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【慰霊碑の向こうに】20 故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)=妹・築山裕子さん、父・橋本健八さんの証言=<後編>
橋本健吾さん(当時19歳、医学部医学科1年/医学部サッカー部所属/岡山白陵高卒)は、神戸市灘区中郷町3丁目のアパートが倒壊。崩れてきた上階に押しつぶされた1階から、父や実家の自動車整備会社の社員らによって掘り出された。
妹の裕子さんは、地震の後、夢に何度も兄に電話をして、神戸の下宿に戻る兄を引き止める夢や、電話で「逃げて!」と伝える夢を何度も見たという。
橋本さん一家と、医学部サッカー部の同期や先輩との交流は今も続いている。
取材班は、兵庫県内のマンションに妹・築山裕子さん(44)を訪ねてお話をうかがった。途中、父・健八さん(86)が電話で加わり、お二人でインタビューに答えてくださった。
【慰霊碑の向こうに】20 故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)<前編>
(写真:橋本健吾さん 1992年6月19日撮影 家族提供)
葬儀は多可町の実家で執り行われた
ききて)お兄様と対面されて…。
築山さん)お風呂に入れてもらって、もう装束も着て、顔もちょっとかすり傷がある程度で、寝ているようでした。そんな痛々しい記憶はないので、大きな怪我はなかったんやと思います。
ききて)ご葬儀はどこで?
築山さん)実家で葬儀をしました。田舎の家なので座敷があって。
ききて)お父さまやお母さまは、そのようなご様子でしたか。
築山さん)そうですね。父はあんな感じなので、気丈にはふるまっていましたけど、母はもう……、気力を失っていましたね。うーん……とにかくあの時期に、笑顔を見た覚えはないですね、一年ぐらいずっとね。その後も、兄の遺品も見られなかっただろうし、兄の小さい頃のアルバムも見られないと言ってましたが、ここ何年か前から少しづつ整理はしているようです。
築山さん)10年、20年経ってもやっぱり辛そうでしたね。やっとこう30年経って、両親も、だいぶ年をとってきたので、まだ記憶があるうちに、こう形に残していただけたらなあと思って(今回の取材に応じました)。
(写真:友人や先輩が、今も墓参りに来てくれる。左端が裕子さん。前列中央が父・橋本健八さんと母・智子さん 2024年10月27日、兵庫県多可町で 家族提供)
医学部サッカー部や高校時代の友人との交流は今も
築山さん)神戸大学(医学部)のサッカー部のお友達は、マイクロバスを借り切ってお墓参りに来てくださいました。みんな大勢で来てくださるので。
ききて)その当時、医学部サッカー部でご一緒だったご友人たちがマイクロバスで?
築山さん)そうです。まだ兄は1回生だったので先輩と同期の方々が来られました。みんなお忙しいのに、集まってくださって、本当にありがたいと思いますね。
ききて)どなたかが計画してくださっているんですね。
築山さん)兄と仲良くしていただいていた同期の方です。近くに下宿されてましたが震災の日はご実家帰っておられてご無事でした。兄の誕生日にお墓参りによく来てくださってました。
ききて)そのドクターはご実家は?
築山さん)関東の方かな。遠方でいらっしゃったと思います。
築山さん)サッカー部の他の先生もお墓に来てくださっていたみたいです。ビールが供えてあったり、知らないうちにいろいろ置いてありました。豊岡にお住まいの先生も来てくださいました。忘れずに来てくださってありがたいです。
築山さん)兄の高校の時のお友達も、毎年来てくださっていて。
ききて)同じ高校の寮のご友人ですね。
築山さん)はい。これは今年の写真なんですけど。毎年10人ぐらいのメンバーで代わる代わる来てくださって、お墓で写真を撮るのが常になっています。
兄は、鍼灸を学んで中国に留学したいとも言っていた
ききて)健吾さんは中学・高校時代もサッカーをされていたんですか。
築山さん)いいえ、柔道部でした。高校は受験勉強があるので、最後までやったわけじゃなさそうでしたけれど。強かったみたいです。
ききて)じゃあ、その大学から新たにサッカーを?
築山さん)そうですね。ずっとサッカーをやりたかったんやと思うんです。確か、そんなことを言っていました。合格してから初めて実家に帰るときにサッカーボールを買ってほしいと言い帰り道で購入したと母から聞きました。ほかにも色んなことをやりたかったみたいで。鍼の勉強もしたいとか。
ききて)鍼灸?
