【慰霊碑の向こうに】20  故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)=妹・築山裕子さん、父・橋本健八さんの証言=<前編>

 橋本健吾さん(当時19歳、医学部医学科1年/医学部サッカー部所属/岡山白陵高卒)は、神戸市灘区中郷町3丁目のアパート1階に住んでいた。
 震災の日、兵庫県多可町の実家で揺れを感じた父・健八さんは、兵庫区の祖母宅に下宿して私立中学に通っていた妹・裕子さんをまず案じた。建物が古かったからだ。
 裕子さんが無事とわかった父・健八さんは、灘区にある健吾さんの下宿アパートに向かった。現場に着いて倒壊した状況を知ったという。
 多可町から応援を呼んで、18日夕方に健吾さんを掘り出した。
 健八さんは、「ああ、やられたと思いました。お腹のとこに耳をつけてしばらくおったら、体のぬくもりが残ってました」と証言する。

 一方、裕子さんは、兄の死を知らず、一晩、親戚と体育館で過ごした。翌日、実家に電話をして母から事情を聞かされた。
 周囲では建物が崩れ、街からは煙が上がっていたが、実感が湧かなかった裕子さん。ところが、実家に帰り兄の遺体を見たら、急に現実味がわいてきたのだという。

 取材班は、兵庫県内のマンションに妹・築山裕子さん(44)を訪ねてお話をうかがった。途中、父・健八さん(86)が電話で加わり、お二人でインタビューに答えてくださった。

【慰霊碑の向こうに】20  故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)<後編>

(写真:橋本健吾さん、高校時代の写真。1992年6月19日撮影 家族提供)

倒壊した兵庫区の祖母の家 離れにいて助かった

ききて)地震のあった1月17日の早朝は、どちらにおられましたか?
築山さん)私は神戸市兵庫区の祖母の家におりました。強い揺れが突然起こって目が覚めたと同時に、壁の棚に置いていた本が全部私の方に落ちてきました。ただごとじゃないなあと思いました。…そう思っているうちに、もう一回大きな揺れがあって、飛び起きました。

ききて)兵庫区のどのあたりでしたか?
築山さん)新開地の駅から徒歩5分以内のところで、かなり揺れはひどかったと思います。神戸の(私立)中学校に通っていたので、下宿していました。3連休だったですよね。連休を終えて学校が始まるので、(実家から祖母の家に)戻っていたところでした。

(写真:ニュースネット委員会のインタビューに答える築山裕子さん 2024年11月3日午前、西宮市で)

ききて)学校はどちらでしたか?
築山さん)(灘区の)阪急六甲にありました。なので(神戸大学の)近くですよね。
ききて)ということは、健吾さんの下宿先からもそれほど離れていない場所ですよね。
築山さん)そうです。すごく近くて、私は数学が苦手やったので、母から兄に教えてもらいってよく言われたんですけど。兄もねえ、受験が終わって、クラブ活動(医学部サッカー部)とか、遊びも(笑)すごく忙しくしていたので、時々下宿に行くんですがいつも留守でした。

ききて)すごくお家が揺れたということなんですけども、あそこまでの大きな被害だというのは、どのように知りましたか?
築山さん)家から出ると、祖母の家とおじの家と、私がいたちっちゃな小屋があったんです。同じ敷地内に3つ建物があって。
ききて)築山さんの住まいは、いわば「離れ」ですね?
築山さん)そうです。その離れから出ると、祖母は前年に病気で亡くなっていたんですが、その祖母のいたほうの古い木造の家屋は、1階が無くなっていました。ぺしゃんこになっていたので、声を失いました。

(写真:父・健八さんは電話でつないでインタビューに答えた)

はじめ兵庫区の娘の方が心配だった

<ここから父・橋本健八さんが電話で参加>
ききて)お父様、お電話ありがとうございます。早速なんですけども、30年前の地震のとき、どのようにして被害を知りましたか?
父・健八さん)うちが揺れたからです。

築山さん)実家の兵庫県中町(現・多可町)も結構揺れたんやな。
父・健八さん)揺れました。はじめは神戸じゃなくて日本海の方やと思ったんやけどな。

ききて)神戸で被害がでているということをどのように知りましたか。
父・健八さん)テレビを見とったらです。
築山さん)うんうん。
父・健八さん)神戸の街は御影石の上に立っとるから大丈夫やと思っていました。

