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【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん=父・弘さん、母・綾子さんの証言=(当時工学部建設学科3年/軟式野球部/静岡県立浜松北高校卒)<前編>
鈴木伸弘さん(当時工学部建設学科3年/軟式野球部所属)は、神戸市灘区六甲町2丁目の西尾荘1階に住んでいた。
震災当日、浜松の実家で揺れを感じた父・弘さんと母・綾子さんは、何度も電話したが伸弘さんにはつながらなかった。
夕方、軟式野球部の友人から、周辺が火事になり、伸弘さんが見つからないという連絡を受けた。
翌18日の朝一番の新幹線で神戸に向かい、午後、下宿していた西尾荘にたどり着くと、そこは一面焼け野原だった。
19日朝から、同じアパートに住んでいた坂本竜一さん(工学部応用科学科3年)のお父さんらと焼け跡を堀ったて、……骨を拾った。
焼け跡は、軍手が焦げるほど、まだ熱かった。
取材班は、静岡県浜松市の実家を訪ねて、父・弘さんさん(78)、母・綾子さん(77)にお話をうかがった。
【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん(当時工学部3年)<後編>
(写真:成人式のスーツ姿の鈴木伸弘さん 1993年1月15日撮影 家族提供)
浜松でも、ゆさーっと揺れて 電話がつながらない
ききて)震災当時の1月17日、どのようにして地震のことを知ったのでしょうか?
父・弘さん)浜松でも震度2で揺れて、感じました。
母・綾子さん)2だった?
父・弘さん)うん。寝てるときにゆさーって揺れたですね。
ききて)揺れて?テレビをつけました?
父・弘さん)神戸ということでしたよね。で、びっくりしちゃって。それからすぐ電話もう何回もしたですけどね、つながらなくて。それで昼間もずっとうちで待機してたんですけどね、電話したりして。つながらなくて。夕方、友達がね…。
母・綾子さん)軟式野球部の友達から連絡があって。
父・弘さん)名前はわからないですけど。「連絡が入ったんです。
ききて)ちょっとその情報は…。
父・弘さん)ええ、びっくりでしたね。
母・綾子さん)信じられないね。信じられない。
父・弘さん)まさか…。建物が壊れてるのは、テレビとかに映ってましたけど、焼けたっていうのはね、初めて聞いてね、びっくりしました。本当に。
(写真:インタビューに答える父・弘さん<右>と母・綾子さん<左> 2024年10月20日 浜松市の自宅で)
翌18日、朝一番で浜松から神戸へ
父・弘さん)次の日、1月18日の朝一番の新幹線で、衣類と食料品をリュックサックに詰めて、大阪に向かいました
ききて)新大阪まで行って?
父・弘さん)はい。それで降りたのが…神戸線ですかね。西宮まで動いてたんですよね。西宮で、もうストップしてたんですけど
ききて)おそらく阪急電車の西宮北口までですね。あの日動いていたのは。
18日午後2時ごろ西尾荘にたどり着いた 一面焼け野原だった
父・弘さん)で、降りて、あと3時間ぐらい歩いて、(灘区六甲町まで)たどり着いたですけどね。その途中も本当に見た光景がね、軒並み建物が倒壊して、道路とか歩道にも瓦礫の山で、その中を歩いてくの大変でしたけどね。その行く途中も、まだ焼け焦げた臭いもするし、煙が上がっていて、本当信じられない状況でした。西尾荘へたどり着いたのが、本当に一面焼け野原になってて。
ききて)何時頃でしたかそれは?
父・弘さん)1月18日の午後2時ごろかね?ちょっと覚えてない。それでも亡くなってるとは思いませんのでね。避難しとると思って。
母・綾子さん)六甲小学校だった?
父・弘さん)六甲小学校。それからもう1ヶ所行ったですけどね。部屋を回って、名前を呼んで、どこかで寝てるのかなと思って探したですけどね。
ききて)これがもう18日の午後?
父・弘さん)午後3時すぎですかね。放送で名前を呼んでもらってですね、あれは六甲小学校じゃないかな? いくら探しても見つからないもんで、どっかにいるかなと思って、それでも反応がなかったもんですからね。3ヶ所ぐらい回っとったよね。で、もう一度西尾荘へ戻るときに…。
母・綾子さん)大家さんがね。
父・弘さん)見てないっていわれたよね、あの日以来。震災以来。
ききて)外に出てきているのを見てないということですね。
母・綾子さん)そうです。
父・弘さん)亡くなったようですと言われて。
ききて)それ何時頃ですか?