築山さん)鍼灸ですね。父に言っていたようで。中国に留学したりしたいなって、言っていたみたいですけど。
ききて)あどの診療科を目指していらしたんですか。
築山さん)まだ決まっていなかったでしょうけれどいい医者になりたいとよく言っていたようです。(さきほどの親しい同期の)ドクターが心臓血管外科に行かれたので、もしかしたら2人でそういう話をしていたのかもしれないですね。
ききて)その先生は、今どこでなにをしておられるのですか。
築山さん)今は精神科に転科されて勤務医をされていると思います。
(写真:インタビューに答える築山裕子さん 2024年11月3日午後 兵庫県西宮市で)
兄はやりたいことがいっぱいあったのに
築山さん)ねえ、何かやりたいことがねえ、いっぱいあったようなので、本当に、兄の気持ちを思うと、いたたまれなくなります。ずっと勉強してきて、せっかく受かったのに、1年足らずでねえ…(涙ぐむ)。終わっちゃって。
ききて)健吾さんがお医者さんを目指されたきっかけはご存知ですか。
築山さん)責任感が強くて、優しい兄だったので、実家に戻れる職業を考えていたのかな。田舎で働けるのが大きかったとおもいます。
実家近くで開業したいと神戸大に進んだ
築山さん)神戸大学を選んだのも、開業を見据えていたと思います。京都府立医大とか、岡大とかも考えていたみたいなんですけど、家に戻るなら、神戸が働きやすいんじゃないかと。それは父は何度も言っていましたね。後悔しているんでしょうね。
ききて)後悔ということは、神戸にやらなかったらという?
築山さん)はい、そうです。
小さな地震でも祖母の家の日本人形のかんざしがよく揺れていた
築山さん)私も父から地震は大丈夫やって聞いていたので、まさかと思いましたけど。
ききて)関西でね。
築山さん)そうですね。今思うと、祖母の家の日本人形のかんざしが、たびたび揺れてたんですよ。
ききて)前日もね、神戸で震度1の地震がありました。
築山さん)あ、あったんですね。
ききて)前年の1994年11月には、兵庫県猪名川町で小さな地震が相次いでいました。
築山さん)そうなんですね。
築山さん)当時そんな地震速報とかなかったですしね。
ききて)今みたいに観測ポイントは多くはなかったです。でも人形のかんざしが揺れるような揺れが?
築山さん)その記憶はあります。今思い返すとね。
神戸に帰る兄を引き止める夢を何度も見る
築山さん)ねえ、心残りがあるんでしょうね。夢に何度も出てきましたね。その…(涙でつまる)かんざしが揺れている記憶の後に、すぐお兄ちゃんに電話して…(涙でつまる)。
築山さん)やっぱり地震の前の夢をよくみますね…(涙でつまる)。
築山さん)震災の前の連休は神戸で用事があるから実家には帰らず(灘区のアパートに)戻ってたんだと思うんですよ。
築山さん)で…、(涙でつまる)それを引き止める夢とか、電話で「逃げて!」と伝える夢を、何度も見ましたね。
築山さん)同じアパートでも隣のご家族はピアノなど大きな家具があったので、助からはったみたいですね。1階で建物の条件としてはそんなに変わらなかったと思うんですけど。
ききて)家具と家具の隙間で助かったんですね。
築山さん)はい、おそらく。兄は一人暮らしだったのでテレビぐらいしか大きな家具はなかったようです。
ききて)ちょっとした空間が生死を分けた…。
築山さん)(兄の部屋は)梁とテレビとで隙間があったみたいで。兄が寝ている場所がちょっとでもずれていたら結果が違ったかも、と父が言ってましたね。
(写真:兄・健吾さんが小学校4年生ぐらい、裕子さんが5歳ごろのスナップ 1985年ごろ)
5つ上の優しい兄 「大好きでした」
築山さん)私が小学校2年生の時から兄とは中・高と(寮住まいで、実家から)離れて暮らしていました。ちっちゃい頃は、よく遊んでもらってましたね。兄はゲームが好きだったので、横でゲームをしているのを見るのも好きでした。岡山白陵(高校)から数か月に1回帰ってくるんですけど、すごく楽しみにしてました。
ききて)きょうだいはお二人?
築山さん)そうですね。
ききて)じゃあ、お兄さんは妹さんを可愛がったでしょう。
築山さん)だったと思います。私も大好きでした。
ききて)どんなお兄さんでいらしたんですか?
築山さん)ちょっと恥ずかしがりやで、努力家で才能もあったんやと思います。今回のお話もらって、兄の作品を見ていたんですけれど、小学校の時の絵や切り絵がすごく上手くって。才能があった人なんやろうな、と思いました。
築山さん)優しい人やったんやと思います。母が寝込んでる時に、まだ3歳の時におにぎり作って持ってきてくれたんよ、っていうような話とか。照れ屋だったので、そんなに言葉は多くないですけど。
ききて)多才で、好奇心も旺盛で、いろんなことに挑戦されてたんですね。
築山さん)そうですね。そして大学でも、もっとやりたいことがあったんやろうなと思うと悔しい気持ちになります。
(写真:健吾さん 小学校4年のときの切り絵作品 家族提供)
教養課程の短い間だけだから、と選んだアパートだった
ききて)神戸でお住まいが近くになってからは(兵庫区の祖母宅と灘区のアパート)、どれくらいの頻度でお会いになったんですか?
