六甲道駅の東のマンション群を抜けて2、3分歩いて行くと、アパートや戸建て住宅の中にぽっかりと空き地がある。かつて岩田文化住宅というアパートがあって、神戸大生らが住んでいた場所だ。1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災の激震でアパートは全壊。神戸大生4人が亡くなった。1カ所で一番犠牲者が多かったのがここだ。ニュースネット委員会は18年ぶりにこの場所を訪ねた。<久保田一輝、本田愛喜>

(写真:岩田文化住宅の跡地は更地のままだった 2025年11月24日 画像の一部を加工しています)
灘区備後町2丁目。岩田文化住宅は木造二階建てで、15戸があった。ここで、磯部純子さん(教育・4年)、歯朶原孝さん(理・3年)、梶達雄さん(理・2年)、細井里美さん(農・2年)が被災し、亡くなった。全員が1階の住民だった。
現在、アスファルトやコンクリートで覆われる都市部だが、ここは六甲山系の白っぽい土に雑草が根付いている。ところどころに、むき出しのコンクリート、風化した金属製のパイプが地面から突き出ている。
訪れた11月下旬、空き地の片隅には小さいピンク色のカタバミの花が密生して、風に揺れていた。

(写真:コンクリートの基礎が残されている 2025年11月24日)
バス道沿いの鉄筋コンクリートの高層マンションの間を抜けると、静かな住宅街になっている。震災の後で建ったと思われる戸建て住宅が並んでいる。買い物袋を提げて歩く人、散歩をする人などもいて、人々の“日常”がある。
隣の敷地に数年前に引っ越してきたという30代の男性は、「私たちが来た時から、ここは更地のままですね」という。
同じ2丁目に住み、マンション1階で古銭業を営む福家さんは「自分たちの家は鉄筋コンクリートだったから、半壊だった。この辺りのほとんどの建物は横倒しになっていた。岩田文化住宅のアパートは2階では助かった人もいたそうだけれど…。私たちは(近くの成徳小学校に)避難することで必死だったんですよ」と31年前を振り返る。

(写真:高層マンションの東側の静かな住宅街に跡地はひっそりと残っていた 2025年11月24日)
震災から2年後の1997年にニュースネットの記者がここを取材したとき、家主の岩田さん(当時56)は、「築26年か27年の建物でしたからねぇ。当日は神大生が助けに来ていました。そして、2日目になって機動隊の方が遺体を出していました」「ワンルームのアパートを建てる予定ですが、なかなか決心がつかないんですよ」と語っていた。
そして、31年後の今も、更地のままだ。複数の不動産業者に取材すると、全壊したアパートが片づけられた後も、この土地には一度も建物が建てられていないという。「土地を売ってほしいという声は何度もかかるんだけど」。持ち主はこの土地を売ることを断り続けていると話す。
よくこのあたりを散歩するという澤田保正さん(77)は、「自分は震災当時、石屋川のあたりに住んでいて、(近隣で起こっていた火事の)火を消すので大変だった。(震災後)3日で髪の毛が真っ白になった」と語りながら、カタバミの花を撫でた。
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1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、神戸大生39人が命を落とした。神戸市内や阪神間の28のアパートや下宿で37人が、自宅や自宅周辺で2人が亡くなった。多くが圧死で、少なくとも3人が焼死だった。

(写真:地中から突き出た金属製のパイプ 2025年11月24日)
【震災特集1997】「震災から2年 下宿街は今…」=
https://kobe-u-newsnet.com/newsnet/sinsai/tokusyu97/
(1997年1月17日発行紙面をアップロード)
【震災特集1996】震災から1年「あなたのことを忘れない 神戸大学四十四人への追悼手記」=
https://kobe-u-newsnet.com/newsnet/sinsai/tokusyu/tuit_top.htm
(1996年1月17日発行紙面をアップロード)
写真下は、「震災特集1997 震災から2年 下宿街は今…」の取材時の写真。
岩田文化住宅は、基礎部分がほぼそのまま見えていた。今は、右下隅の部分が
残っている。(1996年12月ごろ撮影 取材:矢吹大佑、堀江悟)

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了
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