80年前に終戦を迎えた太平洋戦争。深江校地は、終戦の日の前週の8月7日にも焼夷弾と爆弾による夜間空襲を受け、赤煉瓦造りの本館など残っていた建物も焼け落ち、旧神戸高等商船学校のほぼ全ての施設が焼失してしてしまった。神戸大学大学文書史料室の資料をもとに、その記録をたどる。<編集部>
【8月7日】
高等商船学校神戸分校・海技専門学院・短期高等海員養成所 本館、機関工場が全焼
校内で焼け残ったのは電気実験室のみ
深江校地は、終戦の日の約1週間前の8月7日にも焼夷弾と爆弾による夜間空襲に見舞われ、5月の空襲でわずかに残っていた赤煉瓦の本館と機関工場など、旧神戸高等商船学校のほぼ全ての施設が焼失してしまった。
『神戸商船大学50周年記念誌』(1971年9月20日発行)には、戦後まもなくに写された写真が掲載されている。

(写真:海技専門学院深江実習場の正門の状況。『神戸商船大学50周年記念誌』から )
同誌には、「これは芦屋市に在住して戦前戦後を通じ長く船医をされていた藤田武夫氏の撮影にかかるもので、昭和二十一年の十月頃の学校の状況とみられる」とある。
シンボルだった赤煉瓦の外形はかろうじてわかるものの、窓枠が失なわれて焼け落ちた姿が痛々しい。
同誌は、「ただ正門の扉の両側に大きなコンパスマークの校章がとりつけられ、右の門柱に『海技専門学院実習場』と大きな表札が掲げられていて、右の方に続く塀が新しく板で補修されているのが、廃墟を守りぬき復興への耐え難い苦痛を忍ぼうとする気迫をみなぎらせていて救われる思いである」と記している。
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神戸市は太平洋戦争下の空襲で、14万戸を超える家屋が被災し、記録されているだけで7524人の命が失われた。(神戸市『神戸空襲の概要』https://www.city.kobe.lg.jp/a44881/bosai/disaster/war01/war02.html)
六甲台本館こそ直接の攻撃を免れたが、神戸経済大(神戸高等商業学校、神戸商業大学から改称)は弓道場と学生寮が空襲をうけ、寮生が犠牲になった。
さらに神戸経済大予科、兵庫県立医学専門学校、高等商船学校神戸分校(神戸高等商船学校が統合改称)、兵庫師範学校(御影師範学校と姫路師範学校を統合した兵庫県師範学校と、兵庫県明石女子師範学校がさらに統合)の校地や施設でも爆弾や焼夷弾、機銃掃射で若い命が失われた。
戦地だけでなく、私たちの学びの場でも、空襲によって尊い命が失われた歴史があることを忘れてはならない。
このシリーズは、神戸大学大学文書史料室の資料をもとに記事化しました。

▼連載【終戦80年】空襲下 キャンパスで失われた命 <リンク>
<1> 小型爆弾投下 旧国維寮で学生1名死亡
<2> 深江校地は36発被弾 遺体は浜で茶毘に附された
<3> 猛火を逃げ惑う寮生、登校中に命落とした仲間
<4> 洋上の練習船にロケット弾 6人が爆死
<5> 終戦間際にも焼夷弾攻撃、焼け落ちた煉瓦造り
<シリーズ終り>
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