80年前に終戦を迎えた太平洋戦争。戦争末期は港湾都市として栄えていた神戸は、他の大都市と同様に米軍の本土空襲の標的となった。
現在の神戸市に含まれる地域は、何度も空襲にあった。「神戸大空襲」といわれる大規模な空襲だけでも、1945年(昭和20年)2月4日(日)昼、3月17日(土)未明、5月11日(金)朝、6月5日(火)朝、8月6日(月)深夜の5回を数える。
被災した家屋は14万戸を超え、亡くなった人は7524人、負傷者1万6948人という惨禍をもたらした。(神戸市『神戸空襲の概要』https://www.city.kobe.lg.jp/a44881/bosai/disaster/war01/war02.html)
神戸に米軍機が襲来する中で、神戸大の前身校の校地も、爆弾や焼夷弾、機銃の攻撃を受けた。神戸経済大(神戸高等商業学校、神戸商業大学から改称)、神戸経済大予科、神戸工業専門学校(神戸高等工業学校から改称)、兵庫県立医学専門学校、高等商船学校神戸分校(神戸高等商船学校が統合改称)、兵庫師範学校(御影師範学校と姫路師範学校を統合した兵庫県師範学校と、兵庫県明石女子師範学校がさらに統合)の校舎や施設が米軍の空襲にさらされ、学生・生徒・職員の命も失われた。
神戸大学大学文書史料室の資料をもとに、その記録を、シリーズでたどる。<編集部>
◯ ◯
●1945年2月8日
小型爆弾が神戸経済大の国維寮に投下され、学生1名死亡

(写真:旧神戸高等商業学校正門前にあった国維寮 神戸大学大学文書史料室提供 )
神戸経済大が六甲台に移転しても、学生寮の「国維寮」は元の上筒井(現・中央区上筒井通2丁目付近)にあった。『神戸大学凌霜七十年年史』(1976年6月5日発行 財界評論新社)には、「昭和20年2月8日の空襲により国維寮に爆弾が落下し学生1名が犠牲となった」とある。
神戸経済大の『大教授会記録』の綴には、昭和20年2月8日木曜の午後2時40分から行われた「大教授會々議録」の項目に、「『學長報告』 今暁ノ空襲ニ依リ小型爆弾国維寮ニ落下シ十六回生M(原文は実名) 其ノ犠牲トナリタル旨報告ス」とあり、欄外に「十日 寮葬ノ予定」とある。
大学の敷地内で犠牲者が出た、最初の記録だ。

(写真:当時の国維寮があったあたり。現在は神戸市立筒井台中学、同上筒井小学校の門がある 2025年8月撮影)

▼連載【終戦80年】空襲下 キャンパスで失われた命 <リンク>
<1> 小型爆弾投下 旧国維寮で学生が死亡
<2> 深江校地は36発被弾 遺体は浜で茶毘に附された
<3> 猛火を逃げ惑う寮生、登校中に命落とした仲間
<4> 洋上の練習船にロケット弾 6人が爆死
<5> 終戦間際にも焼夷弾攻撃、焼け落ちた煉瓦造り
つづく
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