【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)=姉・都築和子さんの証言=<後編>

 櫻井英二さん(当時22歳、愛媛県立八幡浜高校卒、法学部4年・阿部ゼミ/ユースサイクリング同好会)は、神戸市灘区六甲町5丁目7番地の安田文化1階5号室に下宿していた。
 姉の都築和子さんは、英二さんが自分の娘をかわいがってくれたことを、写真を手に振り返る。
 ユースサイクリング同好会でいっしょだった同級生は、毎年実家を訪ねて手を合わせてくれるという。
 1月17日の震災の日は、ほぼ欠かさず神戸大学の慰霊碑に、坂道を歩いて行くという和子さん。神戸・三宮のビルの会議室でお話を伺った。

【慰霊碑の向こうに】14 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】14 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f


《写真》インタビューに応じる都築和子さん(2022年11月3日、神戸市中央区で)

2人の娘も「おにいちゃん」に懐いていた

きき手)(英二さんと都築さんのお子さんの写真を見ながら)こちらのお写真は、上のお子さんですか
都築さん)はい。そうですね。後ろに…
きき手)裏に平成4年って書いてある。震災の3年前くらいですね。大学に入られた年ぐらいですね。
都築さん)そうです。こんな感じですごい懐いてたんですよ(笑)。優しいからやっぱりなつくんですよね。弟も、小さい子を扱うのに慣れているので、なぜ慣れているのか分かりませんけど、慣れてたんで。

きき手)都築さんのお宅に行ってたのはどんなときでしたか。
都築さん)休日だと思います。
きき手)じゃあ土曜日とか日曜日に
都築さん)そうですねはい。


《写真》姪と遊ぶ櫻井英二さん(1992年9月1日)

詩を書いた娘 天国にいったおにいちゃんへ

きき手)都築さんのお子さんたちは、英二さんのことをどのように覚えいらっしゃるでしょうか?
都築さん)今回、取材受けるにあたって、聞こうと思ったんですけれども、聞いていないんですよ(笑)覚えているとは思います。当時も、新聞に応募してて、詩みたいなものを書いています。それが、新聞に載ったので。
きき手)それは小学校の時ですか?
都築さん)そうですね。長女が9歳の時です。
きき手)英二さんとの思い出を?
都築さん)はい。
きき手)当時、幼かったお嬢さんたちも今、もうおいくつぐらいですか。
都築さん)今もう30歳超えました(笑)。生きていれば、弟も結婚して、子どもも生まれ一緒に遊べたのになあと思って。すごい残念ですね。

きれいに かがやくお月さま
わたしのおにいちゃんは、はんしんだいしんさいでしんで 天国にいっちゃったの。
いもうとは、天国は、お月さまの中にあるっていっていた。
ほんとうですか。
おにいちゃんは、お月さまの中から わたしたちをみまもってくれているの。
がんばれってね。
いっぱい あそんでくれた おにいちゃん。
いっぱい おかしをかってくれた おにいちゃん。
いっぱい べんきょうをおしえててくれた おにいちゃん。
いつも やさしかった。おにいちゃんと もっといっぱい
あそびたかったよ。
じしんのとき、ふしぎなことがあったの。
わたしたちがねているところだけ タンスがたおれなかった。
ほかのへやは タンスや れいぞうこなど、いっぱい
たおれたのに。
きっと おにいちゃんが まもってくれたのね。ありがとう。
だって、おにいちゃんのしんだかおは、まっくろだったから。
いっしょうけんめい まもってくれたんだね。ありがとう。
お月さまをみていると おにいちゃんを いっぱいおもい出します。
お月さまをみていると おにいちゃんのぶんまで、ながいき
したいとおもいます。
お月さまをみていると おにいちゃんのぶんまで、がんばり
たいとおもいます。
(1996年 読売新聞に掲載)

