80年前に終戦を迎えた太平洋戦争。6月5日の空襲では、神戸市東部や阪神間が米軍機に狙われた。神戸経済大予科、兵庫師範学校で犠牲者が出た。神戸大学大学文書史料室の資料をもとに、その記録をたどる。<編集部>
●1945年6月5日 朝
神戸経済大 国維寮、弓道場が全焼
神戸経済大予科 御影校舎、思誠寮が全焼、寮職員2名、学生1名が死亡
兵庫師範学校男子部 御影校舎、寮が全焼 生徒に死傷者
神戸市東部と阪神間を中心に空襲を受けたのは、6月5日だった。
『神戸大学凌霜七十年年史』(1976年6月5日発行 財界評論新社)によると、「6月5日にはB29350機が神戸を大空襲し、予科仮校舎、思誠寮、国維寮、弓道場が被災して全焼し、予科学生1名と職員2名が犠牲となった」という記述がある。
2月8日の空襲の爆弾投下で学生1人が犠牲となった上筒井の国維寮は、この日、ついに焼け落ちた。
「弓道場が被災」とあるが、現在と同じ場所の六甲台グラウンド北端の弓道場が全焼したという証言が、終戦80年のこの夏、神戸大学大学文書史料室にもたらされた。六甲台にも空襲の被害が及んだことになる。
神戸大学大学文書史料室の調査によると、神戸経済大予科の思誠寮(現在の東灘区御影中町8丁目付近)が全焼し寮職員2名、生徒1名が死亡。兵庫師範学校男子部では御影校舎(現在の東灘区御影中町3丁目付近)と寮が全焼し、深田池付近予科1年生2名、御影校舎で予科2年生2名が死亡。被災地は不明だが、本科3年生1名が亡くなっている。

(写真:思誠寮<北寮>の建物 1940年代 神戸大学大学文書史料室提供 )
神戸商業大学予科凌霜思誠会発行の『予科よ 永遠に』(1990年5月12日 神戸商業大学予科記念誌編集委員会)には、6回生の新田信雄さんの手記が掲載されている。猛火に囲まれ逃げまどった寮生や職員、そして学友を失ったことが書かれている。
6月5日の朝であった。当時の寮(思誠寮)生、佐藤さん、伏喜君、白石君、伴仲君、原口君、乾君、宮崎君と小生の8名(学徒動員に行っていなかった者のみ)は、定刻時に起きて自習をしていた。やがて6時が来たので、一同寮庭へ整列、朝礼を行う。昨夜の宿直は石井教授と小原助教授であった。宮城遥拝、故郷に朝のあいさつ、師弟の礼が交わされて、いよいよ体操にとりかかろうとする刹那、突如としてうなり出したサイレンの音。(中略)
間もなく、予期していたように空襲警報発令、(中略)同時に駆けつけた朱牟田予科長代理もりりしく働いていたが、先ずなによりも腹ごしらえを十分しておかなければならないというので、大急ぎで食事の用意を頼み、自分たちは運びに行って、炊事の渡辺さんと冗談を言ったりしていたが、思えばこれが彼女の最期であったのである。(中略)
半鐘が鳴り出した。敵機来襲だ。すばやく防空壕にとびこんだ。やがて耳に入ってきたごうごうたる爆音、相当数の編隊であるように思われた。その瞬間、「ドン」「ドン」「ドン」と百雷が一時に落ちるような轟音が数分間続いた。爆音はいつまでも消えなかった。そのまま息を殺して壕の中にいたが、一番入り口の所にいた伴仲君が出て大声で「消火消火」と叫んだ。しかしもうその時には、壕中に煙が立ち込め、臭いにおいでいっぱいになっていた。このままここにいたら焼け死んでしまう。中にいた者は皆次々に飛び出していった。(中略)
掲示板の所へ出てみると、もう一面に火の海であった。これはどうしたことか!わずか数分の間に猛火の巷と化しているではないか。若い寮生たちは次々と燃え盛る炎を潜って出ていった。(中略)その時まだ残っていたのは佐藤さんと渡辺さんであったが、佐藤さんはそのうちに火の中へととびこんでいってしまった。逃げ場を失った渡辺さんは本田さんとともに悲痛な叫び声をあげながら駆け回っていたが、火の中を潜ることができず、ついに南寮の入り口のところで顔を手で覆い、ばったりと身を伏してしまった。(中略)
(中略)腰にぶら下げていた手拭いをとって顔を覆い、西の道をまっしぐらに走った。薬局の前の十字路まで来た時、散らかっていた電線に足をとられ、ばったりと転んだ。そして被っていた鉄兜と白線帽の落ちたのは知っていたが、それを拾う余裕はなかった。急いではね起き、また走り続けた。
(中略)
大略数十米、いや百米も走っただろうか、憲兵隊の前まで来ると、もうそこには火気はなかった。避難者が続々と山手へと道を上っていく。途中の道端には黒こげに焼けただれた死体が無数に転がっている。
線路の所で乾君に会ったが、彼もひどく火傷していた。これが彼を見た最後であった。
▼当時寮にいた人々(14名)の健否
朱牟田予科長代理 手及び顔火傷
石井教授 九死に一生
小原助教授 手及び顔の一部
山田小使さん 無事
同夫人 重傷後死亡
息子 雄三君 焼死
渡辺さん 焼死
本田さん 焼死
乾君 顔・手・背中(後死亡)
佐藤さん 顔・手足(軽)
原口君 顔・両手足(重)
伴仲君 無事
宮崎君 無事
新田 顔・両手
(編集部注:原文のまま掲載しています)