築山さん)震災前は、父は神戸に地震が来るなんて思ってなかったみたいで、人づてに「御影石の(地盤の)上に神戸は乗ってるから大丈夫や」、と聞いてたみたいですね。
父・健八さん)JR(神戸線)から山の方は大丈夫や思っとった。

ききて)では、灘区中郷町3丁目のアパート1階に住んでいた健吾さんの下宿が大変なことになっているかもしれないというのは、どういうことでお知りになりましたか?
父・健八さん)いや、現場に行くまではそう(大丈夫だと)思ってました。そもそも妹の方(兵庫区)へ行っとったからな。

築山さん)古い離れに住んでたので、私の方ばっかり気にしてて。兄の方は男の子だし、逃げてるやろうと思ってたみたいです。な、お兄ちゃんは逃げとるやろうと思ってたんやんな。
父・健八さん)うん。そうやけど、地震やったら、下の方(海に近い浜側)やったらちょっと危ない、と思いながら行ったんやね。

(写真:母・智子さんと父・健八さん)

健吾さんの部屋に梁が落ちてきていた

父・健八さん)神戸大学から下へ(浜側へ)ずっと出たら、オートバックスあるでしょ。
築山さん)今、あるんかな。兄の下宿の近くに自動車用品店のオートバックスがあって。高羽小学校の近くだったかな。
父・健八さん)そこの裏の方におった(住んでいた)からね。まあ、家借りる時は、…なんとなく、危ないなあと思って借りたんですよ。

築山さん)木造の文化住宅だったので。

父・健八さん)大学の案内がなぁ。
築山さん)大学が案内した物件だったの?
父・健八さん)築18年ということになっとったんやけどな。
築山さん)もっと古そうでした

築山さん)ほな、お兄ちゃんのこと知ったのは、直接現場へ行ってやな?
父・健八さん)現場へ行ってやな。まさかと思うとったから、スコップとかノコギリなんか全然持って行ってなかったんや。金槌と釘抜きくらいしか現場になかったよな。それで(息子が)居りそうなとこを探しましたら、上から梁が落ちていました。
築山さん)お兄ちゃんのとこ、梁が落ちとった?

父・健八さん)1回目掘ったときは、ちょっと場所を間違えとって、それで2回目掘って…、2回目で見つけたんやけどな。

多可町から応援を呼んで、18日夕方に健吾さんを掘り出した

ききて)何時ごろ現場に行かれたんですか?
父・健八さん)(震災の)当日の昼からです

父・健八さん)それから何も道具がないから、家に電話して道具をいろいろ持ってきてもろて、人も4人ほど来てもろうてな。それで掘り出しました。
築山さん)何時ごろ?
父・健八さん)えーとな、5時ごろや。
築山さん)夕方5時ごろ。うんうん。
父・健八さん)外へ出したんや。

ききて)道具や応援の人は、兵庫県中町(現・多可町)から呼んだんですか?
父・健八さん)そう。友達1人とうちの社員の子とか…。
築山さん)うちは車屋(自動車修理工場)をしていたので、そこの整備士さんたちも一緒に来てくれて。
父・健八さん)うん。

掘り出したとき、健吾さんの体には温もりが残っていた

ききて)健吾さんを見つけた時は、どんな状況でしたか?
父・健八さん)ああ、やられたと思いました。5時半ごろ掘り出してな、お腹のとこに耳をつけてしばらくおったら、体のぬくもりが残ってました。
ききて)…。

父・健八さん)道具がなかったから。
父・健八さん)だから、こっちからチェーンソーやプライヤー…、ちょっと荒っぽいことできるやつを持っていってな。釘抜きも1メーターぐらいの釘抜きも持っていきました。

ききて)きっとバールみたいなものだったかもしれないですね。
築山さん)そうです。

多可町の実家に連れて帰って、近くの開業医が検視

ききて)その後、健吾さんを多可町の実家に連れて帰られたんですね?
父・健八さん)うん、連れて帰った。近所の人も来て、おってくれた。親戚のほとんどが来てくれてました。
築山さん)田舎なんでね。

ききて)お父さん、検視は警察でしたか、それともどこかのお医者さんでしたか?
父・健八さん)開業医の矢持さんです。

築山さん)初めて聞きました。家に来てもらったの?
父・健八さん)うん。
ききて)じゃあ、その診断は実家の近くの矢持医院の先生がなさったんですね?
父・健八さん)そうそう。

掘り出すとき、現場には医学部サッカー部の友人も来てくれた

築山さん)あとね、神戸大学のお友達も来てくれてたといってました。お兄ちゃん掘り出すとき、お友達も来てくれてたよね。
父・健八さん)医学部の京都出身の子が1人来てくれてたわ。
築山さん)クラブも一緒なんやっけ?
父・健八さん)そう。その子も何度かうちにお参りに来てくれました。

中学、高校のときの友人は、今も毎年来てくれる

父・健八さん)中学、高校のときのお友達も、コロナの間、3年ほど抜けただけで…。
築山さん)そう、毎年来てくれて。最初は春やったんですけど、今は、秋に来てくれます。先週も来てくれてはって、その写真はあるんです。
ききて)じゃあ、お友達が折に触れ、来てくださる。築山さん)はい、毎年。

通夜や葬儀の日程は?