きき手)都築さんのお子さんは、英二さんが亡くなられた前と比べて変化はありましたか。
都築さん)そうですね。すごいショックを受けてたんですよね。愛媛に3月末までいて4月から加古川に移ったんですよ。秋までいたんです。加古川と愛媛の小学校と保育園に通ったんです。みんなよくしてくれましたし。愛媛の時は春にはつくしがあったり、加古川ではレンゲ畑とか、おたまじゃくしとか、セミとか。
きき手)震災直後は、いったん愛媛に移られたんですね。
都築さん)お葬式後もずっと、3月まではそのままいて、加古川の社宅に入れるということで、加古川に戻ったんです。加古川でもすごいみんなよくしてくださって、友達もたくさんできて、ああよかった…精神的ショックが表に出なくてよかったよねと思っていたんですよ。ところが、神戸に帰った途端、下の子があんな楽しみにしていた幼稚園に行かなくなったんですよね。
きき手)そうだったんですね。
都築さん)それが結構長いこと、数か月続いたんですけれども。親と離れたくないみたいで、あれはちょっと困りましたね。私が毎日連れていったんですけれど、先生に抱っこされながら大泣きする娘に、後ろ髪をひかれながら私は家に帰っていました。
義務教育でないからね、幼稚園って。もう行かさなくていいんじゃないって主人が言うほど、すごい大泣きで。でも先生の話では、私の姿が見えなくなると、ケロッと泣きやんで、お友達と楽しそうに遊んでいたみたいです。あの大泣きの時期はちょっとつらかったですね。

都築さん)母が「神戸は怖い所」うーん、「また地震来るぞ」とか言ってた。母としては悪気はなかったんでしょうけれど、やっぱり子どもにとっちゃ、体験もしてるしね。お兄ちゃんは亡くなってるしね。
きき手)実家のお母さまとしては、愛媛から神戸に帰ってほしくなかったということなんでしょうか。
都築さん)そうですね。落ち込む中でも孫ってはしゃぎ回っているからね。でも、実家の母としては、ほんとうに神戸は怖いところだったと思うんです。小さな地震(余震)もまだあったし、かわいい孫を危険な目にあわせたくないという強い気持ちからでた言葉だったと思うんですよね。遺族であり、かつ被災者でもある私にも、母の気持ちがよくわかります。

▽都築和子さんの震災後の行動
1月17日 地震発生。夫がアパートに探しに行くが見つからず。
1月18日 夫の会社手配の船で加古川に避難。
      空いている社宅にとりあえず身を寄せる。
1月19日 親戚や大学友人が英二さんを瓦礫から出し、愛媛に搬送。
1月20日 都築さん一家が愛媛に帰郷。英二さんの通夜。
1月21日 英二さん葬儀
3月末まで 2人の子どもと愛媛・八幡浜に残る。
4月1日  加古川に空の社宅ができたので戻る。
11月   神戸の社宅に戻る(修理できた同じ敷地の棟に)

約10か月後 神戸の社宅に戻る

きき手)およそ10か月後に神戸のほぼ元の場所に戻ってこられたんですね。
都築さん)愛媛と加古川を経由して、はいそうですね。
きき手)大人としては、事情は分かりますが、お子さんとしてはね。大変だったでしょうね。
都築さん)でも、ふだんできない体験ができましたね。山があるから、あれは、救われましたよね。神戸にずっといたらもっと気持ちはひどかったかなというのはありますね。

きき手)お子さんは、英二さんのことを言ったりされましたか。例えば、どうして会えないのかなとか…。
都築さん)それは聞いたことがないですね。亡くなったことは分かってます。顔も見てますし、お骨拾いも行っているので…。もう帰ってこないというのは理解できて。

都築さん)自分もつらいけど、周りの泣いている人を見ているから、やっぱり悲しませる訳にはいかないなというのは身に染みて分かってたみたいですね。だから私も、娘の前では泣かないように、負担をかけないようにはしましたね。

きき手)お嬢さん方は、もうそれぞれ独立されたんですか。
都築さん)独立しています。でも、家を借りるときは、1階は駄目って。どこでもいいから1階だけはやめといてねって、それは念を押して。やっぱり1階はね、もうトラウマですね。