築山さん)兄は本当に忙しくしていたので、会えたことなかったと思います。たまに兄の下宿へ行っていましたがずっと留守でしたね。
ききて)部活とか大学の授業とかで、もう忙しくされていた?
築山さん)はい、そうです。一般教養が灘区の鶴甲キャンパスで、そのあとは中央区の大倉山キャンパスになるじゃないですか。一年半なり、二年だけ過ごすのであそこ(灘区中郷町のアパート)を選んだということがあったみたいです。
ききて)大倉山にすぐ移るわけだから
築山さん)あの辺、(家賃が)高いですよね。ちょっとの間やからって選んだ下宿やったみたいで、そのことはずっと父も悔やんでますね。
築山さん)下宿の隣にあった新築のお家はきれいに(地震後も)残ってたので。同じ地域でも新しいと倒壊はしなかったのかなと思うと、後悔はありました。
(写真:中学3年生ごろの健吾さん)
地震直前の年末年始は、家族共に過ごした
<ふたたび父・健八さんと電話がつながる>
築山さん)あとお兄ちゃんはなんで三連休、帰ってこなかったんやっけ?震災の前。
父・健八さん)おばあちゃんの葬式が暮にあったやろ。それで、(家庭教師の指導が)遅れてるからいうて帰ってこなかったんや。
築山さん)倒壊した兵庫区に住んでいた祖母のお葬式があったんです。
ききて)それが年末だったんですね。だから、地震直前の1月の三連休は、実家には帰らなかった。
築山さん)そうです。そうかじゃあ、その時に会ったのが最後やな。
父・健八さん)暮れやな。京都を回って帰ってきたやろ。
築山さん)(神戸の祖母の葬儀のあと)京都を回って(兵庫の真ん中の多可町の実家に)帰ってきたんか。思い出しました。父のほうが覚えてますね。
父・健八さん)不思議なことがようある子で、うちの家族みんなが歩いとったら、河原町でサッカー部のお友達に会ったんや…。
築山さん)のちに(倒壊現場から健吾さんを)ひっぱり出してくれた方やね。
ききて)年末から年始にかけての動き。それがご家族ご一緒の最後だったんですね。
築山さん)最後でしたね。
(写真:健吾さん 小学校4年のときの書道作品 家族提供)
家庭教師のバイト 教え子も葬儀に来てくれた
父・健八さん)広島か、京都府立(医大)かね、受けようおもとんねん、言うから、「神大は中に入ってへんのんか」って言うたら、「いや、落ちるわ」言うて。
遠いとこへ行かれたらかなわんしね。反対しましたんや。それで、ほら、神戸受けるわ、受けてくれたんですけどね。
ききて)でも見事、地元の神戸大の医学部に受かって、親孝行でしたね。
父・健八さん)しばらくは安心感が大きかったんですけどね。初め入ってすぐはバイトが「ないない」というてました。
ききて)アルバイトは、何をやっていたんですか?
父・健八さん)家庭教師やってたんです。
築山さん)仕送りも全然使ってなかったみたいですね。
父・健八さん)行ったら、子どもにあんまり教えんと、一緒にゲームをしとったんっていうて(笑)。
築山さん)そんな(笑)。
父・健八さん)葬式済んでから、うち来てもらってね。
築山さん)家庭教師の教え子が、(手を合わせに)来てくれたんです。
父・健八さん)ええ成績になってはったみたい。
(写真:インタビューに同席してくれた裕子さんの息子・フミヤくん 2024年11月3日午後 兵庫県西宮市で)
兄が好きだったものが知りたくて、遺されたCDを聴いていた
築山さん)(インタビューのそばで遊んでいる息子・フミヤくんの頭をなでながら)この子のこの辺が兄に似ているんです。父も健吾に似てると言っていました。髪質がサラサラなところや色が少し栗色のところです。
築山さん)下宿に残っていたものの中にCDが残っていました。サッカー部の友達から兄が借りたもので返さないといけなかったのですがそのまま借りて聴いていましたね。洋楽はそれまでは聴いたことはなかったんですが、震災以降しばらくずっとそのCDを聴いていました。
ききて)どんな思いで?
築山さん)ねえ、やっぱり兄が好きだったものをね、知りたいなと思って。兄の事が大好きで尊敬してたので生前はよく兄のまねっこをしていました。でも、真似っこもできないんで、せめて今残されているものだけでも知りたいなと思って。ずっと聴いてましたね…(涙を拭いながら)。
ききて)地震があってから、下宿跡には行かれましたか?