父・弘さん)それが夕方って5時頃だったよね。暗かったですね。
父・弘さん)それから避難所で一泊したです。六甲小学校や。その廊下で一晩過ごして。
ききて)これが18日の夜、2日目の夜ですね
父・弘さん)はい。
(写真:インタビューを受ける父・弘さんと母・綾子さん。 2024年10月20日午後撮影)
焼け落ちた西尾荘 掘ろうとしたら軍手も焦げた
父・弘さん)それで次の日、19日にその現場へ行って、西尾荘の。
ききて)何時頃ですか?
父・弘さん)朝すぐ行ったね。8時頃に。それでちょっと触ってみたんですけども、熱くてね。2日たってるんですけどね。軍手もどこでもらったのかな。軍手が焦げちゃってね。掘れる状態でないもんですから、一度浜松に戻って、道具と何か手伝ってくれる人を連れて、もう一度出直してこようかなと思ってですね。
父・弘さん)(同じ西尾荘に住んでいた神戸大生の坂本竜一さんのお父さん)坂本さんがちょうどそこにいて、手伝ってくれて。(坂本さんの)会社の方も呼んでくれて、その方たちが掘ってくれたですよね。堀った中から……骨を拾って…。大変つらかったですよね。
母・綾子さん)そのとき中村さん(同じ西尾荘に住んでいた神戸大生の中村公治さんのご家族)は?
父・弘さん)中村さんはその前に拾い終えてたんだよね。で3人亡くなって、3人それぞれの骨を持って、大家さんと役所行って証明してもらわないと、死亡診断書が出ないっていうことで…。
ききて)大家さんがそういう手続きが要るとおっしゃった?
父・弘さん)坂本さんが、みんな揃って行かないと役所の方で受け付けてくれないってそう言って、大家さんも一緒にね、そう言われたもんで。どういう状況で証明してもらうのかわからなかったですけどね。骨も細かく拾わないと警察か役所ですかね、確認がね、頭とか、そういうところとか全部広げてみるっていうんですよ。それで、これが1人の遺体って。だから綺麗にたくさん拾っていかないと。
母・綾子さん)確認できない。
父・弘さん)確認できないですよって言われちゃって。本当つらかったですね。骨拾いっていうのは。
(写真:西尾荘の焼け跡に供えられた花。妹さんからのメッセージが添えられている 1995年2月11日撮影 家族提供)
焼け残ったのは便器、洗面所の陶器
ききて)西尾荘は、2階建てで、1階に2階がのしかかって、学生たちが出られなかったという話は後で報じられるわけですが。その、焼け跡を掘るというのは、どういう状況だったのでしょうか。
父・弘さん)もう全部焼けちゃってて、残ってるのは便器、それと洗面所の陶器ね。それだけで。あと伸弘はベッドで寝てたですけど、そのベッドの鉄も焦げちゃってて何にもわからないですよね。それで、大家さんが間取りを、ここが居間で、ここでベッドを置いて寝てたからここを掘れば骨が出ると言われて…。何も周りはなかったですね。
ききて)西尾荘で亡くなった神戸大生の、鈴木さん、それから中村さん、坂本さん、いずれも1階のお部屋だったのですね。
父・弘さん)うちのは真ん中辺だったもんですから、余計出れなかったんじゃないかとも言われてですけどね、埋まっちゃってて。
骨を拾って…坂本さん、中村さんといっしょに灘区役所へ
母・綾子さん)だけどまだ信じられない部分があります。夏休みや冬休み、家から本当に4日ぐらい、3、4日ぐらいね。それぐらいで帰ったから今でもね、向こうにいるかなっていうようなね。
父・弘さん)まだ亡くなった姿を見てないもんですから。まだ本当信じられないですね。
ききて)その後、灘警察署にいかれたのですか。
父・弘さん)役所に行ったですよね。灘区役所。それで証明してもらうのに、死亡診断書を出してきてね。夜中になってしまってね、(検視の現場が)忙しくて。
ききて)それが19日の夜中ですね。
大阪行きのトラックの荷台に乗せてもらって
父・弘さん)そうですね。それで交通の便がないので役所の方がね、物資を運んできてくれるトラックに頼んでくれて、大阪に帰るときにそれに乗せてもらうように頼んでくれたんですよね。トラックの荷台に乗せてもらって、大阪まで乗せてもらったんですけどね。揺れて、(お骨の入った)筒は落としちゃいかんからですから。
ききて)どんなふうにお骨を持ってらしたんですか?