悲しみを封印… でも、ふいに涙が止まらなくなることが

きき手)都築さんご自身も、心理的にしんどいことはなかったですか
都築さん)私ですか。ありました。地震を体験して、弟が亡くなっているでしょ。でもやっぱり子どもには悲しんでる姿を見せたくない、強い母でいたいので、閉じ込めてはいたんですよね。最初に、亡くなったと聞いた時は、涙で座り込んじゃいましたけど…。それからしばらくは、ほとんどお葬式も涙出てこない。しばらく封印という感じだったんですよ。無理して。
それに、実家の両親がすごく悲しんでいたので、私がしっかりしなきゃと思ったんですね。きょうだいより両親の方がつらいというのは、私も理解してましたから。周りの方の「お母さんたちを助けてあげてね」という発言にも苦しみました。言った方の気持ちはわかりますし、私自身、両親たちを助けなきゃという気持ちがあっただけに、両親と娘の前では、涙を見せてはいけないと思いましたね。

都築さん)泣いちゃいけない、涙を出しちゃいけないという感じですね。そう我慢したのがいけなかったのかわからないけど、避難先の愛媛で、娘が通いだした小学校で音楽会があったんです。曲を聴いている時に、感極まって涙が出て、それから涙が止まらなくなっちゃって…。その後も家庭訪問とか、全然震災と関係ないことなのに涙が出て、道で誰か似た人を見たら涙が出る。そういうのが数年続きましたね。弟に似ている人を見たら、涙が出て。食べ物とか、友達と震災とは関係ない話をしていても涙が出たり。家庭訪問のときは娘のこと話して、震災関係の話も出てこないのに、涙が出るっていうのが数年続いて。そして誰もいない時は、涙が出て止まらない。

都築さん)人間ってこんなに泣けるんだなって思いましたね。でも、それじゃいけないって思って、数年後にね思ったんですよ。どうして立ち直ったかというと、家族旅行したんですよ。それまで、私の家は、実家に帰るのが旅行だったんです。で、思い切って、初めて家族旅行で沖縄に行ったんですよ。で、飛行機から見るでしょ、きれいな海を。見た時に、あーやっぱり、楽しい思い出をいっぱい持って、天国で(弟と)しゃべりたいよねと思ったら、涙が出て。それがきっかけになって、少しずつ涙が出なくなった。その旅行が転機になって。
「一生懸命生きる」「楽しい思い出をいっぱい作る」。これが、生きたくても生きられなかった英くんの供養になると思うんです。

きき手))何年後ぐらいですか。
都築さん)震災後2、3年たってましたね。それでやっと立ち直れたというか。悲しみを我慢していたというのもあるし、最初に避難した加古川が1階だったんですよ。主人に「何で1階なんよ。ダメや」なんて言ったんですけれども、1階で…。さらに4月に加古川に行った時に、社宅が割り当てられましてね。ベランダ開けたらお墓なんですよ。落ち込んでいるのに…、あれで余計に辛くなっちゃってもう…。

きき手)誰も悪くはないけど…。
都築さん)会社としては知らないですからね。(家族に)亡くなっている人いない人と、無造作に社宅を割り当てたみたいなんですよ。悲しみを封印してるし余計ですよね。あのころはつらかったですね。4人家族の中で一番ひどかったのは私かなっていう感じで。今でこそ結構ね、にこやかに話していますけれど、あのころは辛かったですね、はい。

きき手)いろいろお辛い気持ちとかあったと思うんですけれど、震災前と震災後で、何か考え方とかに、変化ってありましたか。
都築さん)変わりましたね。何て言うのかな、後悔しないで生きようとか。いろいろありますね。あと、さっきみたいに友達とか上司とか…気にかけてくれる友人関係。そういう人に出会えるのが、一番の財産や思うようになりましたね。誰か助けてくれる人がいる。そういうのが(気持ちの変化が)ありました。