築山さん)そうですね。中・高が近くだったので、命日には行っていました。
築山さん)おそらく、神戸大学のお友達だと思うのですが、花が手向けられていました。一緒の思いでいてくださるんだなと思って、うれしかったですね。
(高校時代の健吾さん)
同じ歳になった時、お手本がいなくなった悲しさがこみあげてきた
ききて)時を経て、気持ちが変化していったことはありましたか?
築山さん)そうですね…(涙ぐみ天を仰ぐ)…同じ歳になった時、追い越した時はすごく悲しかったですね。(涙でつまる)…ずっと兄をお手本にしてきたので、お手本がなくなったというか、ちょっと途方にくれたところはあったかもしれないですね。
築山さん)自分の大学生活がすごく楽しかったので、こんな生活を送れなかった兄の無念も感じましたね。
築山さん)毎年(兄の友人たちが)来てくださるので、その方々に結婚してお子さんができたりなんかすると、生きていたらこんな感じなのかなと…。
どんどん年をとって、今年で49歳かな。みんないいおじさんになってはって兄もこうなってたのかなと思いを馳せております。この子たちとも遊んでくれて。
息子・フミヤくん)誰が?
築山さん)あのおっちゃんら。去年は、よう遊んでもらったやろ。(涙を拭う)
築山さん)歳をとったらどうなってたんやろうな、会いたいなって思うことはよくありますね。
震災30年 受け入れるのに時間がかかった
ききて)震災のあと、お父さまお母さまと、お兄さまのことについてお話しされたりすることはあるんですか。
築山さん)最近になってですね。やっぱり震災から10年、20年の間は受け入れるのに時間がかかりましたね。
築山さん)ちょこちょこはお兄ちゃんの話をしていましたけど、しっかりと向き合って残してあげたいなって思えるようになったのは最近ですね。これまでは寂しくて思い出して話すことが辛かったです。その当時の気持ちや心境、あとお兄ちゃんへの今の気持ちなどを改めて家族でしゃべることはなかったですね。ただもう忘れる前に、家族でこれからは話したいなと思います。
ききて)30年経って、なにか残していきたいなというふうに考えておられるのでしょうか。
築山さん)そうですね。遺品の整理が全部はできていないのが気になっているのでしたいのと、こうやって皆さんにメディアに出してもらえたら残っていくのかなと思っています。
大学慰霊碑前での献花式 震災を思い出すきっかけにしてほしい
ききて)神戸大学の六甲台第1キャンパスの慰霊碑の銘板には、亡くなった方々のお名前が刻まれているんですけども、慰霊碑のことはご存知ですか?
築山さん)はい。何年か前に行かせていただきました。
ききて)それは1月17日に合わせて、昼に行われている献花式に?
築山さん)はい、参りました。一人で行きました。娘とは、東遊園の方に行きました。
ききて)それは何か心境の変化で行かれた?
築山さん)心境の変化ではなく、仕事が忙しかったので行けなかったのですが、休みをもらえたので行きました。
ききて)その時の大学慰霊碑を、どうご覧になられましたか。
築山さん)こうやって忘れずにしていただいているのはありがたいなと思いました。参加してはる遺族の方も少なくなってきているというようなことも聞いたので、来れなかった分もこれからは行かせていただきたいなとは思っています。
ききて)大学の中で慰霊碑があるということをやっぱり後輩たちにもっと伝えられるんじゃないか、忘れちゃいけないんじゃないかと思うのですが。
築山さん)そうですね。大震災を経験したことのある神戸大学に通っておられるなら、その学生さんには少しでも知っていただけたらいいかなと思いますね。
築山さん)父は強がりを言って、もうそのうち(墓前に)だれも来なくなるわ、みたいなことを、ずっと言ってるんですけど…。
ききて)でも、お友達も、お墓に来てくださいますね。
築山さん)はい。(こんどの)30年の時ももう来てなくなるわ、と言ってたんですけど、やっぱりその裏には気にかけてほしいという思いがあるんだろうと感じてます。
築山さん)こうやって(大学で慰霊の)式典をしてもらってニュースになれば犠牲者を思い出してくださる方も沢山おられると思いますし、地方から来られていてご存じない学生さんにも気にかけていただくいい機会になると思います。
(取材:奥田百合子、佐藤ちひろ/蔦旺太朗、熊谷孝太)
<2024年11月3日取材/2024年1月7日 アップロード>
【慰霊碑の向こうに】20 故・橋本健吾さん(当時 医学部医学科1年)=妹・築山裕子さん、父・橋本健八さんの証言=<前編>