父・弘さん)本当の骨壺じゃないですけどね、これ入れてくださいって言われて区役所に持ってくときにそれで入れてったんですけど。
ききて)区役所行く前に?
父・弘さん)その骨壺っていうか、入れ物を。誰がくれたかな。覚えてない。坂本さんが掘ってくれてるときに、その中に入れたですからね。
ききて)それぞれのご家族が何か器に、お骨を入れたのですか?
父・弘さん)それを落としちゃいけないし、トラックに乗ってね。一睡もできないうちに朝早く、大阪の駅に着いてますけど。
ききて)20日の朝ですね。
父・弘さん)はいそうです。
20日の朝、お骨を抱えて新幹線に乗って浜松に帰った
父・弘さん)今度は新大阪から一番電車で浜松に。
母・綾子さん)信じられない。夢見てるような感じでね。泣き崩れるわけじゃないけど何をしてるのか。
ききて)新幹線の座席に(お骨と)一緒に。
父・弘さん)そうですね。手でこうやって持ってたんですけどね。(膝で抱えていた様子を見せる父・弘さん)
父・弘さん)全然関係ないような人もいっぱい乗ってますんでね。絶対に見られないように気を使って持ってました。
真っ先に飼い犬のコロに報告した
ききて)こちら浜松のご自宅では、どなたかが待っていたんですか?
母・綾子さん)親戚がね、実家の親と、あと兄夫婦。あと主人の方の名古屋のお姉さんが待っててくれて。
父・弘さん)すぐ報告したのが、飼っていた犬です。コロにね「伸弘がこんな姿になっちゃったよ」って。3日も留守にしてたもんで。家上がる前に玄関の前で。本当、飛び上がって帰ってきたのを喜んでたもんですからね。まず犬に報告して、それから仏壇へ骨壺をあげて。
母・綾子さん)骨になってしまってるから余計、そうじゃなくて普通の遺体だとあれだけどだと、ちょっと信じられなくて。
父・弘さん)どっかにね、まだいるかもと。しばらくはそう思ったね。
(写真:自宅に並ぶ思い出の写真を見つめる綾子さんと弘さん)
自宅での葬儀には大勢の友人が参列した
ききて)葬儀はどういう形だったんですか。父・弘さん)自宅ですね。たくさん参列していただいて。
ききて)どんな方がみえたんですか。
父・弘さん)神戸からの人たちですね。軟式野球部の人とかね。
母・綾子さん)地元の小学校のお友達も。
父・弘さん)高校時代の友達とか。
母・綾子さん)近所の方も。
父・弘さん)学校でもねいろんな生徒会の役とか、ずっと小学校から中学、高校とやったもんで、けっこう友達が多くて。たくさん来てもらえるような葬儀場でやった方が良かったな、と思ったですけどね。いっぱいなっちゃったもんですからね
母・綾子さん)若い子たちが道路の向こう、塀の方でね(待ってくれて)。うちに来てくれて。びっくりですよね。
ききて)そんな20歳前後でそんなね、お別れになると思ってないですよね。
父・弘さん)1月21日の日にお通夜をして、22日にお葬式をやりました。
ききて)ご自宅で。
父・弘さん)はい。
ききて)皆さんこの仏前に手を合わせられたんですか。
母・綾子さん)そうです。
ききて)他の方にうかがうと、死亡診断書が出るのにものすごく時間がかかって、寒かったっておっしゃる方も多いんですが。
母・綾子さん)早かったよね。
父・弘さん)夜中までにね、返してくれたですよね。
ききて)それは警察官がですか。役所の人ですか。
母・綾子さん)私らにはわからなかった。
父・弘さん)わからなかったですね。
ききて)じゃあ、もう預けて、そして結果が出ました、と来たわけですか。
父・弘さん)それが夜中になってしまったですね。
ききて)もう19日の夜中だったんですね。
父・弘さん)ええ、そうなります。
軟式野球部の友人、工学部の学生も来てくれた
ききて)あのとき神戸はもう大混乱で、それこそ電車も動いてないですから、よく神戸の方からお友達が来ましたね。
父・弘さん)そうですよね。えーって、びっくりするくらい。
ききて)つながりが強かったのは軟式野球部のお友達ですか?