1月17日は必ず大学の慰霊碑に向かう 坂道を歩いて

きき手)毎年、1月17日の震災の日は、どう過ごされてるんですか?
都築さん)震災の日は必ず大学の慰霊碑の所に行くようにしています。(お昼にある)大学の慰霊献花式より、時間的にちょっと早めに行ってて。だから、ほとんど誰もいらっしゃらないんですよ。準備している係の人がいるぐらいで。

きき手)ほかの遺族の方との交流とかは?
都築さん)最近はないですねここ何年か。
きき手)来年も行かれますか。
都築さん)行きます。

きき手)大学にある慰霊碑は、都築さんにとってどのような存在ですか。
都築さん)あそこは唯一何て言うかな、やっぱり、弟の魂があると思っていて。弟の楽しい思い出がいっぱい詰まっている大学ですから。私も元気をもらえるし、ここに来たら、弟に会えるような気がする。それと、1年の報告をしたいなと思って毎年行っています。もちろん、最初の数年は辛い場所でしたけど。
きき手)行かれるときは都築さんお一人で?
都築さん)ここ数年は、私一人だけですね。以前は、娘を連れていったこともあったんですけれども、ここ数年は私一人で行っています。六甲道からずっと全部歩いてます。
きき手)あの坂道を?
都築さん)坂道を。あそこで、何ていうのかな。1年間のことを振り返って、「これからも頑張るから、見守ってね」という思いもあるんです。バスで行ったらすぐですからね。貴重な時間です、私には。

きき手)毎年欠かさず?
都築さん)1回だけちょっとね。退院直後で。私は行く気だったんです、行く気満々で、「行く」って言ったら、実家の母に止められて。「いかないでくれ、そんな退院直後に行ったらあかん」と言われて、1回だけいかなかったことがある。8年、9年ぐらい前かな。あとは全部行っています。もう寒い日だろうが、どんな日でも雪がちらつく時もありましたよね、確か。

命日に毎年実家に来てくれる 高校・大学時代の友人

きき手)お母様が来られたことは?
都築さん)何回もありますけれど、最近はもう、神戸に行くこと自体大変みたいで。
きき手)そうなんですね。
都築さん)母は、1月17日には来ないんですよ。それは、友だちの坂上君(坂上義典さん=岡山県の自治体職員、同級生)が毎年来て下さるんで。

都築さん)その方が毎年来て下さって、いろいろ話していただいています。どうしてもこれないっていうのが2,3回あったんですけどね。そういう時は阪上君の、お母さんと妹さんが、代わりに来るという感じで、はい。職場の方も、その日は行っておいでって温かく送り出してくれるらしいっていう話を聞いて、やっぱりいい職場なんだなと思って。
きき手)その方は大学のご友人ですか。
都築さん)高校が一緒、大学入っても一緒。同じ愛媛なんですよ。去年もコロナ禍の中だったけど、わざわざ来られて、こういう時期だから、と言って、すぐ帰られたっという話を電話で聞いて…。数年に1回だったら分かるけど、毎年だから。いい友達だったんだろうなあ、生きてたらねもっとね。いろんなことをね。共有して楽しめたのになと思って。

きき手)ほんとうにいいご友人ですね。
都築さん)お母様は、お葬式の時に大勢来られた友人を、みんな泊められたみたいなんです、宿泊先として。私もそれ知らなくて…。そこまで気が回らないでしょう、こちらは。どうしたんだろうと気にはなってたんだけれども、ああそうか、坂上君が泊めてくれたんだなと思って。なかなかね、友人としてできるかもやけど、親までね。なかなかできないでしょう。だから育て方もよかったし、お母様もすばらしい方だな思って、優しい良い人ですよね。

風邪をひいた友人にうどんを作ってあげた英二さん

都築さん)数年前に、このことを読売新聞が取材してくださいました。
きき手)(ネットで検索する)2016年の記事にありますね。「阪神大震災21年、あの日 今も胸に 県内各地追悼の催し」という見出しで、愛媛県版に出ていますね。
都築さん)はい。はい。

