くの伊予銀の支店があるでしょう。そこに戻れるので。それまでは転勤でもいい。だけど、(親が)弱ってきた場合に戻れるから伊予銀にしたっていったんですよ。地元にあっていい会社。だから選んだみたいなんですよ。
就職試験の面接官が実家に訪ねてきてくれた
きき手)妹さん、つまり真ん中のお姉さんのそばにもいたいという気持ちがあったんですか。
都築さん)そうですね。
都築さん)何年か前に、入社の面接で担当された方が、「やっと来れました」と言って、実家にお越しになりました。「やっと来れました。私はいま銀行の一番トップにいます」って言って。
きき手)そのときの人事の担当者の方が?
都築さん)面接官です。面接の時、「なぜうちの銀行を選んだのか」と聞いたら、長男なので、妹のこともあるし、両親が弱ったりしたらゆくゆくは実家の支店に戻らせていただけるんなら採用してくださいと、弟が言ったらしいんです。
「その時の発言に、感動しました」って、話されていたそうです。弟ながらすごいなと思って、なかなか言えないでしょ。
都築さん)わざわざ来てくださっただけでも、うれしいですよね母も。「有望な人を亡くしてすごく残念です」ってその方言われて、母も、びっくりしてたというか、感無量というか、でしたね。
きき手)面接官の方もずっと、記憶に残っていたんですね。
都築さん)20数年たってね。まだ入社前で内定しただけで、1日も働いてないでしょ。震災さえなければ、すばらしい上司に恵まれてたでしょうね。
きき手)お父様、お母様は農家でいらしたのですか。
都築さん)父は専業です。母は兼業でした。
きき手)お母様ははたらきながら農業を?
都築さん)いろいろやってましたね。製造業とか。
きき手)農業は、愛媛ですから、やっぱりみかんですか?
都築さん)いろいろ作っていました。みかんも野菜も。母は今も作ってますね。はい。
きき手)お父様は2年前にお亡くなりになられましたね。お母様が今はご実家に?
都築さん)その時はやっぱりねえ、弟がいたらなあって思いますよねえ。
きき手)お母様は、下の妹さんと、今一緒に住んでらっしゃるんですね。
都築さん)はい。近所の人とか、親戚がこまめに来てくれてすごくよくしてくださるので、ありがたいことやなと思います。私が、実家に住み、母たちのお世話をしてあげるのが一番良いとは思うんですけど、いろいろな事情から、電話したり、たまに帰省したりする事しかできなくて心苦しいです。
ユースサイクリング同好会では3人が亡くなった
きき手)英二さんは、大学ではユースサイクリング同好会で活動されていましたね。
都築さん)はい。集合写真もたくさんあるんですよ。弟の部屋からは写真をとり出せなかったから、友達が全部送ってくれて。楽しい充実した、大学生活を送ってたんだなって思って。
きき手)ホームページを見ると、現在はユースサイクリングサークルycc(https://kobeycc.jimdofree.com/)という名称で活動しています。「1974年に設立された自転車愛好サークルとあります。震災で、たしか3人亡くなっているんです。神戸大のクラブ活動の中で、震災で最も多い部員が亡くなった団体です。
都築さん)3人は多いですね、初めて聞きました。
《写真》都築さんの2人のお嬢さん、母、真ん中の姉とともに。(1994年4月22日、新神戸駅で)
きき手)(集合写真を見ながら)英二さんはどこですか?
都築さん)大体ね、端のほうに写ってるんですよ。これとかそうですね。
きき手)確かに端っこの方に。
都築さん)そう、控えめなのかしら(笑)。
きき手)本当にいろんな所にいくんですね。
都築さん)日本はもう全国行ってるんです。実家に帰るのも、自転車で帰ってきたことがあって。
きき手)えー!
都築さん)私もびっくりした(笑)自転車で四国に帰ってきたのって。
きき手)すごい。
都築さん)私も日本一周もしました。船やバスとか乗り継いで。ツアーですよ。やっぱり、旅行好きだった弟みたいな真似をしたいな、みたいな感じで、はい。
《写真》ユースサイクリング同好会(現ユースサイクリングサークルycc)の仲間と。櫻井英二さんは後列左端に写っている。(撮影年、撮影場所不明)。
<2022年11月3日取材/2023年1月13日 アップロード>
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)=姉・都築和子さんの証言=<後編>に続く
【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1
了
【編集部注】集合写真に写っておられる方すべてに承諾を得ることができていません。写っておられる方で、画像加工を希望される方や、掲載取り消しを希望される方は、お名前と連絡先(メールアドレス)を 神戸大学ニュースネット委員会 newsnet_kobe_u@goo.jp あてお知らせください。
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