父・弘さん、母・綾子さん)そうですね。
父・弘さん)あれだね、工学部の一緒の授業の一同とかね。ごめんね、その日はあんまり気が動転しててね。対応できなかったですよね、皆さん来てくれた方にね。まさか先にね、自分より先に、息子が亡くなっちゃうなんていうのが信じられませんでしたからね。
ききて)(伸弘さんの)妹さん、弟もショックだったでしょうね。
母・綾子さん)そうですね、こちらもあんまり言葉をかけないけど、それなりにね。
父・弘さん)うんうん。
母・綾子さん)やっぱり悔しさとか寂しさとかね。いろいろあったと思うんですけど。あまり言わないですね。
父・弘さん)ある方に言われたんですけどね。亡くなる前と同じように、妹と弟には接しないと、お兄さんのことばっかね、考えていると子どもによくない事もあるのでね。同じように接しなさいって言われたんですけどね。
ききて)いくつ違いでらっしゃいますか。
父・弘さん)娘は1個違うよね。
母・綾子さん)短大に行ってました。
父・弘さん)弟は…高校生か。
父・弘さん)6つ違う。高校生でね
母・綾子さん)そういうことに関しては、割とこちらも触れないかもしれない…。弟たちも寂しいって…心で思っててもね、親には言わないというか。
(写真:軟式野球部での集合写真。震災直前の秋に 1994年10月5日撮影 家族提供)
親の建設業を継ぐよと言っていた
ききて)伸弘さんは将来こんな方に進みたいとかおっしゃってましたか?
母・綾子さん)それはね、うちが建設業の仕事をしてまして。それで、学校は行かせてもらうけど、あとはこちらに来て、親の跡を継ぐよっていうことは言ってくれてました。長男だから(跡継ぎを)やらなきゃいけないっていう頭があったと思う。割と真面目なほうだもんでね。
ききて)そのとき、ちょうど浜松・アクトタワーが建設中でしたね。
父・弘さん)その図面を見たいということでね。
母・綾子さん)そういう勉強してたんだよね。
父・弘さん)やっぱり…そういう図面を見たいのかなと思ってね、ちょうど私の友達もその現場に入ってたもんですからね、(見せてほしいと)頼んだんですけどね。所長が部外者には見せれないってことで。
ききて)でもやっぱそういう大きなビルが建つと…気になるんですね。熱心ですね。
父・弘さん)思いましたよね、研究してるのかなあとか。
母・綾子さん)真面目に愚痴一つ言わず、優しくて、真面目だね、何かにつけてね。
わがまま言わない、手のかからない子だった
ききて)あんまり口数は多い方じゃなかったのですか?
母・綾子さん)はいそうです。だけど生徒会とかそういうことをやってた。冗談言ったり、そういうのは言わないかもしれないけど、みんなから信頼されてというかね。すごく優しい。面倒見が良いというかね。そういうところがあったねえ
父・弘さん)うん。(うなずく)
母・綾子さん)わがまま言ったりとか、それもないし、手のかからない子。ずっとそうだったね。ちっちゃいときからそうですよね。学校行ってて、お休みで帰ってきても、1週間もいないくらいで。部活があったり、アルバイトもあったり(笑)。
父・弘さん)夏だと合宿があるんですよねえ。本当に帰れるときがないので。
母・綾子さん)また野球も大好きだから、そんなにね、愚痴言ったりとかそういうのはないし、真面目な子だね。うん。(2人でうなずく)。優しく真面目。
<後編に続く>
(取材:蔦旺太朗、熊谷孝太/奥田百合子、佐藤ちひろ、笠本菜々美)
<2024年10月20日取材/2024年1月8日 アップロード>
【慰霊碑の向こうに】19 故・鈴木伸弘さん(当時工学部3年)<前編>