きき手)記事にはこうあります。
「震災で亡くなった神戸大法学部4年生だった櫻井英二さん、当時22歳の、八幡浜市、大平(おおひら)の実家に、八幡浜高校と神戸大法学部で一緒に学んだ、岡山県矢掛町の職員、坂上義典さん43歳が訪れた。遺影に向かって手を合わせると、父・福安さん、(83歳)、母幸子さん(77歳)も頭を下げた」とあります。
都築さん)岡山だったんですね。
きき手)「震災2日後、福安さんらが駆けつけたときには、1階の跡形はないほど。坂上さんも、ともに探したが、冷たくなった英二さんが遺体で見つかった」。坂上さんも探したと書かれていますね。

(うなずく都築さん)

きき手)英二さんは穏やかで、優しい性格で、震災の3日ほど前、坂上さんが熱を出して寝込んだ時には、英二さんが夜訪れてうどんを作ってくれたというエピソードも記事になっています。
都築さん)ああ、そうなんですか。
きき手)大学ではともに、サイクリングのサークルだったとも載っています。
都築さん)ああ、一緒でしたね。
きき手)風邪で寝込んだ友だちの所に行ってうどんを作る男の子って偉いですよね。すごいなあ。
都築さん)ねえ。優しい英くんらしいエピソードですね。

都築さん)写真を見ると本当に日本全国に行ってるみたいですね。
きき手)これは1993年3月31日になっていますね。この「天然坊主地獄」というのは大分県の別府温泉ですかね。


《写真》ユースサイクリングの仲間と。中列右から2人目が櫻井英二さん。(1993年3月31日、大分県別府で)

都築さん)そうです別府ですね。家族でもよく行ってたんです。弟が小さい時もよく行っていました。

アパート跡には長いこと行っていない 「もうここには弟はいないなと」

きき手)1月17日は(大学の慰霊献花式が)12時半から行われますから、お昼前に行かれるのですか。
都築さん)もっと前ですね。
きき手)それは、どういうお気持ちから?
都築さん)ちょっとね、いろいろ用があるのと、あと、何でしょうね。何か行きづらいなっていう感じもありますよね、多少は。
きき手)たくさんの人がいたり、あと報道関係もいたりするからですか。
都築さん)そういうわけではないんですけれど、はい。
きき手)静かな時間に行かれると。
都築さん)そうです。それの方が、なんか気持ち的に、はい。もうちょっと早い時間だったらね、行けるんですけれども。
きき手)大学の昼休みに合わせているんですよ。
都築さん)あっそうなんですか、知らなかった。

きき手)午前中に坂をのぼって下りて、それで兵庫区のおうちに帰られる?
都築さん)はい、そうですね。
きき手)アパートのあったところへは?
都築さん)ここ数年はもう、だいぶ、長いこと下宿先は行かないですね。あまりにも変わってて。もうきれいになって。ここには弟いないなと思って。もう行かないですね。あそこを見ると。
きき手)やっぱちょっと気持ち的にしんどい、
都築さん)そう、気持ち的にしんどい。それでなくてもやっぱり、1月が来ると、つらいですね。1月が近づいてくると、何か体調を崩す。寝込むほどではないんですけれども、気持ち的に。弟の魂がいないであろう跡地に行くと、余計なんかつらくなって。はい。だから大学に行ったあとはそのまま帰ってますね。まっすぐ。

都築さん)三宮の、東遊園地には行く時がありますね。
きき手)そうですか。
都築さん)でもあそこも何か、人が、もう多いでしょ。静かにお参りできる所じゃないなって。だから、2、3年に1回だけは行ってます、はい。

「英くん」「かあ姉ちゃん」と呼び合っていた姉弟

きき手)最初におっしゃってましたけど、英二さんのことをなんと呼んでおられましたか。
都築さん)母は英二とか言うんですか、でも私は英くん、英くんと言ってたんですよ。娘たちの前では、英二兄ちゃんって言っていたんです。