ききて)お通夜、ご葬儀はいつでした?
築山さん)記憶があいまいでしたが母に確認をとると1月18日がお通夜で19日がお葬式でした。雪が降ってました。
ききて)そうですか。

(写真:家族との四国旅行で 1933年夏撮影)

余震が続く中、裕子さんは近くの小学校に避難していた

ききて)ちょっとお話し戻りますが、兵庫区のお家の方は、けがはなかったですか?
築山さん)祖母は、直前の年末に亡くなってたので被災したときにはもうおらず。別棟に住んでいたおじとおばは無事でした。
ききて)良かったですね。お父様がまず心配されたのは妹の裕子さんの方だったんですよね。
築山さん)そうですね。古い家だったので、祖母の家も私の小屋(離れ)も、父が若い頃住んでいたところだった。当日、私が無事だと連絡したので父は兄のところに向かったようです。

築山さん)きっと兄のことがあったからだと思うんですが、当日は、おじといとこたちと近くの小学校に避難しました。
ききて)築山さんご自身が?
築山さん)そうです。兄が死んでいるとは夢にも思わず、一晩、体育館で過ごしました。
ききて)そうですか。
築山さん)こう、余震で電灯が揺れているのを覚えています。
ききて)余震が何度もあったんですね。

兄の死を知ったのは翌日、母から聞かされた

ききて)お兄様が大変だというのは、いつ知ったんですか?
築山さん)翌日です。実家に電話をして母からききました。

ききて)お母様は何と声をかけられたんですか?
築山さん)もうちょっと頭が真っ白で、はっきりと覚えていないんですけど、「お兄ちゃんが亡くなった」というようなことやったと思うんですけど。その日のうちにおじといっしょに実家の方に帰りました。
ききて)つまり翌1月18日。何時ごろ実家に?
築山さん)いつかな? かすかな記憶ですけど、もう本当に頭が真っ白になっちゃったので。涙は出るんですけど、本当に考えられなくて。おそらく景色が薄暗かったので、夕方から夜にかけてなんかなとは思いますけれど。

ききて)ショックですもんね。
築山さん)震災直後は、自分の身に起こっている実感がありませんでした。揺れて(外に)出てきたときは映画のワンシーンを見ているようでした。長田の方では、煙も出てましたが…。ぜんぜん現実味がなかったです。近くにいたおじさんが「空襲みたいや」とおっしゃるのを聞いても、自分の中ではその状況が飲み込めないままずっといましたね。でもやっぱり帰ってから兄の遺体見たら、ね…(涙をぬぐいながら)……現実味が、ありましたね。ショックでした。

ききて)お父様と従業員の方が、お兄様を掘り出されている時というのは、裕子さんは?
築山さん)全然知らなかったです。兄が亡くなったこともまだ知らなかったです。

私が助かったのも紙一重だった

ききて)裕子さんが当時お住まいだった兵庫区と、健吾さんの下宿先の灘区中郷町周辺では、やっぱり建物倒壊の様子とか、街並みの雰囲気は違っていたのでしょうか。
築山さん)もしかしたら、同じぐらい(建物が)潰れていたとは思うんですけど。祖母の家が倒壊したと言いましたが、そこは旅館も兼ねていて。泊まっていたお客さんも一人亡くなられていて。私も紙一重だった。

ききて)裕子さんは何日にご実家に帰られたんですか。
築山さん)夜やったんやと思います。
ききて)18日の夜に。
築山さん)そうですね。被災地で過ごしたのが一泊だけだったので、それはそうだと思うので、翌日には帰っていました。

<後編に続く>

(取材:奥田百合子、佐藤ちひろ/蔦旺太朗、熊谷孝太)

<2024年11月3日取材/2024年1月7日 アップロード> 

【慰霊碑の向こうに】20  故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)=妹・築山裕子さん、父・橋本健八さんの証言=<後編>

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