(写真:思誠寮のあった場所=現在の東灘区御影中町8丁目付近=は住宅や専門学校が建っている。左端はJRの高架。当時は省線が走っていた 2025年8月撮影)
◯ ◯
この日は、兵庫師範学校男子部の御影校舎(現在の東灘区御影中町3丁目付近)と寮が全焼し、人的被害も出た。

(写真:空襲で全焼した神戸経済大学予科・兵庫師範学校男子部の御影校舎 1918年ごろの御影師範学校時代に撮影されたもの 神戸大学大学文書史料室提供)
兵庫師範学校男子部予科に4月に入学した荻野正裕さん(旧制柏原中学出身)は、御影寮(現・阪神御影駅の北側)で暮らし始めたばかりだった。6月5日、住吉校舎(赤塚山)へ登校途中、深田池付近で空襲にあい、仲間を失った。荻野さんの日記には、深田池付近で予科1年生2名が亡くなった経緯が記されている。
荻野正裕「日記」
6月5日 火曜日 曇
朝礼をしていたら警戒警報になり、続いて空襲警報が発令されたので避難の準備をした。(中略)平常通りに登校せよと申されたので並んで登校した。
四組が一番後になり、又踏切で電車(現・JR)に逢って他の組と非常に離れた。深田池の処迄来ると誰かが『敵機』と叫んだ。見るとB二十九編隊だ。(中略)突然『ザー』と不気味な音がする。落下音だ。「あぶない」と思って思わず横の溝の中に伏した。
音がやんだので又駆け上り溝の中へ伏せた。今度は近くに落ちたらしい。登る途中下を見るとえんえんと燃え上がって居る。
附属国民学校の下迄来ると私の前へ何かが落ちて炸裂したので非常にびっくりした。それから山へ駆け登った。(中略)空が煙に覆われて夜になった様に暗くなり雨が降り出した。雨のつぶは真黒だ。校舎に入ったら誰が誰だかわからない。
四組の者は8人しか居なかったが教室に居たら3人4人増して来、無事である事がわかった。NとA(原文は実名)は深田池のところで死んだと聞きたいへんかわいそうであった。(後略)
6月8日 金曜日 晴
学友N、Aの死体を火葬場に運ぶ為に2年の四組と共に下へ下りた。寺より4人の死体を大八車に積んで海辺の火葬場に運んだ。(後略)

(写真:現在の深田池 2人が亡くなった池の周辺は今はマンションなどが建つ閑静な住宅街だ 2025年8月撮影)

▼連載【終戦80年】空襲下 キャンパスで失われた命 <リンク>
<1> 小型爆弾投下 旧国維寮で学生が死亡
<2> 深江校地は36発被弾 遺体は浜で茶毘に附された
<3> 猛火を逃げ惑う寮生、登校中に命落とした仲間
<4> 洋上の練習船にロケット弾 6人が爆死
<5> 終戦間際にも焼夷弾攻撃、焼け落ちた煉瓦造り
つづく
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