都築さん)英くんは、私のこと、かあ姉ちゃん、かあ姉ちゃんと言ってたんですよ。ずっと。
きき手)かずこお姉さんだから?
都築さん)そう。ずっと。大きくなってもかあ姉ちゃんと呼ばれてました。
きき手)で、親代わりに参観日に行かれていたのはいつごろですか?
都築さん)中学、ですね。
きき手)中学ぐらいの時に、おかあさん代理で、おねえさんが行っていた。
都築さん)そうですそうです。もうかわいくてしょうがなかった(笑)。でも、保育園の参観日に行ったのは、数回ですよ。自慢することでもないですね(笑)。

きき手)でもどうして、英二さんはそんな優しいお子さんになったんですかね。風邪ひいた友達のうどん作るとか、
都築さん)みんなに優しかったんですよね。(弟が)優しいから(周りには)優しい人が集まったんだと思いますよ。だからもう、生きてたら本当もっとね。人間関係広がってて。よかったんでしょうね。

先輩たちが亡くなったことは、伝えていってほしい

きき手)新型コロナウイルスの感染の広がりで、慰霊碑に学生が集まることが、この2年はできなかったんですね。
都築さん)はい。
きき手)その前の、震災25年が2020年でしたけれど、その前の年までは、慰霊碑があそこにあることも、多くの学生から忘れられているという状況でした。

きき手)学生たちが、震災の慰霊碑があることすら知らない、ということについては、お姉様はどう、思われますか。
都築さん)時代の流れですからね。忘れられるのはつらいですよね…。

きき手)どうしたら若い人たちにも伝わるのかなと思うんですけれど。
都築さん)どうしたらいいんでしょうかね。(首をかしげる都築さん)…難しい問題ですね。でも、やっぱり、先輩たちが亡くなったのでね。伝えていってほしいなというのはありますね、はい。

都築さん)でも1番は、やっぱり、自分の命を大切にしてほしい。慰霊碑を見て命の大切さを分かっていただければ。今、若者の犯罪とか多いですよね。自死もあるし、他人を…ね、巻き込む犯罪とか多いので。やっぱり、命の大切さを、生きたくても生きられなかった先輩たちがたくさんいるのでね。それを、感じ取って頂ければいいなと思います。やっぱりあれ(慰霊碑)はずっと、置いておいてほしいですね。そういう意味では、はい。


《写真》ユースサイクリング同好会の仲間と。櫻井英二さんは後列左端。(撮影年、撮影場所不明)。

やっぱり忘れられることが一番つらい

きき手)あと2年で震災から30年ですね。
都築さん)そうですね。早いですよね。知らない方が増えるはずですよね。
きき手)当時50代の方がもう80歳過ぎですね。
都築さん)そうですよね。私も(当時の)母の年齢を超えましたし、娘たちも、かわいがってくれた弟の年齢を超えてますから。で、親もだんだん弱ってきますしね。今まで(このインタビュー連載で)取材された方でもね、おとうさんおかあさんどちらかが亡くなられた方、たくさんいらっしゃるんでしょう。

きき手)そうですね。インタビューさせていただいた直後に亡くなられたお父さんお母さんもいます。
都築さん)私も話すの嫌いなので(このインタビューを受けるのを)やめておこうかなと思ったんですけど、でも、私の言葉で何か感じ取っていただければ。ねえ。はい。こういう機会がなかったら知らなかったこともたくさんありましたし。こうして記録に残るということは、記事を読んで、何かふと感じ取って頂けたら、いいなって思うんですよ。やっぱり忘れられることが一番つらいですしね。もちろん、弟の生きたあかしを、文章として残しておきたいという思いもありました。

<2022年11月3日取材/2023年1月13日 アップロード>

【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<前編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/9bf0c4a091b634fa88beb244e92ff7cb
【慰霊碑の向こうに】15 故・櫻井英二さん(当時法学部4年)<後編>=https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/4a7df18ea52c327df001a6bad941545f

【連載 【慰霊碑の向こうに】 震災の日、学生たちの命は…】
これまでの遺族インタビューの連載を掲載しています
https://blog.goo.ne.jp/kobe_u_media/e/3e6b34f6761ad0439dea1a0d93c2e9c1

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